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ただしく怒ることの難しさ

ただしく怒ることは多分、めちゃくちゃに難しい。スキルのいる行為だからだ。
怒り方の理解が貧しい。
「怒る」という行為が、まだまだ人間の中で、というよりは日本人の中で、発展途上だと思っている。あくまでも、私の妄想だけど。

奇奇怪怪明解事典のウィルスミスの回を聴いていた。

奇奇怪怪は私の大好きなpodcasterだ。DosMonosのラッパー・Taitanと前もここで紹介したMONO NO AWAREのボーカル玉置さんのコンビ。
彼らの配信の味わい深さはまた別のところで語るとして、今回はウィルスミスの平手打ち事件について2人が話していたことから考えたことを書いてみたい。

確か、日本からのコメントの半分は「ウィルスミスかっこいい、自分の妻のことであんなに怒って壇上まで上がる勇気がすごい」というのがあったのに対して、海外では「妻のために夫が立ち上がるそのスタンス自体がジェンダー的にどうなんか」という反応で、それでショックを受けたのだ、という導入だった。
「この問題を語るには、人種やジェンダー、日本とアメリカの社会的歴史的文脈、アカデミー賞という権威の空間、などあらゆる文脈が交錯しているから難しい問題だけど」という前提の上で、二人は「あの行為全体に対する是か否かのざっくりとした解釈ではなく、もっと細かくみていくことが必要だよね」という話をしていた。
(ここから先の話は時間の関係でかなり端折っているので、ぜひ上の配信も聴いてみてください。)



ともかく、印象的かつ一番共感したのは、「その場で怒れることって、すごいことだよね」という彼らの意見だった。多くの場合、ムカついたりイラつくことはあっても、でもその場で怒れるわけないよね、と。
確かに、内容自体は重く、怒る理由もよくわかる。私の推しのフロントマンは「立ち上がる必要はなかったかもしれないけれど、身内を侮辱された時に強い怒りが出てくるのもわかるよね」と話していた。それが暴力はだめだ、という話と、果たして二元論で語れるものなのか?という内容になっていく。

そこからさらっと1回単語だけ出てきたのは怒るという行為にテクニカルな部分があるよね、ということだった。
なるほど、怒ることは確かにスキルがいるものなのかもしれない。そういえば最近怒ったことはあっただろうか。

ムカつくことやイライラすることは今もあるが、それが怒りまで成長して「その場で怒った」ことは、もう記憶ではない気がする。
誰かにムカつくことはあっても、「あ、縁が切れた音がしたなあ」と心の中で思ってサッと静かに身を引くか、そういう者だと思って心を無にして扉を閉めるしかしない。怒りはポジティブな行為以上に体力がいるものだからだ。文化部気質でただでさえ貴重な私の体力を、余計な場所に割くわけにはいかない。

もしかしたら私が怒る時は、激オコ案件が起きた以降もその人との関係を続けようとしているパターンで、そのために強く改善を求める時なのかもしれない。逃げられない、一緒に生きていかなくてはいけないもの(あるいはその覚悟を決めたもの)に対して、はじめて怒るのかもしれない。だから政治や国や傲慢な権力者、企業などには真剣に怒る。私の生活と、縁を切ろうにも切れないからだ。デカすぎて。
でも、それ以外のどうでもいい人ならすぐに切れる。人生は用が済めば勝手に去っていくシステムだし。

ところで、怒りは激しい感情であるがゆえに、歴史的にみても常に暴力や戦という形で昇華されてきた。そのトラウマと反省を経て、今は怒りというものは最大限の注意を払い、できれば行使するべきではない人間の感情として扱われている。

しかもパワハラのような日常的に潜む無自覚な怒りに名前がつけられることによって、私たちは「なぜ、どの怒りがだめなのか」という議論や理解をする前に、怒り、すなわち即座に許されない感情、という感覚がまず染み付いてしまっているように思う。怒りへの理解があまりにも貧しすぎる。poorだ。

確かに理不尽な昭和のオヤジ的ノリの「怒り」は撲滅すべきだが、それと差別や性暴力への怒りや政治の怒り、戦争や社会への怒りは全く違うはずだ。前者はそれこそワガママなものだが、後者は結局個人の権利や共同体の利益を願って心の底から込み上げてくる強い主張、と言った方が良い。なんのためにもならない「怒り」と、いつか誰かのためになる怒りは全く違う。そこの理解や歩み寄りや、すり合わせが全然できてないんじゃないか。

少し前によく言われていた「アンガーマネジメント」とかは多分、昭和のオヤジのような、誰も幸せにしないであろう個人的な「怒り」をぶちまける人たちが習得すべきスキルだった。命に関わる何か切実な願いや主張を持っている人間が獲得すべきものではなかったのだ。それが、なんでもかんでもアンガーマネジメントで収束されるようになったから、然るべき主張や怒りが冷笑主義者によって嘲笑われ、poorになってしまった、というのが私の考えだ。

決してウィルスミスの行動が100%ただしい怒りだとは思わないし、怒りを変に助長しているわけではないのだけど、一件に対する反応をみて、怒りというものにアレルギー反応をもつ人はやはり多そうだと思った。

ただしい怒りとはなんだろう。もう一度考える必要がある気がしている。
何に私は怒る?
いつ私は怒るべき?
何をされたら怒る?
どんな行為をすれば怒れる?

最近、真剣に怒ったことはありますか?

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