見出し画像

溺愛弟

16年前の今日は、気持ちの良い秋晴れの日だった。

空は文字通り高く、気温はすこしだけひんやりとしている10月のなかば。さみしいような、清々しいような朝に目覚めてすぐ、

「弟が生まれたよ」

と父親から聞かされたのが最初だった。

8歳下の末の弟が生まれたのは、
もっと言うと彼の人生がはじまったのは、そんな日だったのだ。

生まれたてのゴミひとつ付いていないベイビーが、土や風にもまれながらも竹の子のようにぐんぐんと成長していく、その様子をまじかに見るのはなんだかとても不思議な気持ちだ。

同じひとりの人間であるはずなのに、全く異なる生物のようにも感じられる。大きくなってから彼が好きになるものは、間違いなく自分やまんなかの弟の影響を受けていて、私たちはたしかに同じ道を通って成長していると思うことが多々ある。でもそれと同時に、時代や彼の周りの環境を受けながら自分達とは全く異なる新しい要素もミックスされていて、「似ているんだけど違う、違うんだけど同じ」という、奇妙な、そして兄弟のうち他の誰でもない彼という人格がいつの間にかつくりあげられていることに毎回驚く。もしかすると、子育てってこんな感覚なのかもしれない。

小さい頃は全く思わなかったけれど、自我が芽生えた彼と私は面白いくらいに似ていると最近はよく思う。勉強そのものやコツコツと何かを積み重ねることが嫌いなこと、なんの根拠もなく自分はカッコいいと思っていること、他の人にはあんまり理解されないブレない芯を内に持っていること、音楽の趣味、好きな女の子のタイプ。

「私が男だったらこんな感じかもな」と思えるくらい、彼を見ていると強烈なシンパシーを感じる。格好をつけるために高い香水をつけたり、ファッションに目覚める彼が、ダサくて痛くて、それ以上に愛おしくて愛おしくてたまらない。

彼が中学へ上がってからは、もう愛息子のように溺愛してしまっている。「ちゃん」づけで呼ぶし、誕生日にはpaypayで貢ぐし、デロデロに甘やかしてしまう。(だって可愛いんだもん! くしゃ〜ってしたいんだもん!)

弟と同じ年齢のころ、私は自分のことが大嫌いだった。もっと痩せたかったし、もっと可愛くなりたかったし、なによりモテたかった。なんでもいいから1番になりたかった。でもどれも向いてなくて、何をするにも1番になれなかった。余裕も欲しかった。「クラスのことなんて、放っておけばいい」という楽観さがほしかった。

ふりかえってみると、あの頃の私は内側に大きな大きなブラックホールを抱え込んでいたと思う。真っ黒で、外のものを無差別になんでも吸い込んで、そのくせ吸い込んだものがどこへ行くのか、自分の中でどういうふうに消化されているか、何がなんだか認識できていなかったあの頃。そんなぐちゃぐちゃな自分の存在をとにかく誰かにまるっと認めてほしくて、わかってほしくて、キツい恋愛をしたり家族にぶち当たったりもした。

そんな高校生の頃に戻りたいかと言われると、私は真っ先に拒否すると思う。青春はポカリスウェットのCMみたいに綺麗なものではない。食えたものじゃないし、ましてやそこを生き抜いた大人が再生産するようなものではない。そんなことを世の中の大人たち、特にああいうCMをつくってしまうおっさんたちはとうの昔に忘れてしまっているのだ。
もう2度とあんな辛い時期には戻りたくないし、あんなグロテスクなものを抱え込みたくない。それが私の中での青春だった。

広島にいる彼の様子を母親から伝え聞きで知ったり、たまに本人ととる連絡から想像してみるに、どうやら彼も何かとてつもないものを内側抱え込んでいるような気がする。本人ですら気づいていないうちに。

同じイバラの道を通った姉としてできることは、そんな彼をとにかく無条件に認めて、いっぱい愛して、できるだけ自由に生きてもらうことしかないような気がしている。ここに持ってくるべきは、「16歳か〜!若いねえ!」という羨望や若さへの憧れ、勝手なノスタルジーではない。大人の私たちができるのは、青春な彼らをひとりの人間として大きく認めること、迷う彼らを大人の世界に招き入れること、そしてまだ未熟な、出しどころに困っているパワーを包みこむことではないだろうか。

……とまあ、そんな生真面目なことをまた考えている私であるが、ともかく今日16歳になった彼のことが好きで好きで、愛おしくて愛おしくてたまらない。子どもを産むなら男の子がいいとなんとなく思うのも、かわいい弟がいるせいだ。

姉から弟へ、溺れるほどの愛を。荒波を、悠々と切り抜けられるほどの愛を。
あなたの1年が、幸せで楽しいものになるよう祈っています。






最後まで読んでくださりありがとうございます。 いいね、とってもとっても嬉しいです!