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10分間の出来事

家を出るほんの10分前、今季初のGと邂逅した。すでにわたしの親指ほどの大きさにまで成長している。朝の光を浴びたせいか、夜行性らしい奴の動きはかなり鈍い。天袋を囲う、木の枠の上を歩いていたところを発見した。

しかしこちらは乗る電車が決まっているので、じっくり格闘している暇はない。その上、夏前なのでジェットアースのようなものも持ち合わせていない。しとめるには最近買ったクイックルワイパーの柄を最大限まで伸ばしてシートで丸めるしかない。

しかしそれを残り10分でしてやれるだろうか…そもそもどこから入ってきたのだろうか。配管?  前の居住者が適当に張り替えたあの網戸に空いている1センチくらいの隙間? 1匹部屋に出ればほかの数匹があたりに潜んでいる、などという説も思い出した。やはり夏は嫌いだ。

そんなことを考えつつ、のろのろと天井近くを這う奴を見ながらわたしも呑気にタバコを吸っていた。よく見ると触角らしきものは鋭敏に動いているらしい。背中は蜂のように縞々の横線が入っていた。

家を出るまで残り8分、5分、3分……。

その間に右へ行ったり左へ行ったり、すこしだけ立ち止まったかと思いきや天袋の枠の窪みのようなもの(があるらしい)に入り込んだりした。隠れたかと思いきやまたよじのぼってくる。動きに生物らしい統一感や道理がない。

10分もの間、ついにわたしはイスから立ち上がることなくまじまじと見つめ、そのまま家を出てきてしまった。

なんだか心底愚かに思えてきたのだ、奴のことが。餌も何もない、天井近くを早朝から行ったり来たりしながら徐ろに動く。自分よりも何倍も身体が大きい生物が今にも殺してやろうかと息を潜めているのにも関わらず、そんな危機感を微塵も感じられない呑気さ。わたしの手元に兵器があれば一瞬で死んでいただろう。焦ったように逃げる姿が全く思い浮かばなかった。

ためしにラジオの音を大きくしたり、近くで煙草の煙を燻らせたりしてみたが、悲しいほどに全く反応しない。奴には音や煙も効かないらしい。
こちらには一才目もくれず、ただ自らの赴くままにあてもなく歩き回る。その応答のなさに、物足りなささえ覚えてくるほどだ。

そんな奴を見ていると、段々と自分のことがマシに思えてきた。さすがにあそこまで愚かではないだろう、と。あの生物としての覇気のなさ、外への無関心さに比べれば随分マシだ。

今日の帰り、一応奴を仕留めるグッズは購入して帰るが、おそらく同じ場所にはいない。どうするんだろう、出てくるまで生活を共にするのだろうか。

今日の最高気温は28°。朝から半袖のまま、上着も持たずに家を出てきた。まだ刺すほどではない日差しが、それでも腕の皮膚の隙間からじわじわと入り込んでくるのがわかる。

今年も嫌いな夏がやってくる。



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