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見えないもの:祈られて生きる

今日は1日中胸がざわざわしていた。

SNSで反戦デモの様子をずっと見ていたからかもしれない。

傷つきやすさに躊躇して、なるべく深入りしないように現状を見ている自分自身のこと。どんなに考えても、今日も私はおなかいっぱいまで食べれて昼までぐっすり眠れること。全体的な申し訳なさ、無力感のこと。有事のときに魂を燃「やせる」人のこと。
言葉にならない、どちらかというと憂鬱な気持ちが駆け巡って心が1日ざわついていた。

気分転換に、よみかけだった本を読んだ。

これがすばらしくよかった。この本がというより、この小松さんご本人の考え方がすばらしくよかった。小松さんは現代のシャーマンだ。見えないものを色や絵に落として、観る者の頭ではなく、深層心理にその世界の存在を知らしめようとする、巫女的なアーティスト。

「神を描かずに神を描く」と言っていたのが印象的だった。
幼い頃から道案内の犬が見えていたこともあって、今も狛犬などの神獣をモチーフに、スピリットという「魂」を自分の体を通して描いているそうだ。
どこかの場所(出雲大社や伊勢神宮など)をモチーフにして描くとき、必ず現地に足を運び、そこの土地で自分が感じたものをそのまま絵に落としていくと言っていた。スピリチュアルな言葉を使うとするならば、チャネリングということなのだろう。

こうやって「神」やら「魂」やらのぼんやりとした言葉をつかうと、すぐに「オカルトかよ」「スピ乙」と言って全てをシャットアウトしてしまう人がいる。恐れながら開いてみたAmazonのレビューでもそういう趣旨の意見が多く寄せられていて、誤解の多い世界に従事することは大変だなあと思った。否定するわけではないが、私自身はもったいないと思う。

よく、見えないものをいっさい信じない人がいる。そういう人にとっての「見えないもの」はたぶん、自分が存在を証明できない「よくわからない」ものなんだと思う。説明がつかないもの。
けれど私の考えでは、この「見えないもの」、つまりは気のようなものこそがこの世の潤滑油になっていると思う。そうした見えない気を作品、つまり見えるものに落とし込めるアーティストのことを、私は尊敬してやまない。
世界でいちばん好きな作家、吉本ばななもそうだと思う。祈りを言葉のつらなりのなかに込められる人だ。

人は生まれてこのかた、誰かから1回も祈られずに生きている人間などいないと思う。
生まれる前は多くの人が「元気に生まれますように」と祈られてこの世に出てくるし、小さな子供は「すくすくと、やさしい子供に育てられますように」「今日も元気で帰ってこれますように」と願われ祈られ、それはそれはもう、周りの人間から日々浴びるような大量の祈りを受けて生きている。大人になってからは親だけではなく周りの友人や教師、人生で出会った恩師や先輩から色々な形の祈りを受けて日々を暮らしている。もっとさりげない祈りでいえば、駅前の飲食店などでお会計のおわりに「気をつけていってらっしゃいませ」という言葉をかけられるのも、立派な祈りだと思う。
そして、そういう目に見えない誰かの祈りは必ず、目に見えない形で守ってくれる。

私がその目に見えない祈りや言葉の持つ力を最初に信じたのは、小学生の頃の校内放送だった。

お昼やすみになると、毎週「聞き耳タイム」と呼ばれる校内放送が流れる時間があった。毎週異なる先生が、校内放送のマイクの前で今生徒に伝えたいこと話し、それを教室で静かに聞き耳を立てる10分間。
そこで誰であったか、「ことだま」の話をしている先生がいた。
その先生の話はこうだ。

皆さん、「ことだま」という言葉をしっていますか。
言葉には、魂がやどると言われています。これは人だけではなく、動物やモノに対しても影響が出るのだそうです。

とある実験で、食塩水を入れたビーカーを2つ用意し、ひとつにはうつくしい言葉を、もうひとつには汚い言葉を吐き続けた人がいました。
うつくしい言葉をかけるビーカーには、「かわいいね、きれいだね」という褒め言葉を、汚い言葉をかけるビーカーには「キモい、死ね、ばか」などの罵詈雑言を浴びせ続けたのです。

何日間か経ってしばらくしてから、その2つのビーカーを冷やすことにしました。結晶をつくるためです。

結果はどうなったと思いますか。
なんと、うつくしい言葉をかけ続けたビーカーの結晶はたいへんうつくしい形のととのった結晶をつくった一方、汚い言葉を浴びせられたビーカーには形もサイズもバラバラ、うつくしいとは言えない不揃いな結晶ができたのです。
・・・

本当にそんなことが起きるかはさておき、言葉の持つ「見えないちから」の存在を完全に信じたのはこの時からだった。
きれいな言葉をかけ続けたビーカーの結晶は、どんな模様をしていたのだろう。どんなにうつくしかっただろう。写真で見るのではなく、あくまでも耳だけで聞く話だったからこそ、みたこともないビーカーの結晶の美しさを想像しては、言葉にやどる「言霊」のつよさに畏怖するような気持ちになっていたのだ。
幼いながらに、ビーカーの結晶を決めるほどのちからをもつ言葉や気の存在を信じようと思った。きっとうつくしい結晶を実らせたビーカーは、人の気高い祈りを一心に受けて、静かに凍っていったのだろう。

これがもし、人であったら。命を持つものであったら。
その変化はきっと、結晶なんかよりもっと大きく、計り知れない影響を及ぼすだろう。その果てが病だったり、上手く使えば見た目が綺麗になったり、自信が溢れてきたりする。自分の発する気が他人に及ぼす影響を考えると、すこしだけ怖くなってくる。

祈りとは、教会や寺社で宗教的に手を合わせることだけではない。
もっと日常的で、人から人へと無条件に送られる、澄んだ気のやりとりのことだ。
帰り道に人と別れるとき、「気をつけてね」と声を掛け合っただけで、事故に会う確率がガクンと下がる話を聞いたことがある。
この「気をつけてね」という言葉も、きっとライトな祈りにちがいない。
ふわっと飛ばした相手への一瞬の祈りが本人に届き、お守りとなって本人が本人を守るようになる。

小松さんはこの本の中で何度か、「祈りのレベルをあげたい」と言っていた。作品に込める思いや、作品を見るひとの無意識を揺さぶるものを、もっと強く大きくしたい、といった趣旨だったと思う。

自分の職業や毎日の生活の中で無意識に祈ってくれる人がいるんだ、とハッとした。私たちの生活は、こうしてどこかで人知れず、なんの条件もなしに祈ってくれる人たちによって、今日も支えられている。なんの変わり映えのない毎日に見えても、その「変わり映えのない」日常を守って祈ってくれる人がいるからこそ、私たちは生きている。本を読んで、そう思った。

生まれてから今まで、私はどれくらいの人にどれくらい祈られて生きてきたのだろう。考えるだけでも途方もない気持ちになってくる。

そう考えると、見えないものを即座になかったことにするのは、ほんとうに惜しいことではないだろうか。私たちは、目に見えない形で今日も祈られて生きている。互いに互いを祈りあって生きている。
なんの関係もない赤の他人のために必死に祈れるようになるくらい、私はやっぱり、私のレベルをあげたいと思った。


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