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柳の木の下で

このnoteを書く前に、『付き合うとか、付き合わないとか』というタイトルで恋愛についての持論を書こうとしたのだが、結局あきらめてよくわからないテーマで書くことにした。個人的に、恋愛のことを数千字も真顔で書くなんて本当に恥ずかしすぎる。服を脱ぐより恥ずかしい。

さて、明日はついに参院選の選挙日だ。

本当は今日の夜に期日前投票で済ませておこうと思ったのだが、ベッドから起き上がる時間があまりにも遅すぎて、予定を変更。明日の午前中に投票に行くことにした。

昨年のハロウィン衆議院選挙で、たべものも口に入らないほどのショックを受けたことを覚えている。コロナになってから初めての国政選挙。個人的にはコロナ禍以降、私たち国民は散々政府に馬鹿にされ続け、怒りで狂いそうな気持ちを必死に抑えているとばかり思っていたのだが、全くそうではなかったようだ。どこから湧いて出てきたのかわからない現政権の支持者があらわれ、結局政権が交代することはなかった。期待していた分、信じていた分、吐きそうな気持ちになった。

当時はショックでショックで、鬱で。
まるで居もしない大好きな恋人にとつぜんフラれたかのような気持ちになった。これからの愚行にまた付き合わされるのかと思うと吐き気が止まらなかった。マスメディアでは、あたかも私ら「若者」が自民党に票を投じたなどど悪者扱いをされているし、気持ち悪すぎて胃酸がでそうだった。悔しくて、悲しくて。自分一人ではどうにもならない悔しさが全身を襲った。復活には数日間を要した。

そんな激しい使命感を持った少女・れおにーも、1年ほど経てば変わるようだ。このたびの事件も、参院選挙も、全く動ずることもなく、期待すらかけていない。もちろん選挙にはいくし、自分なりの考えを持って政治には参加しているし、国よもっと良くなってほしいさすがに、と思っているけれど、かといって裏切られて吐きそうになるほどの思い入れがない。

今回はとても落ち着いている。冷静に、それこそ真顔で明日の投票日を迎えようとしている。

切迫感がなくなった。
ちょっとこの感覚を的確にいうのはむつかしいのだけど。

前は政治と生活は直結するという距離感だったのだが、意外とそうではないんじゃないか?というのが最近の気づきだ。それは何も、政治の否定でもなく、政治が生活の中でわからないから興味が持てない、というわけでもない。

政治がよくなっても、悪くなっても、私の生命やあなたの暮らしは続いていく。たしかに、もっと良くて誠実で賢い為政者にこの国を引っ張ってもらうことに越したことはないのだけど、でも、どれほど政治が悪かろうと、私たちの日々の暮らしは続いていくのだ。残酷か、幸いか。

「政治が悪くなると、そんな私たちの日々も脅かされるんですよ。怒」みたいなツイートもよく見かける。確かにその通りだと思う。それに納得した上で、政治参加をしながら、そういう人を横目にとてもふわふわした状態で私は生きている。

声を上げるときはあげる。チャンスがある時には毎度そのチャンスを使う。今の国政にはもちろん変わってほしい。でも、なんというか、政治は「より良く生きる」ためのひとつの手段でしかない、という相対的な見方をするようになったのだ。

「オレはオレでこっちの道でこういうふうに生きていくから、もちろん投票や声を上げることはするけれど、そちら(政治がすべての人)はそちらでやっていくようにしましょう。共に頑張ろうな、自分の生の実現のために、自らの戦いのために」といった気持ちでいる。政治は大事だけど、私にとってそれが全てではない。もっともっと精神的な、自分が生まれた意味、この世のミッション、内側に集中していきたい気持ちの方が勝っている。

そんなわけで相変わらず意味のわからないことを書いてしまっているかもしれないが、投票日前日の私の考えはそんなところだ。

さっき、いつもとは違うルートで家に帰った時、ポストの上に風になびく柳の木を見つけた。なんだかその揺れ方がとても印象的で、やさしくて。今日は内容と全く関係ないけど、柳のタイトルにしてみた。今宵はかなり涼しい。



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