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下駄を履く人は皆スキ

夏に木の下駄を履く人は漏れなく皆スキだ。
浴衣でも甚平でも祭りの日でもないのに、音を立てて下駄を履いてくるだけでもう「こいつはただものじゃねえな」と思う。それは決して悪い意味でも警戒するという意味でもない。趣向や価値観的な意味で、「サンダルとして下駄を選んでいる人はよほど変わっているに違いない」と期待できるということだ。良い意味で「ただものじゃねえな」と思う。だから街でナチュラルに下駄を履いている人には今でも必ず振り返ってしまう。大抵はみんな身なりに無頓着なんだけど、下駄を履く人には奥深い色気が漂っているものだ。

だって考えてみてください、普通、下駄を私服と一緒に履こうと思いますか???

特に年齢の若い私たちの場合、大なり小なり自分の身なりには気を配るお年頃。そんな「大切な」時期に、わざわざ音のなる古風な木の下駄を履くという冒険ができますか???

下駄を選ぶ彼らは、「私服に下駄だなんて、似合わない…///」「下駄って音がなるしガキ大将みたいな感じで恥ずかしいですわ…///」という一般的な羞恥心をゆうに飛び越えていく。それがまた清々しいし、そこを悠々と飛び越えていく人間の方が、私はよほど信頼できる気がしている。

今日、ライターをさせてもろてる会社で社内ランチがあったので行ってきた。
同じ机に彼氏持ちのイケイケな女性社員の方が2人いて、「彼氏にどんな服を着て欲しいか」という話を熱心にしていた。

「私はやっぱり、きれいめなふくを着て欲しいんですよね〜〜〜!!」
「わかります〜。ノーカラーシャツとかね」
「わかる〜〜〜〜!!!あとさ、セットアップもきてほしい!」
「わかります〜〜〜!革靴とかね!!!」

まあご想像の通り私はその話がよくわからなかったので、初めて聞く「ノーカラーシャツ」なるものをコソコソスマホでを検索してみたのだが、うん、無印的な服であることだけはわかった。
ノーカラーのカラーって、襟のことね。

まあ確かに、これはわからんでもない。

で、ずっと黙って考え事をしていた私をみかねたキラ女の社員の方々が、私めに話を振ってくださった時だ。

「れおにーちゃんは、どんなのが好きなの?」

私は考える。正直、服などどうでも良いのだ。いや、それは言い過ぎだけど、よれよれの使い古したシャツでもなんでも、好きにしてくれと思っている派だ。それでとっさに出てきたのが、下駄だった。

「う〜ん。まあ私は夏に下駄履いている人が好きですね。下駄履いてさえいればなんでもいいっす。」

するとそのキラ女のお姉様方はこういうのだった。

「あ〜〜〜〜、いるよねー、そういうひとーーー。」

私:    アハハハハ、スミマセン(^^;;

も、もうしわけない…!!!!
私のような変な女が変な趣向を暴露させてしまい、大変申し訳ない…!!!!加減をわきまえず本音を言って公共の場でキラ女を困らせてしまってはいけない…!!!!

とっさに話題を変えた今日の私なのであった。

けれど、下駄を履いている人間はどんなに変わっているのだろうか。

初めて「下駄はく人」をみて衝撃を受けたのは中学生の頃だ。私の中高は指定の靴が革靴だったのだが、登下校以外の校内は運動靴など好きな靴に履き替えても良いという校則の緩い学校だった。

てなわけで特に男子は校庭でスポーツをするというのもあり、多くの学生が登校してすぐ運動靴に履き替えていた。

ところがそんな中でたったひとりだけ、私が中学生だったころの高校生の先輩の中に、夏場になると毎年決まって校内で下駄を履いている人がいたのだ。「カコッカコッカコッ…」校内に鳴り響くめずらしいタイプの足音の先に、とある先輩が下駄を履いているのを目撃して以来、私の中で下駄を履く人に対する憧れや尊敬の眼差し、下駄に対する愛着がすごく大きくなってしまったのだ。

先輩は年齢にしては背が高く、痩せ型のひょろっとした男の人だった。淡麗な顔つき、日に焼けてなさそうなインドア系の人で、確か丸眼鏡をかけていたと思う。いかにもインキャな喋り方、つまり絶対に目線を人と合わせないくせに若干うつむきながら下を向いて笑っているような喋り方をするような人だったと思う。私が当時入っていた部活の部長と、たしか同じクラスだった。今思うと明治時代の文豪の白黒写真に出てきてもおかしくないほどの小風なフォルムの人だ。

彼の下駄に加えてさらに強烈だったのは、制カバンともう一つ持ってきて良いとされていたサブ鞄に、なんと毎日風呂敷を持ち運んでいたことだった。今でも覚えている。緑色の、本当に「ザ・風呂敷」的なあの風呂敷。筆でマルのデザインがあしらわれ、よく柴犬につけられているようなあの風呂敷。おそらくあれに体操服をつつんで持ってきていたのだろう。まるで江戸時代に銭湯に出かけるかのような見た目で風呂敷を片手の腕に乗せ、足元は下駄で、毎日校内をウロウロしていたのだ。今思えば背の高い明治文豪風美少年に下駄に風呂敷、なんとも完璧なビジュアルであった。

そこに追い討ちをかけるようなギャグがあるのだが、そんな古風な彼が実は、中高一貫校の風紀委員長を務めていたのだ。(wwwww)
毎日下駄を履いて左手に緑の風呂敷を抱えながらも、彼は学校周りのゴミ拾い隊を指揮し、制服の正しい着用を呼びかける、口うるさい風紀隊長だった。今思えばそんな最高な逸材いないぜと思うのだが、とにかく「普通」であることを目指していた当時の私はそういう「ちょっと変わった」下駄を履く人のことを受け入れられず、「うわ〜。ヘンなやつ〜〜〜」と思って白い目で見ていたのだった。
なんと惜しいことかな。今の私が出会っていれば、確実に惚れていただろうに。

でも、だから今でも下駄で連想される強烈なイメージは、あの先輩の風紀委員長になっているのだ。

私はおそらく、下駄そのものの機能性が好きというよりかは、おしゃれな履物がたくさんあるこの時代で、わざわざ下駄を選んでしまうその人の変態性に惚れているのだと思う。そしておおよその場合、サンダル気分で下駄を選ぶ人は普通の人ではない。ちょっとおかしい。そこがまた最高なのだ。

なぜ下駄を履いている?どこでその下駄を買った?いつも下駄を履いているの?
…普通の私服で急に下駄を履いてくる街の人に、思わず声をかけったくなってしまう。そして思わず気になってしまう。好きになりそうになる。

うまい例が思いつかないけど、こういうものは私の中で案外多い。それそのものが良いから好きというよりかは、それを身につけていたり、それを好きという声を上げることに、社会からちょっとした白い目を向けられるもの。そしてそんなこともお構いなしに自分のものとしてナチュラルに取り入れることができる人。つまりはたくましい人。そういう人が好きだし、自分もそんなふうにたくましく図太くありたいと思っている。

とうの私は「ザ・下駄」なる木の下駄を持っているわけではないのだけど、下駄っぽいサンダルなら持っている。でもそれは歩いていると鼻緒の部分が痛くなってしまうタイプで、今年こそは木製の「ちょっといい下駄」をゲットしたいと思っている。

……下駄って、どこに売ってるんですかね?


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