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オムニバス:最近のあれこれ

今日はオムニバス形式。

言葉を軽んじるやつがきらいだ

本題に入る前に。
これはあくまでも例だけど、たとえば「言葉を軽んじるやつがきらいだ」と言い切ると、すぐに「そうやって人をひとくくりに嫌いって言うのはどうかと思いますよ」とか「人のことをやつとか言っていいんですか」とか、いちいち(自主的な)倫理警察が入ってくる時代になったよなあと思うなど。なんか、あらゆることに潔癖になってるよね。言い切ることや、自分の主観を堂々を言うことが難しい世の中になっていると思う。そんなことはさておき。

言葉や文章を軽んじるやつとは友達になれない。
言葉は手軽なツールだ。使うのに練習も資格もいらないし、別にどこかの学校に通って専門的な知識をつけなくとも、私たちは生まれて数年たてば皆言葉を喋るようになる。その垣根の低さが、かえって言葉へのリスペクトを下げているよなぁことを最近はとても感じる。

あまりにも当たり前に使えるから、文章なんてすぐにかけると思っているし、文章って単語と助詞を繋ぎ合わせればいいんでしょ、そんなの誰でも書けるぜ、というふうに認識している人があまりにも多くて、言葉の世界にこだわりと育成中のプライドを持つ自分にとってはなんとも腹立たしく、悔しい状況である。

noteは言葉や文章の力を信じている人が多いから、軽んじていそうな人はみかけない。けれどこういうコミュニティを一歩外に出た途端、平気で言葉を乱暴に扱う人の多さにかなり辟易する。

言葉や文章を雑に扱うとは、言葉遣いが乱暴、汚い言葉を使う、ということではなくて。
言葉が人を良くも悪くも動かしてしまう力を、信じてないか気づいてないということなんだと思う。
だからこそ、ライターはそこに命を削っている。ひとつの記事に魂を込め、「この3,000字の記事で少しでもこの人や企業に好感をもつ人が増えますように」とか、「インタビュアーが喜んでくれますように」と本気で願って書いているのだ。雑な人はすぐに「たかだか3000字の記事にどんな力があるっていうんだよ、そんなわけねーだろ」と言って退けてしまう。
正確に言えば、そんなことは口に出して言ってないのだが、なんとなくそう思ってるんだろうなあというのが態度や扱いで分かってしまう。

悲しくなる。
どうして言葉の地位がこんなにも低いのか。どうしてこんなにぞんざいに扱われているのか。言葉のちからを信じられていないのか。
確かに言葉で伝えられることは少ないかもしれないけれど、誤解や争いを生んでいるかもしれないけれど、言葉にはもっといい面があるし、私たちは言葉なしには生きていけない。言わなくても通じることなどこの世にはないはずだ。
不器用でも、言葉をゆっくり伝えようとしてくれる人の方がよっぽど好感が持てる。言葉が上滑りして聞こえだけいいことをスラスラと流れるように喋る人よりマシだ。

言葉をちゃんと使おう。誠意を持って慎重に扱おう。どんな人に対しても。思ってもないことをスラスラと言うくらいなら、何も言わない方がよい。

傷つくのはいつだって繊細で心やさしい人たちな件

この世には不公平がいっぱいある。中でも最近思うのは、「なんで傷つくのがいつもやさしいやつばっかりなんだよ」ってことだ。
強情で鈍感な人って、皮肉な意味でとても生きやすそうだ。なんであんなに人のことを考えず、わかりやすい表情のサインを汲み取れず、ズバズバと何かものを言ったり行動したりできるのだろう。なぜわからないのか、わからない。こちらは顔の細かい歪みや変化をみて態度や言動を変えているというのに。強情な人には「あ、強いタイプな人だ」と瞬時に気づいて、それようのモードを作らなければならない。その見えない気苦労を負担するのはいつも繊細な人たちなのだ。

疲れた時には特に、汲み取りが無意識にできる人たちが、なぜそれをできない人に合わせないといけないのだろう、と思う。繊細な人たちが強情で鈍感な人に無意識で傷つけられているのを見ると、本当にこの世の不公平さを恨めしく思えてならない。しかも、あまりにも繊細な感じを出すと今度は変に気をつかわれたり場が変な空気になって、もう最悪な気分になる。こちらが悪者になる。
繊細で、なんでも気づいて「しまう」人たちが、もっと生活しやすくなればいいなと心から思う。鈍感さは武器でもあるが、もうすこし歩み寄ることはできないものか。


毎日、とんでもない夢をみている。




毎晩夢を見る。しかも、とんでもない内容のものを。
昨日はなぜか絶交した友人が出てきた。年下の、しかも理工学部の後輩とはじめてセックスを経験して、しかも妊娠してしまうというのを聞く、という本当にとんでもない内容。友人はかなり憔悴しきった様子で、これからのことを現実的に計算しているように見えた。どうやら産もうとしているようだった。

その前はnoteのつぶやきにも書いたが、ベイマックスのようにふくよかな人をそっと抱きしめる夢を見た。その人は貧乏学生で、それに見かねた親がうちに招いてなぜか実家で下宿を始めたという内容だった。帰省するとすでにその人は部屋で暮らしており、「こんなの聞いてないよ!」と私は親にブチ切れているのだった。
急に家に住み着いたベイマックスのような彼が到底受け入れられず、ずっとそっけない態度をとっていた。ところがある日、彼の知られざる素性を知ってしまう。彼が下宿先のうちに迷惑をかけないよう、毎晩家族が寝静まる夜まで、外で時間を潰して帰っていたこと、お金がないからと働いてためて大学に行ったから、年齢がすでに20後半であること、アメフトかなんだか忘れたけど、体育会系の部活で奮闘していること、など。
その背景を知ってからみる彼の眼差しが途端に哀れで、悲しくて。世界でひとりぼっちという感じが、豊満なベイマックスの体から滲み出ているのがどんどんかわいそうに思えて仕方がなくなったのだ。

そして私は、そっとさみしいベイマックスにハグをした。

夕日に照らされた帰り道、私は家族とスーパーに向かって歩いていた。
土日の夕方、幸せそうな家族、恋人、人間を見ながら、私はだんだんと涙が溢れて止まらなくなった。そして顔をぐしゃぐしゃにしながら、人目も憚らずわんわん泣いた。彼が抱えている絶望的な寂しさを少しだけ自分も背負った気がしたのだ。アホみたいな理由でアホみたいに泣いて、涙のあったかい感じも、顔を歪みながら泣く感じもリアルで、私は多分寝ながら泣いたんだろうな、と思った。目が覚めて、そっと目尻の近くをさわってみた。
涙の跡は、まったくなかった。


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