見出し画像

8/8(火)日記

*絵柄と文体

文体にも個性がある。
それは書き手がいろんな文章を読んで、真似していいくうちに自然と現れてくるものだと私は思う。

好きな作家を見様見真似でなぞってみたり、SNSでバズった記事のような内容を踏襲してみたり。それでも抜けなかった要素がその人のオリジナルの文体。文章における個性とは、他人に憑依したとしても、何度推敲したとしても、書く内容が180度変わっても、結局行き着いてしまう先のことなのではないか。勝手に出てしまう、隠しきれない尻尾。濾過してもしてもしきれなかった残滓。

絵描きさんの絵柄でも同じなんだろうか。「描いたらいつもここに辿り着くんです」みたいなことってあるんだろうか。「結局、水彩画になってしまうんですよねー」とか、「結局、線画の方がしっくりくるんですよねー」とか。ありそうな気もする。

絵を描く人たちの「画風」ってどういう風に形成されるんだろうと、今日漫画家さんと話していてふと思った。

*オレオレ作業

これは昨日のことだけど、「ノルマを数字で与えられた方が走りやすい」と言う人がいた。完全に営業向きだ。

数値目標を与えられた方が、やるべきことを考えやすいそうだ。
ドッグパークで自由に走るより、ゴールテープが100m先にある方がイキイキとする、みたいな。これは例えが悪いか。

誰かの目標を「自分ごと」できるって、ある種の才能だよな。そこに気持ちが向かえるって。

私は自発的な理由じゃないと多分動けない。
行動の起点は必ず「私」だ。

「私が」達成したいからこの目標に向かって頑張る。
「私が」いやだから、環境を整える。
「私が」これを好きだから、もっとこれに取り組む。

言うならば、「オレオレ作業」。

「そこに山があったから」登るというのは絶対になくて、
「私が登りたいから」山を登るのである。登山はしたくないけど。

こういうオレオレタイプの場合、誰かからの指示も自分が心から納得しないと動けない。誰かからノルマを与えられても、そこに何の理由があるのか、なぜ私がそれをやらないといけないかを自分で腹落ちできないと頑張れない。

私の場合は特にやっかいで、自分の好き嫌いとか興味のあるなしではなく、「それは私の『生』にとって必要か」みたいな壮大な基準で決めたりする。しかも、その「生」は自分の意思というより、宇宙(としか言いようのない)の意思で……

まずい、れおにーワールドへ皆を引き摺り込もうとしている。

まあともかく、私はノルマで走り出せるタイプではないと、その知人の話を聞いて思った。

*別に本をつくりたいわけじゃない

この業界にいると書籍化・書籍ライティングが夢って言う人も多く見かけるけど、私には書籍化の野望がない。ひとえに、小中高生時代に本のある世界にいなかったからだと思う。書籍に携われることに、残念ながら憧れを感じない。

でも、この業界における「出版」「書籍化」はまだまだ花形のポジションにある。ここをゴールとする人も結構いる。

書籍化には興味がないが、ライティングにはめちゃくちゃ興味がある。その場合、何を最終目標に置けばいいのだろう。いつも悩む。

いつか自分で好き勝手にやれる雑誌はつくってみたい。

けどなぁ。

利益低すぎるし、クラファンは何か違うし。
Webメディアは広告入れるか、別で本業を持たないと食べて生きていけないし。

テキストコンテンツ界隈は、書籍化以外のゴールをそろそろ本気で見つけなければいけないと思う。言葉が共用のものであることも難しい。漫画だったらライツ事業がある。

このままだと、私は言葉への情熱と愛を溜め込んだまま熱中症になってしぬ。そんなのいやだ。

「生きていくために書くんでしょ、なら収益化しないでいいじゃない」という私の中のもう1人が言ってきた。そこよ。そこを私は超えたいのよ。悔しいんだよ。




最後まで読んでくださりありがとうございます。 いいね、とってもとっても嬉しいです!