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いろんな角度から楽しめるもの

昨夜は横浜スタジアムで声を枯らしていた。
カープvs横浜ベイスターズ。

昨日までの試合でカープは阪神相手に非常に惜しい負け方をしていた。セリーグとパリーグがぶつかる交流戦を控えるこの5月末。ここで流れを変えるためにも昨日は「勝っておきたい」試合だった。

結果、カープは勝利。

延長でツーアウト(横浜としてはあと一個アウトとれば終了)というギリギリの状況で、3本ホームラン。なかなかない展開で、近年稀に見るすばらしい試合に立ち会えた。延長回で気持ちよく勝つというのは、カープにとって珍しい。たいてい延長に入ると打てなくて負けてしまうのだ。

1回の裏で点を入れられたまま、拘泥状態でなんとか1点。幾多もつくったチャンスをなかなかモノにできず、諦めモードもチラつかせての延長。突然のホームラン祭り。一本、また一本入り、2本目でみんなが「やばい!!!」と興奮気味に全員立って応援しはじめた。
ホームランを打つのは3年ぶり、という選手もおり、自分の周りの四方を座る人たちと応援バットでハイタッチした。みんな泣きそうになっていた。

どこから来たのかも、広島の出身かもわからない、その日初めて出会った(というか隣り合わせた)関東のカープファンたちと追加点をいっしょに喜ぶ。それが本当に楽しくて、とても貴重で。
居酒屋の外で見ず知らずの人に関わるなという暗黙の了解があるこの現代で、見ず知らずの人とともに嬉しいことをシェアできる喜び。そうない体験だ。だれかとポジティブな気持ちを共有することが、こんなにも気持ちの良いことだとは思わなかった。

バットで喜び合った数分後にはもう、それぞれの帰路につくという儚さもまたよし。満たされる胸をそっと持ち歩きながら、夜なのに明るい空を見上げながら気持ちよく帰る道。それぞれの人生に、ほんの少しだけ近づき、また離れるというこの軽やかさがよいのだ。

余韻という意味では音楽のライブと少し似ているかもしれないが、スポーツの試合は当日終了するまでわからない。特に野球の場合はどれほど絶望的な状況でも、たった一球で流れが一気に変わることがある。そのギャンブルのような要素もまたよい。

しかし、野球応援のどこにおもしろさを感じるかは人によって違うらしい。
わたしはオーソドックスなスタイル、外野席で推しの真っ赤なユニフォームを着、バットをバンバンたたいて大声を出すようなザ・外野のアクロバティックな応援が好きだ。スクワット応援をしたり、見ず知らずの人と勝利を喜び合ったり、応援歌を野外カラオケと表して思いっきり声に出して歌ったりするところに、おもしろさを感じる。

わたしの知り合いに「スクワットとかは興味ないです、静かに内野席で見たいです」という人がいる。敵味方とか関係なく、静かに「ナイスプレー」を観たいのだそうだ。楽しみ方もそれぞれにあることも良い。

声に出して応援しなくてもよし、逆ももちろんよし。食べ物を楽しむのもよいし、攻守交代の時の球場内パフォーマンス(ベイスターズはチアガールがおり、お客さんとかけっこをしたり声援の大きさをデシベルで測ったりして間を繋いでいる)を楽しむのもよし。

こういう、楽しみ方が多様にあるコンテンツはおもしろいですよね。
ちょっとディズニーランドと近いかもしれない。ディズニーランドも、アトラクションはもちろん、パレードやキャラクターとのグリーティング、風景を楽しんだり食事や買い物を楽しんだりといろんな角度で楽しめる。

けれども野球観戦だけが持っているのは、やはり「その場にいる誰もが自チームの勝利を願っていること」だと思う。今日の試合は勝ってほしいし、果ては優勝してほしい。みんながそう思っている。その貴重さ。みんなが同じ方向を向いているのに、それが正しいことの安心感。

こう書くと少しだけ危なっかしい気もするが、やっぱりみんなで同じ方向を向いていることに、失われた喜びを見出してしまっている自分がいる。どことなくノスタルジーを感じてしまうのだ。小学生の頃、みんな同じテレビ番組を見て、翌朝教室で盛り上がっているあの楽しかった感覚とほとんど似ている。今はネットで広い世界に直接触れることができ、見ているものも聞いているものも悲しいほどにバラバラだ。そのうえ供給スピードも上がっているので、全く追いつかない。同じ物を見て語ることがが難しくなってきた。
しかも現代では、みんなが同じものを見て同じような感覚を持つことに、どちらかというとネガティブな見方をすることが多い。エンタメなどは特に、「みんな同じ感覚を持つ」ことを強制されてきた過去があるからだろう。

結果、人それぞれに自由に楽しめという論調が強くなるあまり、同じものをみんなで見る、という構図に、どことなくアレルギーのようなものを感じてしまっているように思う。私もそういうものに抵抗感や罪悪感を感じていたりもする。

そんななか、野球観戦だけは良くも悪くもリアルだ。同じ物を見ている人が、いま目の前にたくさんいる、という、背徳感のチラつく喜び。同じものを見て、同じように楽しむ。この瞬間だけは、年齢や性別を超えて、同じものを一緒に見ることが、合法的に許されている。いまや奇跡に近い空間だ。

危ない思想だとは思うけれど、みんなで一緒にポジティブな気持ちを共有できる感覚は、やはり喜びと直結している。「没個性」とか「同調圧力」といった、後年で知った言葉がよぎるけれど、そんな知識を持ってしても抗えない、むしろ否定したくない根源的な喜びがあるように思う。

まぁスポーツ観戦なんだし、そんな頭でっかちにならず力を抜いて楽しめば?と思うのが正直なところだが。

そんなことをグルグルと考えつつ、諦めて正直に野球応援に勤しむ昨日であった。


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