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「仕事する」と言うのが照れくさい新卒の5月

やあやあ我こそは先月から社会人になった新卒1年目の代なり!!!

ということで、GWも終わり、ぬるっと社会人になってから早1ヶ月が経った。

実感はまだ無い。(大丈夫か?)
学生の頃とやっていることや環境が変わっていないので、体感的には今の仕事も割とアルバイトの延長線上に近いのだ。これを世で言う「仕事」なんて言っちゃって良いのだろうか...?という軽い申し訳なさを感じる。え、大人ってこんなかんじでいいの???

「仕事」って、学生時代とはガラリと変わった世界のことをいうのだと思っていた。その意味では学生時代とほぼ変わってない。その変わらなさにちょっと焦ったり不安になることもあるけど。

だから「仕事する」「仕事があって〜」など、とにかく「仕事」という言葉を使うのが照れくさくてしょうがないのだ。「今日は仕事だったよ」というLINEを知人に送る時もなんだかむずがゆい気持ちになる。謎に遠慮したくなる。「いえいえ、そんなわたくしめがそんな生産的な行為を口にするなんておこがましい...!」と。

でも逆に言うと、「仕事をするって、大人になるって、案外こんなもんかぁ」という感想もある。ちょっと拍子抜けするというか。
仕事はもっともっと大変で、高度なもので、当たり前のようにスーツを着て、そうやって大人になるのはとにかく偉くてスゴいことなのだと思っていた。案外ぬるっと社会人になれるもんだ。もしかしたら私がちょっとバグっているだけなのかもしれないけど。

逆に、私は何を見て「仕事」や「社会人」に自分でものすごく高いハードルを掲げていたのだろう。ドラマや映画などのフィクション?巷でいう「スゴい」ビジネスマンの武勇伝?大学周辺のバリキャリ/上昇志向の学生たち?

今思うとかなり焦ってたんだろーなーと思う。
「優秀な社会人」とか「活躍している社会人」とか、そういうきらびやかなロールモデルをたくさん見すぎたせいで、それが当たり前だと思っていたのだろう。実際はそんなことない。
アルバイトでも立派な労働だし、具体的で現実的な話を抜きにすれば、もっと力を抜いたってとりあえず社会人になれることはなれるのだ。
それはここ1ヶ月の私の新しい重要な気づきでもあった。こうして人間は重苦しい鎧をひとつずつ下ろしていくのかもしれない。

たぶん、私は生計を立てるための行為を「仕事」と言いたくないのだと思う。仕事的行為を仕事と言うのが、なんだか居心地が悪いのだ。生きることを遠ざけてしまいそうで。ほんとうは、生の中にほんの少しだけ、労働があるだけでいい。
仕事を仕事だと思わず、どこまで行っても趣味の延長線上のような「活動」にしたい。もちろん、単なる活動でもそこに責任感やクオリティは求められるけど。

できるだけ仕事を仕事だと思わず、毎日を愉快に過ごしたいなあと思う、ゴールデンウィーク最後の土日なのである。



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