【才能の扉#6】 DF 本山遥 (関西学院大学4年)
コロナ禍によって2020年度のみの特別開催となった大学サッカーの最後の全国大会「#atarimaeni cup」の桐蔭横浜大vs関西学院大を見ていたときのことだ。
隣に座っていた鹿島アントラーズの椎本邦一さんが自分に話しかけてきた。同点で推移していた後半か延長前半だったと思う。
ポジションは異なるが、“雅志”を想起させたことは言うまでもない。常勝軍団・鹿島の新卒スカウト担当を長く担い多くの人材を発掘してきた彼が目にかけた本山遥という選手は、個人的にも今年の4年生の中から最も推したい選手の1人である。
右サイドバックを主戦場とし、90分間サボらず好守に献身的に走り続け、セットされた対人の守備と的確なカバーリングで相手のチャンスを潰す。ハードワークを厭わない彼のような存在は、チームに1人は絶対にいてほしい。
「足が速くてカバーリングできるし、全体を見てコーチングができたり、チームに安定感、安心感をもたらせる選手なんです。プレー的にも精神的にも声掛けができる」
関西学院大・高橋宏次郎監督も賛辞を送る。
“転勤族”の恩恵。
西宮SSから神戸U-18に進み、今季より関西学院大学の主将を務める本山の一家はいわゆる“転勤族”であった。長崎で生まれ、福岡、鹿児島、香川と渡り歩き、兵庫に落ちついた。九州でサッカーを始めたころからはアタッカーだったが、兵庫へ来たことで「うまいやつが多いすぎる。ここでは通用しない」と感じたという。
そしてポジションを後ろに落とし、CBが定位置となった。全国へは届かなかったが、その予選で複数Jクラブのアカデミースカウトの目に留まった。
その中からヴィッセル神戸U-15へ入団し、U-18へと進む。
ポジションはCBから左SBに変わったのだが、高校では3年生の夏前までレギュラーではなかった。クラブユースの予選から起用されるようになり、当時のコーチに叱咤激励を受けたことから「ミスを気にせずにプレーができるようになった」と本山は振り返るが、これが一つの転換点だったようだ。以後は自信を持ってプレーができるようになったと語る。
そして何より中心選手ではなかったために、献身性を示すしかなかった。
エリート街道を進んできたわけでもなく、絶対的なレギュラーとして君臨していたわけでもない。言うまでもなく、彼の頭の中にトップ昇格はなかった。
関学で得た仲間からの刺激
「高3のサッカー成績的にも関東の大学は無理だなと。通ってた高校が関学の附属校で成績も良かったので、そのまま内部進学をしました」
こういう経緯で来た関学で、本山はチャンスを掴む。上級生の怪我もあり1年生からメンバーに入り、関西学生リーグや全国大会でも出場機会を掴んだ。
実践の過程で自身の上下動とライン側での守備力が通用することを覚え、自信をつけていく。それに経験という肉付けがされていき、関西ではトップクラスのSBとなったのだ。
勤勉な姿勢から生まれた最大の武器である献身性もそうだが、彼をここまで引き上げた背景に「仲間」の存在がある。
同じ大学の1つ上の先輩にはガンバ大阪に加入した初年度から中心選手となった山本悠樹と、Jクラブからのオファーを断りスペインへ渡った竹本将太がいた。サッカーに真摯に向き合い良い意味での強い個性があった彼ら2人が後輩たちに与えた影響は大きく、その背中が自信を成長させたとも本山は言う。
そして何より、同期であり一足先にプロ入りを決めた山見大登の存在が彼にとって最大の刺激となった。
「J1で勝負をしたい」
大学No. 1とも言えるドリブラーの山見と練習からマッチアップする中「ここで負けたらプロになれない」という思いを持ちながら本気でぶつかり合った。彼の武器である対人の強さの一部は、日々の山見との戦いから得られたものかもしれない。
そんな山見は先輩の山本と同じく、ガンバ大阪への入団が決まっている。
「身近に山見大登という選手がいて、早い段階で声がかかってJ1で勝負すをすることが決まっている。だから負けたくないし、自分もできることならJ1で勝負をしたいと思っています」
間違いなく、J2なら”やれる”選手だと思う。
ただ、切磋琢磨した仲間と同じ舞台で戦いたいという思いは強い。
本山は、吉報を待つ。
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