見出し画像

“歴史を変え、未来を拓いた” 映画ドラえもん『のび太の月面探査記』が名作なワケ

映画ドラえもん「のび太の月面探査記」が公開されて一年が経った。そろそろ、この感傷や感慨を整理したいし、筆をとろうじゃないかと思う。春休みも終わるし。ネタバレを隠すなんて器用なことはできないので、最初からぶっ飛ばしていきます。

あらすじとかキャストとか、調べたいならお好きにどうぞ。とにかく、感想だけ吐き散らしたい。


向こう10年のドラえもんクリエイターを見据えた辻村深月の脚本

今日、映画ドラえもんを観るということはどういうことか。なにを隠そう、声優をはじめドラえもんのスタッフが一新されてからすでに10年以上が経つ。映画「のび太の恐竜2006」が公開されて以降、藤子・F・不二雄のいない時代に様々なクリエイターがドラえもんの新解釈を試みてきたし、過去作のリメイクも行なってきた。

正直、過去作の焼き直しや、ドラえもんのセオリーのコピーなど、小手先の模倣でつくるドラえもんもこれまでにはあった。しかし、今作で脚本を手がけた辻村深月は、藤子・F・不二雄がナチュラルボーンでつくりあげた独自の世界観にたいする、正確な解釈と充分な咀嚼があり、かつクリエイターとしてのオリジナルのアイデアを加味することによる相乗効果で、藤子・F・不二雄のいない現代にドラえもんをつくるとはなにか?を再定義した。

あたらしいドラえもんをつくる。かつて雲をつかむように「藤子先生ならどうやっていたのかな?」と模索した結果、様々なコピー品のドラえもんも世に出した。その経験は順路としては不可欠なものだっただろう。しかし、22世紀に向けてテクノロジーが日進月歩で通りすぎる2019年のいま、どうすればドラえもんっておもしろくつくれるのだろうか、という「あたらしいドラえもん」の教科書を、辻村深月は脚本として残した。

断言しよう。この脚本で、このさき10年は、ドラえもんはあたらしいアプローチから上書きされるだろう。藤子・F・不二雄を読み、彼の理論や世界観を血肉として解釈した現代作家が、これからも藤子・F・不二雄のドラえもんを、現代の作品として描き続ける。今作の辻村深月は、このさきのドラえもん作家の未来を間違いなく切り拓いた。いままでのものではない、しかし、ドラえもんである。変わらないままにあたらしい、ドラえもんである。

現在のスタッフが「みんなが主人公」を掲げてのび太以外のキャラクターも中心に据えて映画を制作していることは、過去作の副題「羽ばたけ天使たち」「ペコと5人の探検隊」などを見ても明らかだが、今作「のび太の月面探査記」も、きちんとそれを踏まえてつくられている。各キャラクターに対応したゲストキャラクターの存在など、わかりやすく明快に「みんなが主人公」である。


危険に立ち向かう現実主義者・スネ夫の葛藤と逡巡


映画ドラえもんにおけるスネ夫の本質は、冒険にたいする現実主義者である。アドベンチャーに怯む臆病者であり、現実的な観点から切り込むロジックでもある。

映画ドラえもんではあるあるの話だ。スネ夫ってそうだよね、スネ夫の臆病の描きかたってこんなだよね。辻村深月の描写と八鍬新之介の演出には文句のひとつもない。そのスネ夫も、ジャイアンに「おまえ、悔しくないのかよ!」と詰め寄られたシーンでは「悔しいよ!」と感情を爆発させるのだ。

どこでもドアが破壊され、月と隔離されてしまったドラえもん一行だが、この「異世界から一度地球に戻ってくる」という設定もよかった。冒険活劇という意味でのワクワク感もさることながら、映画ドラえもんの醍醐味である「別行動」を大きな視点で撮ることにより、物語に一層のサスペンス感を持たせている。物語に抑揚を持たせ、短い時間尺ながら飽きさせない工夫がある。

のび太とドラえもんは荷物をまとめて準備に余念がない。しずかちゃんは危険な旅を目前に愛犬ペロに別れを告げ、ジャイアンはアルに会う覚悟とともにキャラメルをひとつポケットにひそませた。

そして、スネ夫は準備を整えたものの、川沿いの渡り道で右往左往している。川面にうつる満月を見ている。

夜7時の集合場所にスネ夫の姿がなかなか見えないとき、我々はやきもきする気持ちを憶える。しかし、ようやく決心したスネ夫が、「前髪が決まらなくて」とナルシズムを照れ隠しに登場したとき、ルナへの気持ちを確かに冒険を覚悟した彼の葛藤の末に、我々の心は拍手をせずにいられない。

スネ夫はたしかに臆病者である。現実的な数値や知識から物事をはかり、可能・不可能を判断している。そのスネ夫が、のび太たちとなら大きな不可能にでも立ち向かう、その友情の厚みを認めるところに、我々は感動するのだ。もちろん、過去にはスネ夫の「なんであんな勝てっこないやつに立ち向かわなきゃいけないんだ!」「僕たちは本物のヒーローじゃないのに!」という小胆な投げかけがあってこそ、物語はスネ夫、そしてのび太たちの最終的な勇気ある決断に加担し、涙を深めていくことにもなっている。


永遠のガキ大将「ジャイアンは映画だといいヤツ」論を今年こそ捨てないか


「ジャイアンって映画だといいやつになるよね」という意見がある。「ジャイアン映画版の原理」や「映画版の法則」と呼ばれるものである。この論調に、もの申したいと思う。

今作において、そして過去の映画ドラえもん作品においても、ジャイアンは勇猛果敢で仲間思いな、頼もしい男として描かれている。ジャイアンといえば、のび太に暴力を振るったり、スネ夫のおもちゃを独断で取り上げる側面もあることはご存じだろう。この二面性を対比させ、「ジャイアンは映画だといいヤツ」論という論調が出来上がったのだろうが、薄っぺらいことを言うものだ。

そもそも、ジャイアンは悪いヤツなのだろうか? 暴力はたしかに悪いことではあるが、「ガキ大将」という彼の立場からすれば、常に周囲に自分の権力を示す行為はむしろ必要なことと言える。織田信長でさえ、生前は暴力的で、傘下の武士にも厳格な態度をとったことで有名である。

そして、あたりまえだが、映画ドラえもんの舞台は「異世界」である。地球にある、のび太たちの街ではない。地底であったり、魔境であったり、雲の上や、宇宙に存在する別の惑星でもある。

一歩、自分のテリトリーの外に出たとき、強い人間は周囲を守るものである。織田信長でさえ、ひとたび戦となれば、勇敢に刀を振るう武将であったとされる。同様にして、ジャイアンも日ごろ振るっている暴力でもって、心の友を守りぬく。それが、ガキ大将としての彼の在りかたなのだ。

時としてスネ夫は決断力に欠けるが、そんなスネ夫をも引っ張るのがガキ大将であるジャイアンだ。カグヤ星でディアボロの衛兵に囲まれた一行を、スネ夫とともに任されると進言し、ルカやのび太を先に行かせる。この心意気を「映画だといいヤツ」などと値の安い言葉で片づける暴挙は、ジャイアンにたいする最も甚だしき誤解に基づいた蛮行である。

関係ないが、ジャイアンは敵であるディアボロの名前をなんの悪気もなく「オンボロ」と言い間違えている。強いジャイアンが間違えるからこそ、相手が逆上したとしてもどこか心強く感じるこの描写も、映画ドラえもんあるあるである。


オマージュなんかで終わらない! しずかちゃんの二度目の決意


今作でも、ドラえもんのひみつ道具によるみんなの居住空間がきちんと描かれた。

なぜかはわからないが、これはほぼお決まりといってもいいくらいの展開である。ふかふかのベッド、広々とした部屋、見晴らしのいい景色。四次元空間でかたどられる、まぁまぁのビジネスホテルクラスのその空間における子どもたちの無邪気な居住生活はドラえもんの映画の大切なところだ。そして、これもまたお決まりだが、しずかちゃんはお風呂を気にする。やはり、綺麗好きなのだ。

今作では、しずかちゃんの「…お風呂はないわよね?」にドラえもんがけろっと「あるよ!」と答えるシーンもあった。

正直、なくたって物語は成立する描写である。しかし、必要はなくても、ワクワクする。台詞まわしにおける「ドラえもんあるある」は今作では非常に多かったが、こういう一見無駄なシーンはドラえもんでは大切である。

さらに、インタビューによると、脚本を手がけた辻村深月が初めて観た映画ドラえもんは「のび太と鉄人兵団」であるらしい。今作の「ルナの傷の手当てをするしずかちゃん」は、鉄人兵団で言うところの「リルルを介抱するしずかちゃん」と重なるし、オマージュといっても過言ではないだろう。しかし、過去に結果としてのび太たちが鉄人兵団をやっつけるきっかけを作ったに過ぎないしずかちゃんとは違い、今作は「助けに来たわよ!」と自ら能動的に月からカグヤ星にやってきて、のび太たちの窮地を救うのだ。

新スタッフが抱えている「みんなが主人公」という姿勢へのあたらしい解答として、オマージュとしての過去の解釈にとどまらない模範解答であるといえる。しずかちゃんが「助けに来たわよ!」と登場するシーンは、アニメーションの動きとしてもまさしくヒーロー然としていて、とても感動した。

余談だが、ディアボロに反撃する際、しずかちゃんが武器として手にとったのは「スーパー手ぶくろ」というひみつ道具で、装着すると怪力を発揮できるものだ。本質は母性であり、昔ながらの女性らしさであるしずかちゃんだが、その本質からこぼれたところに「おてんば」というアイデンティティをもつことを、辻村深月は見落とさずに描いている。


未来とテクノロジーに決して踏み違えない道筋としてのドラえもん


今作のドラえもんの台詞のひとつに、「覚悟ができないなら地球に残ったほうがいい」というものがある。どこでもドアが破壊され、ルカたちと離れ離れになり、もういちど月へと向かおうとする一行にドラえもんが鳴らした警鐘のひとことである。一見普通の台詞に見えてしまうが、一度は冒険した月から離れ、いま一度ふたたび月へと向かおうとするのび太たちが、物語の後半に向けて「なぜ冒険するのか」を考える非常にいい台詞である。ドラえもんのこの言葉が、のび太の冒険の原動力になるのだ。

そして、なんといっても今作のドラえもんの名言は「想像力は未来だ、ひとへの思いやりだ!」である。

敵であるディアボロは人工知能をもった機械である。極めて現代的な設定で組み込まれた適役に、想像とは、未来とはなにか、それらを問いかける物語のなかで、22世紀の猫型ロボットとしてドラえもんの思うところは相当なものだったはずだ。

現代、2019年に生きる我々がドラえもんを観て考えるべきこと。そして、技術開発や未来構想を逆行することなく突き進む我々が、ドラえもんから学ぶべきこと。いろいろなことが詰まっている。ここで数行でまとめてしまえば、それこそ何十年と続いてきたドラえもんに礼を逸した行為であるし、文字にしたところであまりに値が安いだろう。

想像力は未来だ、ひとへの思いやりだ。

私利にまみれたディアボロを否定することはたしかに難しい。しかし、明快な勧善懲悪で済ませず、人間や人類が自らつくった業を背負うという構図は、そのぶん現実味があり生々しい。テクノロジーは、だれかにたいする思いやりの気持ちで動かされるものなんだろう。それは、ディアボロのように私欲や破壊に使うべきではない。だからこそ、ゴダート隊長とカグヤ星の未来は、きっと優しい。


のび太とルカの友情、そして大人になるということ


「友達は仲間だよ、友情でつながっている仲間」とのび太は言う。「友達が悲しいときには自分も悲しいし、嬉しいときは一緒に喜ぶ。ただ友達っていうそれだけで、助けていい理由にだってなるんだ」

ルカに友情を説明するのび太に、やはり我々は、心優しい子だなと感じる。のび太とルカの友情は、しかし、物語の途中で一度引きちぎられてしまう。どこでもドアが壊れるあのシーンだ。

ルカは、自分が犠牲になることで、友達であるのび太を助けようと考えた。「友達だろ⁉︎」と泣くのび太、「友達だからさ」と言うルカ。どこでもドアは壊され、月と地球は分離されてしまう。ここまでの一連の台詞まわし、アニメーションの使いかたも含め、この流れは名シーンである。圧倒的な無力感、絶望感。台詞そのものの言葉遣いも、非常に辻村深月らしい。

ドラえもんという作品は未完で最終回はないが、「ドラえもんの存在」にはどこか「子ども時代の終わり」が含有されている。しかし、大人になっても、子どものころの美しい思い出は忘れずに生きていこうというのが、ドラえもんの中心命題である。

現在のドラえもんのテーマソングである、黒須克彦作曲の『夢をかなえてドラえもん』には、「大人になったら忘れちゃうのかな / そんなときには思い出してみよう」という一節がある。ルカたちは風化しない記憶をもったエスパルである。たいしてのび太たちはやがて確かに大人になる。そして、月を見あげては、子ども時代を思い出し、友達であるルカたちのことも思い出すのだ。「子ども時代の終わり」を印象づけるドラえもんで、最後にルカたちは「大人になりたい」という願望をもった。それは、脚本を書いた辻村深月が、ドラえもんという作品をテーマを含めて非常に深いところで理解していた証拠だろう。

「辻村深月のえがくドラえもん」において、彼女は、ある種のび太たちの子ども時代の終わりを予感させる展開を描いた。そこに、辻村深月のドラえもんにたいするおおいなる愛を感じたのは、僕だけではないだろう。

ちなみに、ディアボロとの決着のシーンでモゾを擁する空気砲をみんなを代表して撃つのび太だが、彼は射的の名手である。たんに主人公だから撃ったのではなく、明確な設定に基づいた現実的な指名狙撃であった。そのあたりも、ファンなら見逃さないだろう。


「のび太の宝島」そして「のび太の月面探査記」でこじ開けた未来


前作「のび太の宝島」は、これからのドラえもんを描くにあたって残っていた負の遺産をすべて回収した歴史的な一作だった。今作「のび太の月面探査記」は、言うなれば「そして、未来へ」と向けた革命的作品だろう。

脚本を書いた辻村深月は小説家である。物語を組み立てるときの武器は文字であり言葉である。たいして、監督を務めた八鍬新之介は、辻村深月の情報をアニメーションで演出する必要があり、今作ではこの2人のクリエイターとしてのしのぎの削りあいがとてもおもしろかった。子ども向け映画としての短い時間尺のなかで、辻村深月の文芸性と八鍬新之介の演芸性が殴りあう時間との闘いであった。

しかし、冒頭部にも述べたように、今作は「ドラえもんのつくりかたを再定義した作品」である。この先の未来を見つめて、藤子・F・不二雄の虎の巻である世界観をわかりやすく見つめなおした。いままでと違う現代のドラえもんだが、藤子・F・不二雄が描いたようなドラえもんであり、辻村深月の脚本を指標にして踏襲すればドラえもんができあがる。

辻村深月の脚本は、物語のプロットとしても、導線として一本の作品になっていてとてもよかった。前述したとおり向こう10年ぶんのクリエイターの未来を拓いた名作である。この2年間の作品で映画ドラえもんの歴史は間違いなく変わっただろう。この2作が続いてくれてよかった。ファンとして心からそう思う。

ドラえもんのファンとしても、辻村深月のファンとしても。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?