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コロナ禍の大学生は無音の部屋で何を思う

 先日、大学の恩師(?)がついに教員を引退した。先生は1949年生まれなので、72歳だろうか。かつて私のゼミの教授だった。10年前、大学4年の私のゼミを担当してくれた。

 先生の名前は村上玄一といい、作家として小説も出しているし、編集者として野坂昭如を担当した経歴もある。

野坂昭如の全長編小説を(省略)何も見ないで、それを全部書けるのは、世界中で私一人です。たぶん、間違いありません。そんなこと出来ても何の役にも立ちません。無意味以外の何ものでもないでしょう。だけど、私の心の中では「大きな自信」になっています。(182頁)

 これは、先生が私に「献本」してくれた『ZOOMに背を向けた大学教授 コロナ禍のオンライン授業』(村上玄一 幻戯書房 2021年)に書いてあった。

 この本は、先生が突如始まったリモート授業に四苦八苦し、教員生活最後の一年をどう全うしたかの経緯が書かれている。
 内容の殆どは、実際に学生に送った授業資料の記録なわけだが、自分がもし大学生で、この授業を受けていたら何を思うか想像した。

 大学生の日常が奪われているのは承知していた。
 しかし大学生と直接関わる機会もないので、実際のところ、何が起きているのかよくわかっていなかった。

 大学教授の講義録を読み、その深刻な状況を知ったので、感想を述べたい。

リモート授業は動画とは限らない

 リモート授業というのは、パソコンの画面越しに動画で受ける授業だと私は思っていた。
 私が受験生だった頃(15年くらい前だ)東進ハイスクールという予備校に通っていたが、既にDVDによる動画授業だったし、ここ一年くらいハマっているオンライン英会話アプリ『NativeCamp. 』ももちろんビデオ通話で外国人講師と会話する形態をとっている。
 私の中ではリモート=動画という認識ができていた。
 だが、村上先生は、様々な制約によって、動画による授業ができなかった。

私は十年ほど前に網膜剥離を患って左目を手術しており、それ以来、極度に視力が低下している。もともと酷い近視で、右目は使用不能の状態、ふだん駆使していた左目も役立たずの状況

私が悪戦苦闘している顔が大写しになり、何度も何度も画面を覆ってしまう、そんな画像を押しつけられる受講生に申し訳が立たない。(3頁)


 先生は目が悪いので、リアルタイムのスピード感でパソコンを操作したり、学生とのメッセージをやり取りするのが困難だった。

 そこで、動画と音声を廃した「講義資料・課題提示による授業」を行う選択をした。

 つまり、学生が授業の時間にパソコンを開くと、事前に先生が作った講義資料が現れる。そこには、講義資料(文章のみ)と、課題が示されている。彼らは課題を期限以内に提出する。
 先生はそれをメールで受け取ると、次の授業までに各人に対する採点や批評を行う。
 これの繰り返しだ。

 今の感覚の人には手抜きのように思われるかもしれないが、実際は、毎週五科目あり、その全てに講義資料を作らなければならないので、相当な文章量を書くことになったようだ。
 ちなみに、芸術学部の文芸学科なので、内容の自由度は高い。学生の課題内容を受けて、臨機応変に時事問題も絡めながら文を書くので、見たところ毎週5本のエッセイを掲載しているようにも思える。

 それにしても、大学のリモート授業に、動画も音声もリアルタイムのメッセージのやり取りもないものがあるというのはやはり意外だった。

 学生は果たして、その時どこにいるのか。
 多くは部屋にいるだろう。一人暮らしならば、まさに無音かもしれない。
 無音の部屋で、彼らは何を思っていたのか。

大学生はどうするべきか

 私ももう30歳を超えた男で、現在の学生事情はよくわからない。

 私は常々、コロナ禍はコロナ対策の過剰によって起きた集団ヒステリックだと考えているし、社会はいち早く正常化すべきだと思っている。

 しかし、現実問題社会はすぐには変わらない。個人レベルでは、うまく対処して乗る切らないといけない。

 まず学生に伝えたいのは、コロナを恐れないこと。それついては以下の記事を読んでほしい。

 次に、エゴイストになること。
 優等生ぶって、勝手に我慢して、損をして、不満を言っている間に青春は終わってしまう。
 ちょうど最近、先生の本と同時期に別のノンフィクションを読んだ。自衛隊の特殊部隊を創設した元自衛官の自伝だ。以下は、その中に出てくる子供時代の作者とその父の会話である。

「父さん、人を殺しちゃいけないよね?」
「まあな」
「人を殺したら死刑になっちゃうよね?」
「そうだな」
「死刑になったら、駄目だよね?」
「駄目ってことはない」
「でも、人を殺しちゃいけないよね?」
「いいことじゃない」
 不意に父の表情が変わった。
「それより、お前は死刑になるからってやめるのか?」
「え……」
「死刑になるくらいでなぜやめるんだ。死刑になろうが、なんだろうが、やらなきゃならないことってあるだろう。死刑になるくらいのことでやめるな。やれ!」
 これが私の人生を決めてしまった。
 科せられるペナルティーの大きさで自分の行動を決めるな、という父の真意を理解するには数年を要したが、アメに魅かれることもなく、ムチを恐れることもなく、ただ自分の信念で行動を決める人生に憧れてしまった。
『自衛隊失格 私が「特殊部隊」を去った理由』
伊藤祐靖 新潮社 令和3年 269-270頁

 エゴイストになれ、というのは自由気ままになれ、ということではない。
 自分がやるべきことはやれ、ということだ。

 社会的使命でなくとも、大切なことが、もう大学生ならあるはず。そのためなら、他者を犠牲にしても、やるべきだ。

村上玄一のメッセージ

 つい、別の本を引用してしまったが、村上先生の本に書いてある、講義資料には、学生に対するエールが存分に書いてある。

無関心を決め込み、昔の本ばかり読んでいてはいけません。今、生きている社会の現実に目を背けては何も始まりません。(25頁)

多くの学生は、どんなに「書く才能」があっても、卒業して、社会に放り出されてしまうと、仕事や生活を優先し、八〇%以上の人が「夢」を諦めます。肝に銘じておくことは、「諦めない心」とその「覚悟」です。(124頁)

人の悪口を友達に長電話したり、やけ酒を飲んで自分を誤魔化したり、それらは大いなる時間の浪費です。(125頁)

 動画で授業してくれと、かなり学生たちから意見されたらしいが、文字だけ授業を貫き通し、その反動なのかとてもいいことをおっしゃっている。

 先生自身もつらそうで、夏に心労で倒れて入院したらしい。
 休学や、音信不通となった学生、入学できない留学生もかかえて、大学について自問したようだ。
 それでも最後の授業でしっかりとエールを送っていた。

「ついに皆さんとは一度も会うことができませんでした(省略)音声も動画もなく、文字だけの授業になりましたが、よく付き合ってくれました(省略)私は二〇二〇年度で定年退職です。コロナが収束したとしても、私は大学にいません(省略)でも受講してくれた皆さんの名簿は、いつまでも大切に保管しておきます。社会に出て大舞台で活躍されることを切に望んでおります。いえ、それだけが人生ではありません。でも『あの人は、いい人だ』と言われる人になってください。遠くにいても応援は忘れません。」(113頁)

私ならどうするか

 さて、最後に、私がコロナ禍の大学生ならどうするか、を考えた。

 コロナ禍の特性は、とにかく人との出逢いがないことだ。

 すでに家族や恋人、友達がいる人は、そこの関係を深めるという選択もあるが、大学生だとそこまで人間関係の基盤がない人も多い。

 まず、存分にSNSを活用する。Twitterなどで、同じ思いの人を探すのだ。
 そして実際に会って、食事でもしてみる。

 また、外国人と接する機会も減っているはずなので、英会話アプリで英語の勉強がてら、外国人と話す楽しみを経験する。
 これは、英語能力向上以外に、声出し、という効能もある。コロナ禍の学生で一人暮らしだと、下手したら一日声を出さずに終わることもあるだろう。これはかなり精神にこたえる。私も学生時代フランスに2ヶ月一人旅をした時に、全く話さなかったので、鬱になりかけた。

 あとは、先生の言う通り、とにかく本を読む。せっかく時間があるならば、知識と知性を蓄える。

 バイトの求人があまりないなら、せどりやブログをやってみるのもありかもしれない。YouTubeにいくらでもやり方を教えてくれる人がいる。

 ぜひ、知恵をしぼり、切り抜けてほしい。


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