つくられたもの
月組の『今夜、ロマンス劇場で』の時も、『刀剣乱舞 禺伝 矛盾源氏物語』の時も思ったのだけど、「つくられたもの」が行き着く先はどこにあるのだろう。
もちろん、受信者の心の中が行き着く先の1つではある。でもそれは、「受信者にとっての『つくられたもの』の行き着く先」。「つくられたもの」そのものがもつ意識はどこに行くんだろう。
それはきっと、物語によって様々なんだろう。
禺伝に綾さんが出演されるのが決まって以降、刀剣乱舞のゲームをぽちぽちプレイしているが、審神者の皆さんのツイートなど観ていると、各本丸、各審神者、各刀剣男士達、それぞれがそれぞれに物語を持っているのだなぁと気づいた。
例えば初期刀1振りとったって、同じ加州清光を選んでいても、本丸によっては加州が歩む物語は変わってくるし、顕現する加州が全て同じ性格かと言われれば必ずしもそうではない。
先日、今剣を修行に出したら、2日目の手紙がなんだか不穏だった。3日目の手紙には、彼は本当は歴史上にはいなかった、と書かれてあった。
検索をかけてみる。今剣とみられる刀は確かにあれど、「今剣」が存在したかどうかは定かではない。とはいえ、刀剣乱舞の公式二次創作(刀ミュ、刀ステなど)では、今剣が歴史上に実在した刀としての設定があった時もあった。
頭の中でぐるぐる考えてた時に、偶然にも近侍が綾さんが演じられた一文字則宗だった。
綾さんが演じた御前は、あるいは禺伝の歌仙兼定と御前は、物語が物語たる余白を作っていたような気がする。
ラストのシーン、何故時間遡行軍を追いかけなかったのか、歌仙の言葉を聴きながら、現実もまた、ある種物語であるから、現実も「現実」だと断言することは出来ないから。源氏物語が、まるっきりフィクションだと、私たちは誰だって断言できない。そういう風に私は解釈した。
今剣からの3日目の手紙を読み終えた時、則宗様は言った。
「色々なものを見てきた。美しいものも、そうでないものも…」
御前は、実在する刀ではあれど、御前のもつ「逸話」は司馬遼太郎の新撰組の話に由来する。
慶応甲府の回想の中にも、彼は、自分が沖田の刀であったのは物語の中だけ、という旨を呟いていた。
1人静かに悲しみを背負って。
物語が行き着く先に、こんな悲しみが生まれていた。
御前は、禺伝の中で、物語の登場人物達を否定しなかったのは、「僕が沖田総司を否定してしまうからなぁ」と。
与えられた逸話は、真実ではないけれど、御前が物語の中で過ごした時間に行き着いたのは、沖田からの愛だったのだろう。だから、彼が史実の上では沖田の刀でないことに、彼は涙したのだろうか。
つくることは業の深いこと。
それを最初に思ったのが、月組で上演された『今夜、ロマンス劇場で』。
映画から抜け出てきた美雪が語った、忘れられる辛さ。
今私たちが愛する舞台も、映像も文章もイラストも、もし忘れ去られる日が来たら。刀剣乱舞もそう。忘れ去られてしまったら、そこに息づいた魂達は、忘却の時間の中、何を思って生きるのだろうか。愛されていた時を思って悲しむのだろうか。
生み出した者たちも、受け取っていた者たちも、いつかは滅んで、後の世代に受け継がれないものだって、今までだってたくさんあっただろうし、これからもたくさんあるんだろう。
今生きる私に出来ることはなんだろう。
少なくとも、愛し続けることは出来るはずだろう。その時の息遣い、空間の温かさ、生み出された者たちの想い…忘れなければ、彼らの想いも、悲しみに沈むことはないのだろうか。わからないけれど。
どうか、つくられたもの達が受ける哀しみが、痛みが、少しでも和らいでいますように。
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