連載「人命の特別を言わず*言う」の第13回「人間的なもの」、公開です!

※ 本の最後の章、第4章の第2節を掲載してもらう。この章は4節で構成されるので、今回合わせてあと3回でいったん終わるはず。
 以下は前回の前置きと同じ。全体を読んでもらわないとなんだかわからないのも当然だ。それで、私のページに『人命の特別を言わず*言う』と『人命の特別を言わず*言う 補註』を置いてある。全体としてどういうことを言いたいのか、どういう流れの話になっているのかおわかりになると思う。また、とくにこの「note」という媒体ではうまく註に行かないようだ。それを『捕註』のほうに掲載していくことにする。合わせて読んでいただければと思う。                                 

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第4章 高めず、認める

■■2 人間的なもの                         ■1 系譜
 私は、まず人について、ときにその生死にも関わる境界を引いたものは、結局、第1章にみた「人間的なもの」の規定にあると考える。依然として「主体」であることだと考えるし、それにどう対するかだと思う。それは第1章でみた議論をすなおに捉えればわかることだ。
 人間的なもの、つまり意識すること、意識的に制御することは、他のことは上手でない代わりに人間が得た特技なのでもあろうから、必要なことではあり、大切にされるのはわかる。ただ、この社会に起こったのは、それだけのことではない。そこにいくらかの「上乗せ」があった時に、価値の上乗せされた人間が現れる。その道行きは必然とも言えることであって、その道から離脱すること、すくなくとも離脱しきることはできない。しかし、そんなことをしなくてよいことは、それも一つには知的な営為を経てのことだが、わかる。
 よいことをする営み、よいことを言う営みを観察する。それは、距離をとろうという行ないだが、たんに観察するというのではなくて、実践的なことでもある。それは規範を言わないということではない。言う。ただ言うときにその言い方、位置づくその位置に注意深くあろうという態度であり、そうした態度による思考である。それは観念・言説の効果・帰結を測る。
 だから、それ自体はまずは、処世の際のまったく穏当な心がけのようなものであり、学問をする時の心構えのようなものだ。ただ意外なほどなされていない。それはよくないと思う。以下では、一人とその人を共通の祖先とするその後の人二人が述べたことをみていく。

■2 罪の主体・行ないの主体
 「主体」はいろいろな現れ方をする。その筋は複数あるが、数は多くない。
 生きるに際してのものを得ようとする。それは、たいがいは獲物をとって食べるといったわかりやすいことだ。生きていくのに必要なものを得る。得て暮らす。必要なことであり、そのことをよいとすれば、よいことだが、わざわざそのように言う必要もないことだ。
 ただ、もっと大きなものを得ようとなれば、それだけでは得られないと思われる。たんになにか(よいこと)をしてなにか(よいこと)を得ようということではない。それは、もっと大きなものを得ようとする時に現れる。宗教にはそんなところがある。
 死後救われるかどうかとか、そうしたことが気になってしまい、(よい)答えの欲しい問いになり、その実現が課題になる。この時には、求められているものも、それに関わることの因果、経路も、それほど可視的ではない。だから、その道筋もいくつかに分かれる。普通に求められないものを求めるのが宗教というもの、そこで起こるできごとだと考えてよい。
 まずはルールを守ってよい行ないをするのがよいとされ、それが救いにつながるとされる。ただ、得たいものがそう簡単には得られないものであるとなると、難しい行ないを行なう方向に行くこともある。
 しかしそれはおかしい、よくないと言われることがある。そんな行ないができる人たちは限られていて、そんな余裕のない人たちもいくらもいるだろうというのだ。些細なきまりを大事にしていると言うのは批判する側なのだから、実際にはどの程度か、そのままには受け取らないことにするが、その面を捉えて、ユダヤ教を戒律主義・律法主義であり、選良のものだと批判して、キリスト教が出てくる。すくなくとも一つの路がそのようなものだ(★08)。
 それは、行為ではなく、その背後に罪を見出す。あるいは、罪が宿る場所としての「内面」を作ることになった。するとその領域での罪は否定できない。皆に内面の罪がある。皆が罪人になる。そしてそれは自分では救えない。その救い主として神がいる。問われたり、あるいは自ら問うなら、罪の「もと」になる思いがないことを証せる人はいない。するとその教えはすべての人に及ぶ。自らが主体であり・主人であることによって、隷属するという構図が現れる。この罪の範式においては、自分では除去できないものを神が許して救ってくれるという体裁になっている。このように普遍性が獲得される。そんな仕組みになっている。
 ニーチェは、人を神に、むしろ代理人・組織につなげてしまうその仕組みを記し、そして糾した。『善悪の彼岸』(Nietzsche[1885-86])、『道徳の系譜』([1887])等が知られている。二つを一冊にしたものがちくま学芸文庫になっている。
 執拗にキリスト教を非難したその人の情熱がいったいどこから来たのか知らない。ただ、神さまとは言っても、間にいるのは教会であり、罪について聞き出したりするのは司祭だとかそんな人たちでもある。そこに権力は生ずる。そんな人たちや、そんな人たちの教会、その教会に支配される社会に下属するのが嫌だったのだろう。そういう仕掛けに対する強い恨みをもっていたのかもしれない。そういうものによって弱くされてしまう人、卑屈になってしまう人が嫌いで、それに対抗する力、別の強度を見ようとしたのかもしれない。きっとニーチェは、もっとはればれとした人のあり方を求めたのだろう。しかし、たびたびの繰り返しになるが、なにかを批判する際に、他方に「よいもの」をもってこなければならないわけではない。そのよいものをもってこようという所作は、不要というより有害なことにもなりうる。だから、例えば「超人」といったものを信じる必要はとくにないと思う。それでも、その気持ちはわからないではない(★09)。
 もちろん、律法主義を採らないといっても、守るべき行ないについてのきまりは決められ、遵守すべきものとされる。行為と内面とがつながった上で、どこが強調されるかは時によって変わる。この宗教にしても、多くの人たちはもっとおおらかに神を信じ、おおらかに帰依する。ただ自らによいことがあるように、そしてそれは自分でかなえられることではないから、祈る。ただ、ときに、人間、人間の内部、内部と行為の結びつきが顕在化し、大きくなる。
 とくにこの世でうまくやっている人たちは、なにがしかうしろめたいこともしているから、罪を逃れていることにさほど自信はない。救われるとはなかなか思えない。そこで、やはりよいことをしてなんとか、ということになる。その人たちは持つものは持っているから、行ない、というよりむしろその結果として得られたとされる財を教会に寄進する。神を代理する組織は富を増やす。天国と地獄の間に「煉獄」(Le Goff[1981=1988])といったものがあることになると、今までなら地獄行きかと思っていたが、煉獄にいったんとどめてもらえると思う人たちが、ゆくゆくは天国に上がっていければと、死後ミサなどしてもらうために寄進を行なう。その仕組みのもとで儲かる人たちがおり、組織がある。
 それを、堕落している、と批判する人たち=プロテスタントが現れる。神が実質的には人間の申し出に応じるというのなら、それは交渉における対等な関係に近くなってしまう。神がそんな存在であるはずはなく、もっとずっと隔絶した絶対的なものだとされる。その信仰の方向の一部は、救われる・救われないは既に予定されている、しかもその予定は人に知れないとする。予定されているなら、何もしようがないようにも思われ、すっかり投げやりになり自堕落になってしまうような気もする。しかし、自らを律して世界の富を増やすそのように自分が存在していることによって予めの救いを信じようとしたのだと、そしてその信仰と、そんなことが信じられた地域における資本主義の隆盛とが関係しているというのが、ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(Weber[1904/1905=1989])に記したことだ(★10)。ニーチェから20年ほどの後、このことが言われた。
 人が救われる救われないを神が予定し、人はその予定を知ることができないとしたうえで、予定されていることを信じようとする。これは非常に奇妙で倒錯した教義だと思える。ただ、これはたんに宗教由来とは言えないはずだが、人の営みにより地上の富を増やすことが神の栄光を増やすことであり、その営みをなすことが自らの価値であるとされる。それが信じられているなら、この構図は現れる。さらに、直接に知られないことによって、かえって、それを一貫性をもって不断に行なう方向に強化される。ただ決まったことをこなしていればよいということではない。そして、信仰そのものが薄くなっていっても、その価値の構図は維持される。
 そして、その世紀の後半、ニーチェを継いだのはフーコーだ。さきに、生・権力だとか生・政治といったものは、この社会においてたしかに大きな部分だが、この人に言われなくても人々は体験してきたし知っていたし、言葉にもしてきたことだと述べた。それより、ニーチェを継いで、「主体化」(フランス語ではassujettissement、sujetは「主体」の意味を有するとともに「臣下」の意味をもっている)を言ったことが大切なことだったと思う。ただ、それを言ったのは『監獄の誕生』(Foucault[1975=1977])における「パノプティコン(一望監視装置)」の描述においてだったといった捉え方もあったが、それはいささか乱暴な話だ。それではなく、『性の歴史』第1巻において、教会での告解において各人が自らの性について語り、その主体となることによって神に従属するその構図と様子が描かれる(★11)。それは普通にニーチェを継承し、反復している。そしてその人もたぶんやはり、そのような体制から逃げようとしている。ゲイに教会が冷たいといった事情があったと記している本もある(★12)。

■3 主体の遇し方
 ここにも、代わりにどういう道があるのかという問いはある。ある地域の教養ある人たちであれば、ギリシア的なものが、あるいはローマ的なものが呼び出されたのかもしれない。『性の歴史』の続きもそんな具合になっている(★13)。それもわかりはするが、そのような道を行くのだけがよいのかとも思う。
 まず、こうした世界と世界からの脱出は、現実のものとして、私を縛った望みではない。私の関心の対象としては、普通に経済的な意味での所有についての規則や観念がさきにあった。それが検討し批判する対象であったし、それは今も変わらない。それを批判することは、第1章に記したことと同様に、簡単だと思ってきたし、今も思っている。しかし、それは強く信じられているようだ。その信は深くて広い。どうしてそんなことになってしまっているのか。そんなことで、刑罰・行刑の歴史について書かれたものや、やはりキリスト教は大切なのだろうと思って、アウグスティヌスやトマスの翻訳ものの全集をすこし見たりした。
 刑罰・行刑の歴史と経済・所有のことと、両方を「主体の系譜」という題の修士論文(立岩[1985]、ただ現物はどこにもない)に書いた。『監獄の誕生』で言われていることがそれほど新しいことではないといったことはすぐに確認できた。ただ論文自体はまとまらずに終わった。『私的所有論』では狭義の所有についてだけ書いた。
 自らから発したものが自らに還ってくる。これが基本的な構図であることは明らかだと考えた。生産の主体であることによって所有の主体であるという規範がある。また生産する主体であることが、それを立派に行なう者は神の救いを予定されているといった観念に仲介され、人間の価値とされる。私(たち)は、財の所有についてはこの構図を基本的には否定する。その考えは変わらないし、変えるつもりもないのだが、すると、その考えを一貫させるなら、責任・刑罰についても、帰責の構図を否定することになるだろうか。
 そこがうまく言えなかった。長いこと、そのごく単純な問いを思ってきた。そして今は、この構図を否定するか肯定するかということではないのだろうと、まったく穏当なことを考えている。私があることを行なった。それがその人に帰属され帰責されることがある。その強さに違いはあるが、個人への帰責がまったくない社会は想定しにくい。実際、人為や、人の意図をまったく算入することのない社会はまずない。そして、この契機を無視し、またなくしてしまうことはよくない。とくに人を毀損する行ないについて、それを意図し、実際に行なった者が責を負うことはあってよいとする(★14)。
 こうして、帰属→帰責の観念とその仕組みはどんな社会にもいくらかはあるし、あってよいと私は捉える。ただ、この図式を強化し拡大する装置があるのかないのか。そのことによって社会と人のありようは変わってくる。そのように見ていくことにする。
 内面→行ないという構図が人々に書き込まれているとしよう。すると、自らを示すものは、自らに見えなくても自らのなかにあるのだとなる。既に自己を制御し行為を行なう人間が(価値ある)人間であるという価値があるなら、選ばれているというそのこと自体は人間には見えないが、行ないは選ばれていることを示すとされることはある。そしてこのつながりは、特定の宗教を信じるとか知っているとかに関わりなく、社会のなかで広がり強まることになる。むろん、こんな不思議なことを信じられる人は多くはないのだが、たいして信じない人たちもそれに巻き込まれることになる。最後までそんな図式を知らず信じない人たちもいるが、その人たちは、普通に人が知っていることを知らず、従うべき規範に従えない人であるとされるのだ。
 主体の構図から完全には逃れられないし、またそうすべきでもないのだろうと私は思う。その全体を否定することはない。実際、人間が主体であることは事実として否定できないし、そこに責任は生ずる。自らが知って決めて行なったことについて、そしてそれがとりわけ相手の人を毀損する行ないであるならその責任は問われる。それは、「自由意志」といったものが実在するか否かといった議論とは別に言えることだ。結局、それはなくならないし、なくすべきことでもない。
 しかし、同時に、自らに返ってくる分をあまり大きく計算することはないということだ。よいことであれ、よくないことであれ、私がこの社会で私のこととされることをたくさん引き受けてしまうこと、それはもちろん人によっては益をもたらすのだが、その構図とこの構図のもとでの財の配分が負荷になることが起こる。同時に、他の人たち、社会の他の部分は負担が少なくなる。それは不要であり不当であると言える場合がたくさんある。
 これ自体はおそろしく単純な話だ。つまり、あるかないかではなく、強くするものと弱くするものがある。そして弱くしたほうがよいことがある。第1章で見たものは、今はもうすこし穏健なものが多いのかもしれないのだが、しなくてもよいことを言い、強くする必要のないものを強くしている。

■註
★08 【 】内は第2版での追記。
 「多くの宗教は外的な行為の形を指示し、また、そのことによって自らの同一性を保持する。つまり、なすべき行為となすべきでない行為を指示し、その遵守を求めることで例えば来世での幸福を約束する。キリスト教が当初その一分派であったところのユダヤ教はそうだった。キリスト教はそういった空間から離脱する、とは言えないとしても、それを屈曲させ、別の空間を提示する。キリスト教は罪が構成される場所を個体の内部に移行させ、内部(の罪)の発見を促す(吉本隆明[1978]、橋爪大三郎[1982])。ここに罪の主体としての人間が現われ、このことによって人はこの宗教の下に捉えられる。問うことによって内部という領域が現れるが、それはそれ自体としては当人にも不可視であり、それだけに内部にあると名指されるものを否定し難い。そこで、この場所が問題になるや、そこに諸個体はひきこまれてしまう。共通の主題へと導かれていく。【吉本[1978]に「親鸞論註」とともに収録された「喩としてのマルコ伝」は、後に吉本[1987]に収録された。)】
 キリスト教はこのことによって普遍性を獲得した。第一に(発見されようとする限りでの)内部の存在の普遍性と、(同様に在るのではと疑われる限りでの)内面の罪の否定不可能性によって、あらゆる人間に対して効力を持つ(可能性を有する)という意味での普遍性。第二に、各人の身体を具体的に拘束する諸規範を必ずしも否定することなく、別の準位、しかも具体的な行為に対してメタの位置に立つ抽象的な準位としての内面に教義を定位させることにおいて獲得される、個別規範の具体性に対する普遍性。そしてこの逃れがたい罪を赦す神をここに置くことによって、キリスト教は普遍宗教たりえた。しかもこの教義は、(内面が個体の内面である限りにおいて)人間を集団として捉えるのではなく、個別の存在として取り出し、さらに――救いへの導きにおいて――個々別々に作用するものである。以上の二つの意味での「普遍性」と二つの意味での「個別性」は矛盾しない。あらゆる人間に作用し、また個別の規範に対して上位の位置に立つ、そして個々の人間を別々の存在として取り出し、またその個別の存在に作用する規範、の可能性が開かれたのである。
 ただ、右記した構制は、パウロ(Paulo)、アウグスティヌス(Augustinus)といった人々の言説の水準においてはともかく、西欧世界に当初より存在していたわけではない。例えば刑罰の領域では、行為=統一体の損傷、制裁=その回復、といった観念が根強く存在する。ここからの転位は一二世紀後半から一三世紀前半にかけて現れる。行為の外形における違背→秩序回復の儀式としての制裁という観念が失われ始め、行為者が倫理的に非難されるようになる。この時期は…」([1997→2013:419-421])
 橋爪[1982]は橋爪大三郎の「性愛論――第1稿」(橋爪[1982])。学部生の時、私はそれを「青焼き」でもらった。それは後に『橋爪大三郎コレクションII 性空間論』(橋爪[1993])に収録された。
★09 以下は「道徳は殺人を止められるか?」(永井・小泉[1998])における永井均の発言。
 「永井 善悪ということがはっきり言えなくなったので、やむを得ないから病だという形でとらえるということだと思うんです。病・病でない、健康・不健康みたいな対立のほうをまだ信じているんだと思うんです。これはニーチェもそうなんですね。ニーチェも、善悪を信じていないくせに、健康・不健康――そして病気は悪いという価値を信じているんですよ。ニーチェにはいろいろ欠陥があるんだけれども、それも大きな欠陥だとぼくは薄々感じているわけで△043 それはなぜかというと、病気という概念は善悪に依存するんじゃないかという、ある種の疑いがある。全面的かどうかわからないけれども、どこか非常に決定的なところで依存しないと成り立たないんじゃないかという疑いがあるわけです。純粋に生理学的な病気みたいなことが言えればいいんだけれども、それが成り立たないとすると、病気だったとか何とかいくら掘り下げていっても、それからは実は何もわからないことになるんですね。
 それと関連するのですが、ニーチェには「道徳の系譜学」という議論があって、系譜学的研究というのをやるんだけれども、あれは実は何も明らかにしていないとも言えるんです。系譜学的探究というのは、いわば心理主義なんですよ。なぜそういう病気が発生したか、発生せぎるをえなかったかという話をしているんだけれども、あれをいくらやっても、なぜその病気が悪いのかということは一向に明らかにならない。ルサンチマンはなぜ悪いのかとか、ルサンチマンでなぜいけないのかとか、キリスト教道徳がなぜ悪いのかという、究極の根拠は与えられないんですよ。病気だとか弱いとか卑賤であるとか、そういう悪口を言うだけなんですね。悪口の根拠はいったい何かということは、実は系譜学的研究からは出て来ない。それと同じことがあって、心理的な探究というのは結局のところ、事柄を細かく見ていけば細部にわたってわかっていくんだろうけと、それがだから何なのかということは究極的には何もわからないというところがあると、ぼくは思うんです。」(永井[2018:43-44])
★10 『私』では第6章「個体への政治」の第1節「主体化」の1が「二重予定説」(立岩[1997→2013:380-382])。
★11 医療と社会ブックガイドの第49回「死/生の本・5――『性の歴史』」でこの本を紹介した。それは『生死の語り行い・2――私の良い死を見つめる本 etc.』(立岩[20170816])に収録された。
★12 エリボンによる『ミシェル・フーコー伝』(Eribon[1989=1991])。そのエリボンの自伝として『ランスへの帰郷』(Eribon[2009=2020])。
★13 『性の歴史』の第2巻・第3巻(Foucault[1984=1986][1984=1986])はそのように読まれる。
★14 そして、結局このことは既に『私』に書いたのだとも思った。図4・2という奇妙な図の解説として書いたことがそれを示す。「Aから切離されないものa2、Bの制御の対象としないものa2の存在が、Aが他者として在り享受されることの中核をなす」(立岩[1997→2013:221])。


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