連載「人命の特別を言わず*言う」,5回目の公開です!

※ 2度お知らせしましたが、2月19日、日本生命倫理学会・人生の最終段階におけるケア(End of life care)に関する部会主催の「エンドオブライフケアの諸相」で話をしました。私の分を録音した記録を「私のような死ぬのが怖いだけの単純な人間には無用ですが、多くの人はそうでもない。」から聞けるようにしました。本書のこと、そして、『良い死』と『唯の生』の一部を合わせたを文庫版で出していただく相談をしていること、何を思って、その本を、そしてこの連載をしているのか、終わりの方で話しています。(「多くの人はそうでもない。」の続きは、『介助の仕事』、p.216をご覧ください。)

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第2章 殺すことを認めたうえで人殺しを否定する

2 それにしても
■1 人はずっと間違えてきたと言える不思議
 人を殺すべきでないことをまず言い、人を特別扱いするなと言い、「殺すな」を他の動物にも適用していくというのが、動物を擁護するという人たちの話の筋だった。しかし私たちは、殺して食べることが悪いことだとはしなかった。そのように考えるほうが普通のことだと私は思うのだが、ある種の人々はそのように考えないようなのだ。
 次に、そのうえで、私は人を殺すことがよくないと主張することになる(本章第3節以降)。すると、やはり人・ヒトを特別扱いすることには違いないということになり、「種主義」でよくないなどと言われるのだろうか。そこで少し寄り道をし、確認をしておく。
 「種(差別)主義」の定義やその問題を何とするのかは一様ではないようだが(★10)、批判する側の批判の大きなものは、種(差別)主義がただヒトという種を特別に扱っているだけで、その扱いが正当である根拠を示していないということのようだ。
 しかし、「ただ特別に扱っていること」は、種主義の批判者についても言えるのではないか。このことを第1章に述べた。その人たちの側につけば、自分たちは理由を言っていると言うのだろう。知性・意識が尊重されるべき立派な大切なものであると言っている。立派であるから、殺されてならない。あるいは殺されてならないほど立派だという。そのことを言っていることになる。(1)○は大切、(2)大切なものはなくしてならない(大切でないものはなくしてよい)、(3)○のあるものをなくしてならない(ないものはなくして)よい。
 とすると、(1)でどのようにどうして大切かを言っている、論理の階段の段数が一つ増えていると言い、種主義はそれを言っていないということになるか。しかし、わからない。○が大切なことは認めてもよいが、それを(たくさん)有さない存在を消去してよいという理由がわからない。あるいは、その理由は否定される。だから、有意な説明が付加されているとは判断できない。このように述べた。
 その限りでは、批判の側が優位なわけではない、と私たちはまずは応じる。その上で、種主義の場合はヒトの尊重を言うだけで、そこで行き止まりだ、何も言っていないとする指摘に応じてみる。それが本書で以下行なおうとすることでもある。
 ただ、その前にやはり言っておく。人を特別扱いすることに特別の理由が必要なのだろうか。
 動物は殺すことがあるが人間は殺さない。それは、おおむね、殺生することがよいことであるとは思わないとしても、これまで人々がずっと守るべきだとしてきたことである。そのことを新たに理論的に考えなおしてみると、これまでの人々の営為はじつは根本的にまちがっていた、などということがあるのだろうか。二〇世紀の後半になって初めて、人は間違いに気づくといったことがあるのだろうか(★11)。問いを考え始める前に思ってしまうと述べたのは、このことだ。それまで、全世界的に、間違えてきたといったことがあるのだろうか。第1章で、変わったことを主張するという人の言っていることは、実はまったくこの時代・社会にあっては珍しくもないことだと述べたのだが、同時に、自分(たち)が言うまでみなが間違っていたといったことがあると本当にこの人たちは思えているとしたら、それが普通に不思議なのだ。
 すると必ず言われるのが、しばらく前までは例えば人種主義は不当なことだとはされてこなかった。しかし、今はよくないことだとされている。それと同じだというのである(★12)。同じである可能性全般は否定されない。ただ、前者が「ゆえない」(正当な根拠がない)扱いであると言えたとして、他方がそうでないかはまだ言えない――これからのことだ。加えれば、このような言い方には次第に世界は開明の度合いを増していくという考えがあるように思われるのだが、人種主義はむしろ近代のものであるという理解にももっともなところはあり、常に「人種」の間に争いがあったわけでなく、少なくとも殺し合いに至るようなことはほぼなく、自発的でない場合も含め交配の現実もあったことも言えるだろう。とすると比較の対象、複数のものを同列に扱うその扱い方を間違えてはいないか(★13)。
 そのように言っても、批判者たちは今までの道徳に対してもっと正しいものを提示していると言い続けるのだろうが、そしてたぶん言うだけでなく本当に思っているのだろうが、それは不思議だ。一つに道徳の進歩を信じているということか。私も進歩がないとは考えておらず、そして言葉の定義上、進歩はよいことだろう。ただ、ここで問われているのは生きていく際のとても基本的な規範だ。それが間違いであり、自分たちが正しいと、その人たちには思えているのだろうか。やはり不思議だ。ただここでは平行線を辿るだけだろう。進むことにする。

■2 種主義は人種主義ではない
 次に、それにしても、ヒトだから殺さないという種主義はどのようによくないのか。
 ヒトであるから殺さないという主張に対して、知性があるから殺さないという主張は、知性がある存在は存在するべきであるという根拠があり、ヒト(の一部)にはそれがあるから、ヒト(の一部)は生かさせるべきという主張であり、他方で、ヒトであることには存在するべき根拠がない、というのだった。そうなのだろうか、が問いであり、第1章で検討した。
 ただその前に一つ、種差別→人種差別という連想・連合があるのだろうと思う。「生物的なこと」で差をつけるのはよくない、人種差別主義と同じだからだめだと言うのだろうか。実際、そのようなことを言う人がいる。
 障害をもった新生児の「安楽死」を論ずる著書の中でレイチェルズが言うのは、「尊重されねばならない」「特別の敬意を受ける」その集合の範囲をヒトという「種」とする理由を見つけにくいということである。例えばその集合を特定の人種としても論理としてはよく、とするとこの主張は人種主義を肯定してしまうことにさえなるのではないか。レイチェルズは、「ある集合に属するものたちがその集合に属するものを尊重するのは正当な行ないだという」ノージック(★14)の提案を引用する(訳文はRachels[1986=1991:139-140]による)(★15)。

 普通の人間の特性(理性を持ち、自律的であり、内面的に豊かな生活を送る、等)は、ケンタウルス座の主星の住人を含むすべての人によって尊重されねばならない。しかしおそらく、もっとも重度の知恵遅れの人さえ持つような、単に人間であるという種としての裸の特性が、他の人間からだけ特別の敬意を受けるということが分かるであろう。このことは、いかなる種の一員も他の種の一員にたいしてよりも自分の仲間を重視するのが正当であるという一般的原則の一適用例である。ライオンの場合でも、もしライオンが道徳的主体であるなら、そのときには他のライオンの利害を最優先したからといって、批判されることはないであろう。(Nozick[1983])

 それに対してレイチェルズが言う。

 例えば、われわれの人種に属している者にたいして特別な考慮を払うことは正当化されると提案されたとしよう。そういう提案にたいしては、拒否するのが正しいであろう。しかし、それはなぜなのか。それにたいしては、他の人種に属する者もわれわれと同じように理性的で、自律的で、内面的に豊かな心理生活を営むのであり、したがって、彼らを同等の配慮を払って扱うべきと言われるであろう。ところが、ノージック主義者によれば、こういった考え方はただ「ケンタウルス座の主星の住人」がわれわれとの関係において位置づけられるように、われわれを他の人種との関係において位置づけるにすぎない。つまり、われわれはその住人たちが持たない特別な関係をわれわれと同じ人種の一員にたいしては持っているのだから、その住人たちにはそうすべき理由がないにしても、われわれが同じ人種の者を特別に扱うことは正当なことであろう。だが、こういった考え方が人種に関しては拒否されるなら、種に関してもそれを受け入れなければならない正当な理由はないと私には思われる。(問題は、ノージックが人種差別主義者であるということではない。実際、彼はそうではない。問題なのは、種に基づく差別を正当化しようとするときに、もしそれが認められるなら、人種差別をも正当化するような議論を不注意にも彼が行ったということなのである。)(Rachels[1986=1991:140-141])

 私はこの種の論に応じることができると考える。
 まず生物(学)的な差によって区別し差別するのがよくないという主張であるとして、人種というものが生物的な差であると言えるものなのか。私はよく知らないが、少なくともたいした差はないと言えるはずだ。ただ、ここでは、それが生物的な差であることを認めることにしよう。そして人種主義はよくないことも認める。そして人・ヒトという範疇が生物的な範疇であることも認めるとしよう。しかし以上からは、生物的・物理的・外見的…区分自体がよくないということにはならない。そして、人・ヒトとそれ以外という生物的な区分自体がよくないということにもならない。
 すると残るのは、種主義が人種主義を帰結する、あるいはそこまで言わないとしても、それを増進させる方向に作用するのでよくないという主張の可能性だ。しかし、種主義は、むしろ逆に、人種という区画を重要なものとしていないと見ることができるはずだ。むしろ、種主義は積極的に人種主義を否定すると言ってよい。そのように考えるほうが普通の考えではないか。まったく通俗的な標語として「人類はみな兄弟」という標語がある。私はその方向で考えていけばよいと思っている。人種主義が人類のなかに境界を引き差別する営みであるなら、種主義はそれを否定している(★16)。
 知性や理性については、よい/よくないが言えるということだった。その属性を基準にとっていくと、それを(十分に)有さない人・ヒトが除外されるという。それに対して私は、知性等が(ときに)よいものであることを認めないわけではないが、選別するほどのものではないと述べた。ヒトという境界についてはどうだろうか。生物的なもの、外見的なものを持ち出すこと自体がよくないわけではない。ならば、そこに意味があればよいということだろう。これから四つあるいは三つのことを言う。

■註
★10 生存学研究所のサイトに「種/種差別主義」という頁を作った。以下はそこに引用した文章の一部。
 「種差別主義(speciesism)」[…]――つまり、人の生命を、それが人のものであるという理由だけに基づいて、その他の有意味な点で違いがない人以外の生命とは異なった扱いをすることを、道徳的に正当化しうるとする見解」(Kuhse[1987=2006:19-20])
 「〔『動物の解放』等の〕著作の特徴は、動実験施設や工場畜産と呼ばれる現代の畜産のやりかたにおいてどれだけ動物が苦しめられているかを細かく描写した上に、動物の扱いを考える上での枠組みと、「種差別」(speciecism)という概念を紹介したことであった。」(伊勢田[2008:18])
 ここに付された注が「正確に言うと、「種差別」そのものはイギリスの動物愛護活動家リチャード・ライダーの造語だが、有名にしたのがシンガーであったためにしばしばシンガーが造語したと思われている。」(伊勢田[2008:18])
 「多くのベジタリアンは、動物を殺さない意志を正当化するのに反=種差別の主張をふりかざす。反=種差別主義者にとって、彼ら自身の種、すなわちヒトを別種の生物の犠牲のもとに優遇するのは受け容れがたいものだ。種差別という語は一九七〇年、英国のリチャード・ライダーが導入し、一九七五年、オーストラリアのピーター・シンガーにより再度取り上げられ、人種差別という語と重なりながら練り上げられてきた。だが種差別と人種差別は同じ意味をもっているのか? そこには疑問の余地がある。またカニバリズムは動物には稀であり、大型の肉食動物には存在しない。豹が同類を食うのを拒むからといって種差別主義者と言えろうか? そしてもし栄養を摂るのにヒト以外の動物を殺すことに同意するとしたら、ヒトは種差別主義者でありうるのだろうか? あるいはより正確に言えば、ヒトは豹よりも種差別主義者でありうるのだろうか? 他の種より優位に立とうとは考えず、自身を動物コミュニティのひとりだと認識している私からすると、あらゆる捕食動物と同じ行動を受け容れることが、唯一真の反=種差別的位置を築くことに繋がるように思える。つまりある種の種差別のかたち――「他の動物がそうであるように種差別主義者である」ことは、逆説的にも種差別主義者にならない唯一の方法なのだ。」(Lestel[2011=2020:52-53])
 リチャード・ライダーについての訳注:「Richard Hood Jack Dudley Ryder, 1940- イギリスの心理学者、動物の権利を守る活動家」(Lestel[2011=2020:168])
★11 日本での肉食の歴史については、第1章でも紹介した生田武志の著書の前篇Ⅴ「屠畜と肉食の歴史」(生田[2019:82-133])。また、動物解放の議論に肯定的であったが、「そういえば」、と、肉食の歴史や文化があることに思いを致すことになるという順序の文章もいくつかある。例えば、シンガーらの説を紹介した後(日本の関西の)肉食の文化に言及する白水士郎[2009]。『環境倫理学』(鬼頭・福永編[2009])に収録されている。
★12 「仲間に特別な配慮をするのは当然なことではないか。/あなたが種差別主義者なら当然なのだろうというのが、擁護派の答えだ。それはそう遠くない昔、多くの白人が自分たちの仲間である白人だけの面倒を見ようといっていたのと同じことなのだ、と。」([2006=2009:121]、「しかし私は」と続く)
★13 分子生物学者が人種について語られてきたことを紹介し現在の知見からどこまでのことを言えるかを述べた本に『人種は存在しない――人種問題と遺伝学』(Jordan[2008=2013])。その第1章が「人種および人種差別に関する小史」。
 では性差別と近代社会・資本制社会との関わりはどのように捉えられるか。『家族性分業論前哨』(立岩・村上[2011])に私の考えたことを述べた。
★14 ノージック(Nozick, Robert、1938~2002)は最初の著書ということになる『アナーキー・国家・ユートピア』(Nozick[1974=1992])で知られている。その論について『私的所有論』で検討し、批判した(立岩[1997→2013:75-76,115-116])。ただこの人は一生同じことを言い続けるという種類の人ではなかった。
★15 レイチェルズの文章とレイチェルズが引用しているノージックの文章を『私的所有論』で引いた([1997→2013:313-314,353-354])。そして「この素朴な区別は、レイチェルズからノージックに投げかけられた問いにひとまず答えていることになる。」とした。その直前の文が「人は人から生まれる。人は人以外のものを産まない。人から生まれるものが人であり、そうでないものが人ではない。他にはどんな違いもないとしても、これだけの違いはある。そしてこの時に、人が生きていくものとしてあるのは既に前提されてしまっている。」(立岩[1997→2013:315-316])「既に前提されてしまっている」は少し強い表現かもしれない。それで本書も書いた。
 レイチェルズには他に訳書としてRachels[1999=2003]。その論は有馬[2012]でも紹介されている。以上は『私的所有論 第2版』に付した情報(立岩[1997→2013:354])。
★16 World Conference Against Racism(WCAR、反人種主義・差別撤廃世界会議)「人種主義の本質」より。「はじめに、もともと「人種」の概念は、政治的な目的で頻繁に利用される社会的に作られたものであると認識する。圧倒的勢力の権威が、科学的、人類学的な問題として、人間が違う「人種」に決定的に分類されるという認識が神話であることを証明している。人種は一つしかない。それは「人間」という人種である。」(World Conference Against Racism[2000]

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