連載「人命の特別を言わず*言う」の第16回、公開します!

 ※ きっと9月に出してもらえるだろう『人命の特別を言わず*言う』の最後の章、第4章「高めず、認める」の第3節「人間を高めず認める」。今回は、1「還る思想」、2「かけがえのない、大したことのない私」、3「人の像は空っぽであってよい」の3。全体の目次・構成は『人命の特別を言わず*言う』『人命の特別を言わず*言う 補註』をご覧ください。第4章4節が1回分なら、本のための連載は今回含めてあと2回で終わるはず。ただ、このかん買い足した本などもあるので、本になる時の分量を考えた上でだが、「おまけ」みたいな文章を、本の告知・宣伝を兼ねて、何回かさせていただくかもしれない。

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第4章 高めず、認める

■3 人の像は空っぽであってよい
 吉本が親鸞について書くのは、いっときの社会の騒乱の少し後、1970年代の半ばあたりになる。この人は、ずっと以前に労働組合運動に関わりそれで消耗した人でもあり、60年安保闘争では運動を穏健なものに留めようとした革新政党と対立した人でもあった。そして「在野」の人であり続けた。その人たちの活動は、大学といった組織や、○○学といった学問の内部から行われたのではない。そして、前衛・前衛党とされる組織も含め、たいがいの組織的なもの体制的なものを批判した。
 その姿勢は、組織に疲労し、反感や怨念がある人たちに受容され支持された。主義や組織は自己展開していってろくなものをもたらさないという感覚があった。大学には行ったにせよ、学問の内部に入っていったのではない人たち、そこから離れた人たちに読まれた。私が知っている人たちの多くは既に、あるいはもとより、もっとものを読まない人たちだったから、その人のものも読まれた気配はあまりない。ただ、その周辺にいる人たちには読んだ人がいるだろう。吉本はそんな人たちに一定受容されたのだと思う(★24)。
 その人の言葉として知られている「大衆の原像」という言葉があった。吉本がそういう存在を肯定していることは伝わる(★25)。それは、考えて、前に行って、戻って来て、するとそこに最初からいたはずの人がいる、という筋とも重なる。そして、その人には、発生論としてものを考えて書くところがあった(★26)。
 では、そこに「もともと」いるのはいったいどんな人なのか。工学の方面の大学を出ているからというわけではないだろうが、吉本は科学技術に対するあらかじめの反感といったものはもたない人であり、自然に還れ的な発想の人ではなかった。そのほうがよかったと思う。そして「市井の人」、東京の下町の、彼の住んでいた近所にいる人たちを理想化しているといったことが言われることもある。
 実際には、あらゆるとまでは言わないとしても、人々の多くは十分に知的であり、いろいろを学び、さまざまを引き継いで生きている。多くの人が損得を計算し、なかなか難しいことを考え、生きている。結果、ずいぶんと多様でもある。「原像」は、その一部を除外し一部を取り出しているのではないかという疑いが生ずる。その人物像のどこかの部分を取り出すにせよ、その中身は何も言わないにせよ、その大衆の側に自分はいる、その味方だと思う人にとっては、それだけで肯定的な意味合いはあったにせよ、そこから話を進めていくこと、論を組み立てていくことは困難に思われる。
 後で付着したいろいろを引き剥がして何が残るのかと考えても、よくはわからないし、また皮を剥いたあげくに何かが出てきたとして、それが良いものかと問えば、そう決まったものではない。それは「疎外論」を巡るさまざまのあげく、私たちが1980年代に確認した数少ないことの一つである(★27)。つまり、もとに「よい人間」がいて、それがしかじか疎外されてよくないことになる、という物語があるのだが、何が「もと」にあるかはたいがい言えないし、仮に言えたとして、そのもとにあるものがその後にあるものよりもよいとは言えない。そして、全般に社会科学者は、そのことを考えたから、というよりはたいてい、たんに臆病か慎重なために、なにがよいとかよくないとか、そういうことは言わないことになっている。
 では何も言うことはない、となるか。そんなことはないと思って私は書いてきた。
 そもそも、行って還ってきて言えることは、人がなんであってもよいということだった。その限りで、そもそも具体的な人間の像はそこになくてよい、あるいはないのが当然のことになる。そしてそれは、現世において実際に実現されてよいことだというのだから、生きられる状態が現実に実現されるべきだとなる。そのぐらい緩いところから始めて、緩いままにしながら、それを可能にし容易にする仕組みを考えることができる。人間とその社会ができることはごく部分的なことだが、この程度のことならできる、なのでやる、と言うことはできるし、言うだけでなく行なうことかできる(★28)。それは例えば、利口な人にはいろいろと働いてもらいながら、そうでない人も損をしない社会である。考えたくない人が考えずにすむ社会、考えないと損をするので考えざるをえないといったことが少ない社会である。そんなところが「底」ということになる。そのために必要なものは必要、いらないものは不要、あとは各人が勝手に、となる(★29)。
 それはもとにあるのか、その後のできごとなのか。例えば、平等の望みは最初からあるのかそうではないのかといった問いがある。どちらとも言えるだろうし、私はそのことに関心がない。時間的により前にあるのかないのか、過去を辿ったり、実験したりして、わかるすべがあったとして、それは決定的なことではない。前にあるから、あるいは、後に来るから、よいとも言えない。それより、何を置くかであり、次に可能であるか、だからだ。現実に、人=ヒトがどのようにあってもよいという思いは、なにかの先であれ後であれ、そんなことはどうでもよく、ある。その実現は、人間についての観念によって妨げられ、現実によって困難にされるのだが、可能だ。
 だから、思い自体はたいして言葉を要さない。しかし、そのような方向で組み上がっている社会のもとで、その現実と接触する場所で、どのようにふるまっていくか、どのような仕組みを作っていくか。すると、仕方なく思考と言葉は増殖していく(★30)。考えること、作り出すことは、手段として必要である。そして人間たちの趣味でもある。それはそれでよいのだが、よけいなものもたくさん生み出すので、それに応じて熱を冷ます、ときに虚しくもある営みを続けていくことになる。

■註                               ★24 「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」(最首[1969])という気負った文章があり、同年の雑誌『現代の眼』(3月号)での「知性はわれわれに進撃を命ずる」という気負った題をつけられた座談会(最首他[1969])での発言が吉本に批判されて最首はへこんだりする。
 「私は、一九六九年に、当時教祖的存在だった吉本隆明から「この東大助手には、〈思想〉も〈実践〉も判っちゃいないのです」〔吉本隆明「情況への発言」、『試行』二七号、一九六九年三月、一〇頁〕というご託宣を受け、落ち込みましたし、考え込みました。「わかっちゃいない」と言われれば、「わかりたい」と思います。しかし「わからない」まま時間は過ぎてゆく。努力していないと言われるとそれまでです。しかし、密かに大きくなっていった意識は、「思想も実践もわかったらどうするのだ」ということでした。」(最首[2013:287])
 「ご託宣」のことは、『図書新聞』の吉本追悼特集に最首が寄せた文章(最首[2012])でも言及されている。そして吉本の文章(吉本[1969])は、吉本の同じ題の本『情況への発言』(吉本[1968])には、それは68年に出されたのだから当然だが、収録されておらず、『遺書』(吉本[1998])に収録されている。また『「情況への発言」全集成1』(吉本[2008])に収録されている。
 そんなこんなで最首はしばらく文章が書けなくなる。水俣の調査団には関わっていて、84年に『生あるものは皆この海に染まり』(最首[1984])が刊行される。その前、76年に星子(せいこ)が生まれる。ダウン症の子だった。その後に書いた文章をまとめたのが『星子が居る』(最首[1998])。
 (1970年代のはじめ)「必然的に書く言葉がなくなった。[…]そこへ星子がやってきた。そのことをめぐって私はふたたび書くことを始めたのだが、そして以後書くものはすべて星子をめぐってのことであり、そうなってしまうのはある種の喜びからで、呉智英氏はその事態をさして、智恵遅れの子をもって喜んでいる戦後もっとも気色の悪い病的な知識人と評した。[…]本質というか根本というか、奥深いところで、星子のような存在はマイナスなのだ、マイナスはマイナスとしなければ欺瞞はとめどなく広がる、という、いわゆる硬派の批判なのだと思う。」(最首[1997→1998:369-370])
 こうして最首は節目節目で批判を受けながら、結局は文章を書き続けていくことになる。私はこの部分を、第1章でも紹介した、そして加筆のうえ『不如意の身体』に収録した、「ないにこしたことはない、か・1」(立岩[20021025])でも引いている。その前には「他者がいることについての本」で引用した。
 「この「硬派の批判」に応え、言い返すことは、そんなに簡単なことではないと私は思う。どう言えるのか。気になる人は、硬派の人であっても、あるいは硬派の人に言い返したい人であっても、どちらでもよい。この本を読んでみたらよいと思う。」(立岩[19991025])
★25 なにか立派な存在である必要はないのだというところを「もと」に置くというのはよいと考える(→註29)。しかし同時に私は、社会を構想していくに際して、吉本の道具立てが使えると考えているわけではない(→註28)。
★26 実際、その人が受けたのは、なにかが展開していく過程――それにもよくわからない部分がある――を描いたことによってだった。吉本が主宰した同人誌『試行』あるいは別種の媒体に、吉本の論を下敷きにした「○○幻想論」といった類いの長い続きものの文章がたくさん書かれ、その雑誌他にも掲載された。発達心理学的なものであるとか哲学者のものであるとか、比較的容易に入手できる文献をいくつか集めると論を組み立てることができるということもあって、書けてしまうというところもあっただろう。それらのみながおもしろいものであったということはなかったと思う。
★27 規範的なことを語る時に、その基準・目標になにかを置くこと自体は、当然のことではある。それを「疎外」される前のなにかしらのものとして描くこともあるだろう。ただそれは、人間像、それも具体的な人間像として示されねばならないわけではない。やはり文庫として刊行してもらうことを願っている『自由の平等』の第3章の註01に次のように記した。
 「しばらく前に終止してしまったかのような諸思想について、それらが何だったのか、どんな論理の構造になっていたのか、何を巡って対立したのか、再検討する必要があると思う(序章注15)。(疎外論/物象化論という対立については廣松[1972][1981]等、田上[2000]、他。なお本節と本書の何箇所かは[1997]を論じた三村[2003]への応答でもある。)また、本文に記したのは現実が変わると意識が変わるという一つの線だが、むろんそれだけが想定されたのではない。両者の間の幾度もの往復が、希望とともに、描かれたのだった。それはたしかに空想的だと思える。しかし、人もまた変わっていくはずであると考えるのは、人はこんなものだろうというところから議論しそこに留まってしまうのと比べて、少なくとも論理的に誤っているということはない。人はどのように変わっていくかわからないのだと、だから「代替案」を示せという脅迫に「誰にも予見できない未来」(西川[2002:112,138-139])を対置することは正しいのだし、論と現実を先の方まで進めていこうとする力に対してリベラリズムが反動として作用することに苛立つ人がいる(Zizek[2001=2002])のも当然なのである。」(立岩[2004:319])
 なお、私は「疎外論」に対置されるものが「物象化論」――それは本章であまり肯定的に紹介してこなかった範疇化と支配等々を結びつける議論(→註05・07)に似ている――であるとは、ずっと以前、大学生を始めた頃にはそんなことなのだろうかと思っていたこともあったが、その後は、考えてはいない。
★28 富士学園労働組合主催で、小金井公会堂で行われた講演が「障害者問題と心的現象論」(吉本[19790317])。3カ月後に刊行された『季刊福祉労働』(現代書館)の第3号に掲載された(吉本[19790625])。私は長くまったく知らなかったが、『心とは何か――心的現象論入門』(吉本[20010615])にも収録された。そしてその音源が販売されていて、聞くことができる。私が富士学園にいっとき少し関わりがあったことについて、『そよ風のように街に出よう』に11年間掲載させていただいた「もらったものについて」の初回に記している。
 「時間を七九年・八〇年に戻す。教養学部の時、私は『黄河沙』というミニコミ誌を作る「時代錯誤社」というサークルにいて、今はつぶされてなくなってしまった駒場寮という汚い建物で雑誌を作っていた。ジョン・レノンが撃たれて死んだニュースはそこで聞いた。そのサークル自体はとくに「政治的」な傾きのあるところではなかったのだが、それでもいろいろに首を突っ込んでいる人もいた。さっき名前を出した人たちが出入りしていたし、そういう人たちとつきあいのある人たちが作ったサークルだった。私が学校に入る前年に創刊号が出た。今でもまだこの雑誌は続いているらしい。そのサークルが学園祭で講演会の企画を立てた。一つは政治家になってまもない、まだそう知られていない時期の管直人の講演会。私はそちらにはほとんど関わらず、もう一つの方の担当になった。
 東京の国立市に「富士学園」という小さな施設があって、その施設はある資産家が自分の子どものために作ったということだったが、どういう理由であったのか、たたんでしまうということになり、それでは入所者はどうなるんだということでそこに務めていた池田智恵子さんという職員が一人残って存続のために活動し、しかし経営者から金は払ってもらえないので、支援者たちが廃品回収などして金を稼いでいたりしていた。その池田さんたちを呼んで何かしようということになったのだ。たしか、さきに名前をあげた、今は死んでいない高橋秀年がそこにも出入りしていて、彼はそのサークルのメンバーではなかったのだが、私たちの幾人かと親しく、そんなこんなで企画が決まったはずである。私は知識もなにもなかったから、とにかく、そこに行ってみなければならないということになって、それで行った。
 そこに暮らしている人は三人だった。そして池田さんがいて、その他の人たちが出たり入ったりといった具合だった。その頃のことその後のことについては池田さんの著書『保母と重度障害者施設――富士学園の三〇〇〇日』(池田[1994])に書かれている。[…]。交渉はなかなかうまくいかず、金はなく、厳しい状態ではあったのだが、そこはおもしろいところだった。その学園祭での講演会――そのもののことはあまり覚えていない――の前と後、ときどき出かけ、おもに日曜、国立の近所を軽トラックでまわって廃品回収をする仕事を手伝ったりした。そうして回収して置いてあるものの中から、いくらかを所望し、いただくこともあった。例えば『情況』などという雑誌のバックナンバーをそうしてもらってきた。そして食事をみなとした。三人のうちの一人は「みみ」君と呼ばれていた若い男性だったが、言葉なく、ぐるぐるまわったり、ときに土を食べてしまったりする人であり、「わからん」人であった。ただ、その極小の不定形な場にその人はいて、「これはあり」であると思えた。その確信というか、現実というか、みなが「これでよし」と思っていたと思う。後に「他者」などどいう言葉を聞くようになったりあるいは自ら言ってしまうようになったりした時、この人のことを思い起こすことがある。やがてその人は、夜中建物を抜け出し、中央線の線路まで行き、夜中に通過する貨物列車にぶつかって死んでしまい、そんなことがあったりもしたので、池田さん(たち)は残る二人をうまく暮らせていけそうなところに移れるようにして、そこでこの施設は終わりになったのだった。」(立岩[2007-2017(1)])
 吉本はこの講演で障害者差別は「最後まで残る」難しいものだと語っている。同じことは同じ本に収録されている別の講演「身体論をめぐって」(吉本[1985])でも述べている。ただその話を聞いていると(読んでいると)そんなに深淵なことが語られているわけではない。
 「現在の段階でそれを解こうとすれば、たった一つの考え方しかないんです。例えば、ある人がある日に片腕をなくしたとします。その人の身体は、マルクスの労働価値説では行動と身体ということであるわけですから、行動と身体だけで価値をかんがえたとして、そういう人はどう遇されていくかとかんがえると、考え方としては一つしかありません。その日からその人が死ぬまで、完全なる、不自由じゃない手があったとして働いただけの価値を想定します。それから手がなくて働いたものを引いた分を既得権としてその人は持っているとかんがえる以外に、今のところ完全な解決の仕方、論理はないだろうとぼくは考えます。」(吉本[1985→2001:155])
 いわゆる逸失利益(分を支給する)という計算の方法をとる必要はないと思うが、この程度のことですむということであれば、そう難しいことであると私には思われない。
★29 『文藝別冊 総特集 吉本隆明』に収録された「世界の肯定の仕方」(立岩[20040228])。その冒頭が以下。
 「しばらく「政治哲学」の人たちが書いているものをすこし読んだ。リベラリズムだとかコミュニタリアリズムだとか様々な立場があり、大きな話から具体的な主題まで、ここ数十年をとっても夥しい言説の蓄積がある。そしてなかなかもっともなことも言われていて、なるほどと思うことがある。他方、この国でどんなことが言われてきたかを思うと、論理の詰めが甘い、というより論理がないことが多いから、それに比べるとよいと思う。それである程度感心しながら読んだ。しかし違和感を感ずることがあった。前から思ってきたことなのだが、やはりあらためてそう思った。
 そしてそんなことを思う時、ときどきこんなではなかったような気がする人として想起したのは吉本だった。何を読んでそう思ったのか、たしかな記憶もないのだが、しかし、たしかに異なっていると思い、そして彼の方が正しいと私は思った。彼には、何かに、例えば政治に参画したり、あるいは何かを、例えば自分自身を自らで作り出していくことが、それはときに必要であったり、ときにそれを人は求めてしまったりすることがあるとしても、それ自体として価値があるわけではないという、冷静な認識があると思う。また、そんな「積極的」な契機が人に含まれてなくても、それはそれでよいではないかという見方があると思う。」
 「政治哲学」の人たちが書いているものをすこし読んで、同じ頃に出版されたのが『自由の平等』(立岩[2004])。その本から以下を「世界の肯定の仕方」に引用している。
 「私たちとしては、労働も政治活動も特別に価値のあることでなく、しかし双方とも参画するのはときに楽しいこともありまた必要でもあるという、そしてこの意味でもこの二つの間に優劣はないという、だから丸山真男の言うことはわかるがその立ち位置はわからない、アレントは立派なのだろうけれどやはりわからないところがあると言ってしまいたいという、単純な所から発してはいけないのかと考えてもよいと思う。」(立岩[2004:289])
 そして『人間の条件』より。
 「突然だが、「民主主義」が大切な理由は、一つに、そういうことにある。ものごとをみなで決めるといったことは、だいたい手間もかかり面倒なことであり、そんなに楽しくはないことだ(と私は思う)。代わりに自分が決めてあげたいという人がいたら、そしてその人がうまくことを決め、ことをうまく運んでくれれば、そんな人にまかせておけばよいと思う。けれどもそうしてその人にまかせてしまったら、たぶん、その人は自分の都合のよいようにしてしまうだろう。それは自分たちにとってよいことではない。だから民主主義の方がよい。簡単に言うとそういうことだと思う。
 さきと同じように、やはり、自分たちが自分たちのことを決めること、それそのものがよいことだという考え方もある。たぶんそうだろうとは思う。ただたとえば、この世のことは神様がみな定めたのだという考え方と、自分たちが決めるのだという考え方と、後者の方が絶対に正しいということを証明するのはけっこう難しいことではないかと私は思う。
 他方、人々のためということであれ、あるいは神様が決めたことを解釈し実行するのだということであれ、誰かにまかせておくと結果としてうまくいかないことが多いことは、多くの人たちが多くの時代に経験してきた。そこで、面倒なことではあるが、自分たちのことは自分たちで決めようということになる。私もそのほうがよいだろうと思う。
 しかし、ここでも同じことを繰り返すが、面倒なことをせずにすむのであれば、もっとよいとも言える。政治に関心がないこと参加しようとしないことそのものが、なにかいけないことであるように言う人たちがいる。私はそんなふうには考えない。たしかに安心して他人たちに任せておくとひどいことになることがあるから、気をつけた方がよい、関心をもった方がよいというのはもっともだ。しかしもっとよいのは、毎日なにかを決めたり、決めるために時間をかけて議論をしたり、誰を代理者あるいは代表者とするかを考えたりすることが、なくすことはできないだろうけれども、少なくなることではないだろうか。ここでも私たちは、仕方なく大切なことと、そのものが大切なことと、どちらなのだろうと考えてみたらよいと思う。政治(を自分たちで行なうこと)は仕方なく大切なことなのだろうか、もともと大切なことなのだろうか。まじめな人たちは後者だと言いたいようなのだが、前者だと考えてもよいように思う。」(立岩[2010→2018])
★30 『税を直す』(立岩・村上・橋口[2009])等々の書籍を第1章の註06であげた。


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