連載を始めます。 題して「21世紀の資本主義論・序説」!

【本連載について】                             日本を覆う閉塞感の、半端ない増大。その根源を問うことは、資本主義の原理的な仕組みを問うことでもある――。21世紀を生きる私たちにとっての資本主義論の構築を目指し、これから半年ほどにわたって、経済学者の吉原直毅さんが随時連載していきます。ご愛読を!     (筑摩書房編集部)                                


第1章 はじめに
 COVID-19の感染拡大を契機とする非常事態体制の、1年以上にも及ぶ断続状態は第5波感染爆発の収束と共に、現在、とりあえず小康状態を保っている。しかし、冬の到来とともに、英国を始めとする欧州諸国での新たな感染拡大が観察され、その影響が日本に到来するリスクも刻一刻と高まっている。このように、感染問題の収束の見通しが立たない日々が続く昨今、日本社会における閉塞感の拡散が半端なくなってきている。この閉塞感は、単なるウィルス感染問題の困難さというよりは、むしろ、今後の社会経済的生活に関する展望の暗さ、見通しの不確かさに起因する。その背景には、日本の政治経済体制の近年における急速な劣化や、諸外国と比しての立ち遅れの酷さがあり。そのことが、誰の目にも明らかになってきた。
 このような閉塞感をさらに強めているのが、民主主義社会の主権者である国民・市民の意向を蔑ろにして開き直り続ける政治や経済の「指導者たち」の道徳的腐敗ぶりであり、またそうした者たちを直ちに表舞台から引き摺り落とすことができず、結果として居直りを許し続けている日本社会総体としての劣化なのである。
 そのような困難多き現代においてこそ、我々が生きる上での道標となり、明日の生への動機づけとなるような知の力が必要なのだと思う。我々市民にとっての必要な知とは、原理を問い、解明しようとする営みであろう。今を生きる我々にとって必要な知の1つは、今の社会・政治経済の仕組み、つまり資本主義的な社会経済の仕組みに関するものであろう。私は本連載において、我々が現在まさにその中において生を営み続けているところの資本主義的経済システムについての原理的な仕組みに関する問いを投げかけ、そして自分なりの解明や思索を展開していきたいと思う。
 資本主義の原理的な仕組みについて問うことは、現在の我々が直面している社会的閉塞感の根拠を問うことであり、それは現在の我々が抱える政治や経済の「指導者たち」の指導者としての力能や、振舞いの道徳的是非を問う上での知の力を獲得することである。そのような知は、民主主義的な政治体制と社会を曲がりなりにも標榜している現代日本で主権を有する国民・市民として、我々が我々自身の社会の在り方や行く末に関する究極的な決定権を適切に行使するためにも不可欠な知的道標なのであり、その獲得は、この社会の民主主義的性質を護り発展させる上で不可欠であると私自身は信じている。
 この問いに関わる既存の学問体系として特に関わってくるのが経済学である。今日のメディアやジャーナリズムでも、しばしば景気動向や景気対策、アベノミクスなどでの大規模金融政策の是非、財政赤字や税制の在り方などの問題が論じられるときに、経済学者による時事解説や、対策の処方箋についての解説が登場する。また、現在のCOVID-19の感染拡大が発生して以降のこの1年で、コロナ危機を契機とする経済危機、経済的弱者の貧窮などへの経済政策の提言がなされ、最近では、ワクチン配分の仕組みの提言などで、経済学の知見に基づくメディアでの発言や解説も盛んである。こうした個別具体的な問題への処方箋の設計とその実装というのは、現代経済学の先端的研究成果を反映して論じられてもおり、個別具体的な問題の実態を把握するためのデータ分析やその処方箋の設計・実装の技術(エンジニアリング)の重要性は、今後さらに増していくだろうことが予想される。
 しかし本連載で論ずる課題は、データ分析や経済エンジニアリングに関する専門家の知見を一般向け教養として解説することではない。この種の専門的知識を一般向け解説レベルででも理解することは、とりわけ政治家や経営者、あるいは法制に関わる国家公務員のような立場の人たちには大切であろう。しかし、民主主義的な意思決定の究極的な主権者である国民・市民としての我々がまずもって獲得すべきは、我々自身の営む社会に関して、どのような在り方が望ましいか、そして、どのような社会の在り方にしていくべきかの決定権の行使に要する「知の力」である。それは、我々自身が目指すべき社会の在り方に関するヴィジョンを描くことであり、また、ヴィジョンに関する様々な代替案がある場合には、それらの間の是非について熟慮し、民主的に討論しながら、社会的な合意を構築していく力である。データ分析やエンジニアリングの知識は、そうした社会的合意によって獲得された「社会の在り方」に関するヴィジョンを具現化し実装化していくための手段・技術の話であり、専門家同士のより専門的な討論に委ねても構わないとも言える。
 ところで、我々自身の目指すべき社会の在り方に関するヴィジョンを描くために必要な知の力とは、政治哲学や社会哲学などの規範理論的知であろうと思う読者も少なくないだろう。例えば、ジョン・ロールズの『正義論』を古典として学び発展させる知の体系のイメージである。あるいは、アマルティア・センが「経済学と倫理学」の知見として発言し、提言してきたことから学ぶということもある。ロールズやセンは現代におけるリベラル左派系の思想的潮流の1つを確かに表しているが、それとは相反するフリードリッヒ・ハイエクを代表とする経済的自由主義の思想的潮流や、ロバート・ノージックなどのリバタリアニズムの思想的潮流からも学ぶことができる。
 しかし、本連載では、このような規範的価値それ自体の知の体系について論ずる前に、我々自身が現にそこにおいて生きているところの資本主義的経済社会の仕組みや構造についての原理を問うことから始めたいと思う。我々自身の目指すべき社会のヴィジョンを実行可能な青写真(ブループリント)として描く上でも、現実の社会の仕組みについての理解から出発することが不可欠だからである。
 この問いに関わる社会科学の知の体系はいわゆる「政治経済学原理」、あるいは「経済学原理」として、近代以降、発展してきた。今日の主流派経済学においては、一方ではそれは「ミクロ経済学」(及び「マクロ経済学」)のテキストブックにおいて解説される知の体系であると理解されている。また、カール・マルクスの『資本論』において展開される知の体系を、資本主義経済システムに関する批判的原理論として位置づける「マルクス経済学」の潮流も存在する。
 他方、本連載で展開していこうと思っている「資本主義論」は、ミクロ経済学やマクロ経済学の標準的なテキストブックで展開されている知見とは、色々と異なったものになるだろう。なぜ標準的なテキストブック的知見の解説に徹しないのか? 端的に言えば、標準的なミクロ・マクロ経済学のテキストブックで語られている知見は、市場経済一般の原理に関する話と位置づけることはできたとしても、資本主義的市場経済に固有な原理の把握には失敗している、と考えるからである。
 私のこの見解は、市場経済一般と、資本主義的市場経済とは異なる概念であることを含意している。資本主義が普遍的支配的な経済システムとして世界経済レベルで確立したのは第1次産業革命以降の19世紀前半であり、資本主義経済システムの下での資本主義的市場経済は、前資本主義期における非資本主義的な市場経済と共通の特性も有するが、両者を同一視することはできない。他方、ミクロ・マクロ経済学のテキストブックで語られる経済モデルは、非資本主義的な市場経済の理念像としては妥当であっても、資本主義的市場経済の理念像としては不十分であり、重要な本質的特性を捉えていない。要するに、現代の新古典派経済学は、市場経済一般と資本主義的市場経済とを概念的に区別する理論構成になっていないのである。
 ジョバンニ・アレギ(2007)( ★1)が「スミス的経済発展」と称したアダム・スミス『国富論』(1776)における「経済発展の自然的経路」論(★2) は、「市場経済の非資本主義的発展」について語ったものとも理解され得る。新古典派による市場経済へのアプローチは、「市場経済の資本主義的発展」に固有な本質的特性の存在に無関心であって、現実の資本主義的な市場経済を、スミス的な「市場経済の非資本主義的発展」論のアングルで語るにとどまる傾向がある、と私には思える。
 では、「マルクス経済学」に関してはどうであろう? カール・マルクスの『資本論』を読みこなし、そこから自分なりの知見を導き出す知的営為は、なかなか容易なことではないが、この長大な古典に関する解説書が様々なマルクス経済学者たちによって出版されてきており、比較的最近においても、伊藤誠『『資本論』を読む』(講談社学術文庫、2006)のような、現代にいたるマルクス経済学における主要な学問論争の成果を踏まえた優れた入門書や、マルクスの晩年に遺した未公刊原稿に関する研究成果を反映させた佐々木隆治『カール・マルクス』(ちくま新書、2016)、同じく佐々木 『マルクス 資本論』(角川選書、2018)などが出版されている。これらの入門書を読むことだけからも、マルクス的な資本主義経済の原理論について、かなり高度な知識を学ぶことができる。
 しかし、21世紀に生きる我々にとって必要な「資本主義論」としては、マルクスの『資本論』の解説ないしは再構築をベースとする原理論では不十分である。1つの問題はその歴史認識である。マルクスの『資本論』は、前資本主義的な経済社会の時代から資本主義経済への転換期の歴史に関する豊富な言説を含み、それらは欧米及び日本の経済史研究に多大な影響を与えてきた。日本における大塚史学の研究は、その代表例として挙げられる。しかし、資本主義発達史に関する従来のマルクス派の学説は、今日では「グローバル・ヒストリー」などの新たな経済史学の知見を踏まえて、再検証ないしは大幅な修正を求められていると言ってよいだろう。改めてマルクスの理論的学説がどこまで妥当性を維持しているかの検証も、現代では必要となっているように思う。
 また、『資本論』は19世紀半ばの英国資本主義を典型モデルとする産業資本主義的経済システムの原理の解明として秀逸であることは間違いないとしても、資本主義的経済システムの原理的特徴は、産業資本主義のそれに解消され得ないと考えるべきであろう。つまり、ポスト産業資本主義の経済システム論としても通用し得る、より一般的な原理を改めて再検討する必要があるのだ。
 21世紀に入って以降、世界経済の新自由主義化の中で、日本も90年代半ば頃までは支配的であった、いわゆる「中流社会」論的認識が急速に崩壊し、貧富の格差の深刻化とワーキング・プアやブラック企業問題などの顕在化とともに、これらの事象を「搾取」という用語で認識することも、再び広く認識されるようになってきた。しかし、マルクスが剰余価値論として論じた産業資本主義的な搾取のメカニズム論で、現代の搾取問題が把握しきれるだろうか? 例えば岩井克人は、「マルクスの労働価値説=搾取説」は、産業革命直後の社会情勢として農村に膨大な潜在的労働力人口を抱えた特殊歴史段階的背景の下で成立した議論であって、現代の資本主義論としては通用しない、という見解を一貫して主張している。
 また、マルクス『資本論』における理論的言説の中には、今日における現代経済学の見地からすれば理論的に説得力があるとは言えない言説や、反証されている言説も少なからず存在する。現代経済学の今日的発展の見地から検証しても、説得力を有するように理論的な再構成を施した上でなければ、21世紀の資本主義論としては通用しないであろう。
 以上のような見地に立って、本連載では、資本主義の原理に関する私自身の試論を展開する。私的な試論とは言っても、個々の議論は、今日の経済学界における先端的学術研究の成果に可能な限り依拠して展開する予定であり、単なる放談で済ますつもりはない。自他の様々な研究成果をピースとして用いながら、それらをどのように調理して、21世紀に生きる我々にとっての資本主義論として描くことができるか? それが本連載における私自身の挑戦である。
 連載第2回では、資本主義システムの基本的定義を定めることから始める。それは、本連載全体に関わる大まかな鳥観図の展開を与えることでもある。今回言及したように、私自身の考える資本主義の基本的定義は、主流派経済学の標準的な見解からも、また、マルクス経済学における標準的な定義からも異なるであろう。

★1――ジョバンニ・アレギ『北京のアダム・スミス―21世紀の諸系譜』(中山智香子監訳, 作品社, 2011年)                     ★2――アダム・スミス『国富論』(上)「第3篇第1章 富裕の自然的進歩について」(高 哲男訳, 講談社学術文庫, 2020年)


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