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【なぜ人は怖がるのだろう】

多くの昔話がお爺さんとお婆さんの2人から始まる理由について疑問に思っている松木蓮です。


最近ふと不思議だなと思ったことについて書いてみようと思います。街のベンチでテイクアウトしたハンバーガーを食べていたときのことです。近くには同じように食べている女の子たちがいて、その子の周りに鳥が飛んでいました。

言うまでもなくその鳥たちは、ご飯欲しさにその子たちの近くにいるのですが、数匹の鳥が女の子たちの頭上めがけて飛んでいきました。

すると、彼女たちは「キャーー!!」と叫んでその場を離れます。このとき思いました。

「なんで逃げるんだろう、、?」

ぼくの感覚が間違っていなければヒトは鳥よりも強い生き物です。戦ったら多分ヒトが負けることはないと思います。知性を兼ね備えたヒトは武器を作り出すことができるし、至近距離でなくても飛び道具で攻撃できます。

これはよくよく考えると至極当たり前のことで、ほとんどの動物よりもヒトの方が強いはずです。教えられたことなんかではないけど、感覚的にわかるはずです。そもそも何もなかったところにコンクリートでビルを建てて、そこに止まっているのが鳥であり、人工物から巣を作るのがカラスであるので、考えずともわかる気がします。文明を作り上げ、幾度となく革命を起こしてきたのが人類なのですから。

にも関わらずヒトは怖がります。頭上を飛ぶ鳥よりも、地面でハンバーガーを食べている女の子の方が物理的にも知能的にも強い生き物であるのに何故だろう。寿命を考えてみても、動物的にも強いこともわかります。

少し考えてみて、ぼくはこれはヒトの習性に起因するのだ、と思いました。結論、ヒトは知らないものを怖がる、嫌う。これに尽きると思いました。

分かり得ない不可解な動きをする動物を基本的に怖がるのが人間の性です。それは物理的な、知能的な強さとはまた違った次元で脊髄反射的に応えてしまうものなのだと思います。

事実、電柱に止まっている鳥を見て怖がるヒトはいないと思います。それがこちらへ飛んでくるから怖くなるのであって、その動きが未知数であるから怖さが増すのだと思いました。

これは対人関係にも当てはまると思います。知らない人について行っちゃダメだよ、と言うのを説明するのであれば、「自分が知らない人は何をするかわからないから、危険に晒される可能性がある。だから、自分の身を守るためについて行っちゃダメなんだよ」となる。

道を歩いているとき、見ず知らずの人に話しかけられるのと、久しぶりに会った旧友に話しかけられるのとではわけが違います。その人を知っているかと言う0 or 1の問題なのです。そしてその人との心理的距離の程度で社会的距離も変わってきます。これは0 or 100(以上)の問題です。

また違った次元で見ても、この人の習性は説明できるはずです。多くの人が理系科目でズッコケました。ぼくもその1人だったのですが、特に高校数学でこけました。当時のぼくを振り返ると、できないから、理解できないから嫌いな科目になったんです。だから、消去法的に進学先は私立文系の学部に絞られた、と言う背景があります。

時々、未来が怖い、と聞くことがあります。ぼくもたまに不安になったりすることもあります。それはシンプルに未来の自分を容易に想像できないからであり、未来そのものが予測不能であるからです。

企業が自社のサービス、商品に対して巨額の広告費をつぎ込むのはここでも説明がつくと思います。消費者は「自分が知っているモノ」というある種の安全が担保されたモノを買うとわかっているので、わざわざCMを打ったりします(もちろん他にも理由はありますが)。消費者側も、ブランド品は広告費で値が上がっているだけだとわかっていながらそれを買ってしまうのです(もちろん上質な素材などで価格が上がっているものもたくさんありますが)。こう考えると、人はお金を出してモノを買っているのではなくて、そこに上乗せされた「安全」を買っていることになります。

実際問題、マズローの5段階欲求説で言うところの下から2番目には、「安全欲求」がくるので、これに従えばかなり整合性のある話になりますね。

人は知らないモノ、人を怖がり、嫌う習性があるのだと深く肝に命じておかなければならないと思いました。だからこそ、まずは自分を知り、知ってもらうことが色んな物事の第一歩だと思うのです。

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