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夢のかたち


死者たちの声

 こうしてウェルギリウスは生涯、死にむかって象徴を紡いできた。あらゆる過去が永遠の現在の中に流れ集まって、たったひとつの記憶として全体的につかみ取られる最後の瞬間を、かれは象徴化のいとなみによって先取りしようとしたのである。
(古井由吉「ヘルマン・ブロッホ「ウェルギリウスの死」」(『日常の"変身"』作品社・所収p.152)

 読む、詠む、黄泉、病み、闇、山

 辞書を頼りに「よむ」という音を漢字で分けると、「よみ」と「やみ」と「やま」が浮かんで、つながってきます。

 連想です。個人的な印象とイメージでつないでいます。夢路イメージをたどるのです(夢は「イメ(寝目)の転」だという、夢のような記述が広辞苑に見えます)。

 よみ、やみ、やま、ゆめ。

 連想するのは、死者たちの集まる場所です。そこでは姿が見えるというよりも声がします。

 私にとって死者たちの声が集まる空間と時間を濃密に感じさせる作家の一人が古井由吉です。

 そこでは、夜、読み、詠み、黄泉、夢、闇、山が境をなくし、書くと欠く、欠けると書けるが重なりあいます。

欠けているから書ける


 書き手にとっては文字を相手にしているだけに、書いているさいには、そしてそれを文字として目でたどるさなかには、きわめて具体的な体験として、その不調、言い換えるなら、欠けている、ない、うまくいかない、書けないという感覚がそこにある――そんなふうに私は思います。

 興味深いのは、その欠けているがあって書けているということです。さらに、その欠けていると並行して書けているが続いていくのです。「ない」という感覚をひたすら書いていくとも言えるでしょう。

 このような言葉、とりわけ文字の世界で人が体験する失調を感じさせる小説を書いた作家として、私は古井由吉を挙げたいと思います。

 小説の冒頭やその近くに、失調があって作品が書かれていく。そんな感じをいだかせる書き手なのです。

 まず失調感の確認が儀式のように執り行われて、小説が進んで行くかのような印象を私は受けます。

     *

 失調とは、たとえば次のような形を取ります。

 発熱、うなされる、身体の不調、疲弊・疲労・消耗、渇き・脱水、入院・闘病、時間や方向感覚が失われる・迷う、誰かが亡くなる・葬式・法事、入眠・寝入り際・寝覚め・意識の混濁や喪失、旅

 こうした「欠ける」「失う」「無くなる」という出来事や事件があり、それが切っ掛けになって、狂いが生じます。その狂いを引きずりながら、作品が進行し展開していくのです。

 そこでは、読み、詠み、夜、黄泉、夢、闇、山――どれもが古井の作品に頻出する言葉でありテーマです――が境をなくし、書くと欠く、欠けると書けるが重なりあいます。

     *

 もののさかい目が
 ないのが闇/夜/夢

 たそがれどきの後
 かわたれどきの前

 夢のかたちはない
 ないが夢のかたち

 ないを見るのが夢

     *

 私の考える文学では、「ない」ものに気づき(気配かもしれません)、「ある」ものに目を向ける(これは体感です)ことも含まれます。「ない」も「ある」も「ある」からに他なりません。文学とは、文字として「ある」ものと「ない」ものに等しく目を向けることではないかと考えています。

「ない」「欠けている」が「ある」「備わっている」へと移行していく言葉のさまは、読んでいてきわめてスリリングなのですが、私にとってスリリングなのは、ストーリーでも内容でもなく、書かれてそこにある言葉の身振りだということを書き添えておきます。


※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。

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