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どんな環境で育ったか?父編

 父は昭和5年生まれで、今年90歳を迎える。
父は9人兄弟姉妹の3番目に生まれた。

戦前戦後を過ごし兄弟姉妹が多かったこともあり決して裕福な家庭ではなかった。
父は、中学までしか出ておらず、その後は学徒動員で軍需工場で働いていたらしい。

私にとって叔父叔母にあたる父の兄弟姉妹はとにかく明るくて朗らかである。
父は婿養子なので、私たち姉妹は盆正月は父の実家に遊びに行った。
行くと、必ず父の兄弟姉妹が集まっていて賑やかだった。
その雰囲気がとても好きだった。

父は、一つ上のお姉さんにとても可愛がられたらしく、父のお世話係だったらしい。そのせいか父はとてものんびりした人だ。

父は、婿養子なのだが、母より近所とのつながりがあって、世話好きで人と話すのが好きらしい。

父の三つ下の弟からは、高校に行かせてもらったらしいがそのことについて、父の口から文句を聞いたことがない。

9人兄弟姉妹は仲が良く、それぞれが家庭を持ちバラバラになってもよく9人で集まる機会を持っていた。

 戦争があって、とても空腹な生活を送っていたことは確かなはずなのに、父の兄弟姉妹には微塵たりとその悲壮感を感じたことがない。

幸せとは、お金があることや辛い困難な時代に生まれたということではなく、笑って暮らせることなのかもしれない。

父は母と結婚して、母は先に書いたように、他者には弱みを見せないようにしてきた人なので父にもいつもキツく当たっていたから、家の中であまり笑ったりしなかった。

兄弟姉妹が多かったから、いろいろ我慢することもあっただろうが、笑いの絶えない家庭だったことは間違いない。

父のお父さん(私には祖父にあたる人)は、癌で亡くなったが、そのお葬式のことは私も覚えているので、父子の接点は私の母とお父さんよりあったんだろうなと思われる。

母の話ほどゆっくり聴いたことはないのだか、私はつくづくこの人が父でよかったと思っている。

 私が今、臆せず面識があまりない人とかいろいろな人に話しかけたりできるのは、父のDNAのおかげかもしれない。

90歳で何年か前に脳梗塞もして、体が少し不自由だが、今でも朝は散歩に出かけ、畑を耕し、草を抜き、自分のできることを淡々と熟す父。

それはきっと、大勢の兄弟姉妹で培ったものなのだろうと思う。

今は、父と母と双子の姉と私でドライブに行き、父がお金を出してくれてランチを一緒に食べるのが一番の楽しみらしい。

近々また、梅の花でも見に行こう。

 その環境でどんな人と過ごしたか。

何が大切なのかを、父から学んだような気がする。

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