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18切符、私の始発

 20歳、初めて一人旅に出た。希望する大学に合格して、しばらく暇になった私は、かねてより行ってみたかった関西へ、18切符で旅することにしたのだ。ずっとYouTubeなどで調べてはいたけど、一歩を踏み出せなかった列車の旅。私の、20代の原点。

6時34分、沼津行き。

 早朝、東京駅のホームで東海道線に乗った。沼津行き。この列車を選んだ理由は、グリーン車に乗るから。小田原とか熱海止まりの列車が多い中、沼津行きならちょっと遠くまで良い座席に座っていけるのだ。グリーン車に乗るのも初めてだった。調べた知識を実行に移せることに、私は嬉しくなった。飲み物も、朝ごはんも買った。大丈夫、ちゃんと調べてきたから。不安と緊張が高ぶりやすい私の心にそう言い聞かせながら、電車は出発した。


関東を出る直前の相模湾。

 当時の私にとって、関東を出るのはとても勇気のいることだった。まだパスポートは持っていなかったけれど、熱海を過ぎて山を越えて、JR東海の管轄区域に入った時の感情は、空港で国際線に乗るのと全く同じ気持ちだった。函南までの長い長いトンネルが、そんな気持ちを掻き立てるのだ。


新快速という響きに、東京からの距離を感じる。

 1時間半くらいだろうか。沼津から乗った電車では、断続的に寝ていた。慣れない早起きで、早速疲れが出てきていた。車内は通学する中高生が多かったような気がする。自分もつい一年前までは、彼らと同じ身分だったんだよな。学校という鎖に縛られ、やりたいことがあっても実行できなかった。どこかで先生やクラスメイトが見張っているんじゃないかという幻想に怯える日々。でも今は、こうして一人でジョウト地方に旅立とうとしている。ふふふ。すごいだろう。

 名古屋駅で途中下車して、駅のホームできしめんを食べた。海老天入りのやつだったと思う。私が注文した麺が出来上がると、後から来たサラリーマンがそれを持っていってしまった。彼も私と同じものを注文したのだ。彼はあたふたしている私に気づくと、柔らかい表情で一言申し訳ないと言って、本来の持ち主に返してくれた。なんてことはない、トラブルとさえ言えないような出来事。だが、そういう知らない人との突然のコミュニケーションが、なんだか旅の醍醐味かのような気がして嬉しく、今も心に残っている。


彼らはきっと、幼い男の子たちの夢の跡。

 米原駅から、JR西日本の区間に入る。JR西日本と言えば、新快速によるアーバンネットワーク。時速130km/hの、鉄道ファンの憧れ。その列車に乗れることに、胸が高鳴った。しかしそれも束の間、電車が発車してすぐ、私の目は外に釘付けになった。あ、あれは・・・WIN350。STAR21。幼稚園生の頃に、毎日のようにビデオで見ていた、新幹線の試験車両。そんな車両と、ここで会うとは思わなかった。旅をするとは、自分の過去と現在をつなぐ行為でもあるんだということに、この時気づいたのだった。


梅田の近く、カプセルホテルの前で食べた塩ラーメン。このラーメン屋、まだあるのかな。

 大阪駅に着いてまずやることは、宿を探すことだった。スマホを使って、東横インやアパホテルのサイトを見るも、平日にも関わらず何故か満室で、旅の初日にして野宿するしかないのか・・・と途方に暮れていた。駅前の高そうなホテルに泊まるわけにもいかないし。そんな気持ちで商店街を歩いていると、一軒のカプセルホテルを見つけた。そうか、こういうところなら、予約なしでも空きがあるかもしれない。そう考えてフロントに尋ねると、やはり空きがあった。宿を確保してすぐ、近くのラーメン屋で塩ラーメンを注文した。東京から初めてこんなに長い道のりを越えて、泊まるところも自分で押さえることができて、パニック障害があるにも関わらずラーメン屋に入ることができて・・・旅慣れた非精神疾患者には当たり前にできることでも、この時の自分にはとても困難なことをやり遂げることができた達成感で満たされた。自分にも、これだけのことができる。高校で何一つ上手くいかなかった無力感が強かった自分には、自己肯定感を再構築する1つの大きなきっかけとなったのであった。しかし同時に、もう二度とカプセルホテルには泊まるまい、と決心したのもこの時だった。やはり、他人との壁がない環境では眠れない・・・


ヨーロッパの駅を彷彿とさせる、阪急梅田の頭端式ホーム。自分が欧州の地を踏むのは、いつになるだろう。

 二日目以降は、京都や神戸にも行った。ビデオテープやネットでしか見たことがない関西の私鉄や、JR西日本の電車に乗りまくった。伝説上の存在でしかなかったものを、自分が今、体験している。阪急の車内で、初めて聞く京都弁。「番線」ではなく、「号線」という呼び方。東京人にとっての異文化に生で触れることができて、とても幸せだった。

 この旅で関わった人たちは、みんな優しかったように思う。改札を通ろうと駅員に切符を渡した時、彼はそこに押されている一日目のスタンプを見て、「遠くからよくお越しくださいましたね」という言葉をかけてくれた。今回の旅では、カプセルホテルで寝不足になったことを除けば、嫌だと感じることが1つもなかった。だからこそ、なのだろう。今でも旅行が好きなのは。行きたいところに行き、食べたいものを食べる。当時は全く気づかなかったけれど、それが出来たのは、周りの人の支えがあったからこそ、そう思える。


2023年の現在では、たぶん外国人がたくさんここにいるのだろうな。


東京ではもう走っていない昔の車両も、大阪では現役だった。こういう体験は今だと、タイやインドネシアに行けばできるのだろう。


最終日に梅田地下街で食べたハンバーグ。パニック発作が出ることなく、美味しく堪能することができた。

 旅行当時より少し前のネット空間では、大阪は「大阪民国」という嫌韓の走りのような名前で呼ばれ、バカにされている時代だった。あの頃の私にとって、大阪は外国に他ならなかった。今はもう、パスポートを持っているし、本物の外国だって、いくつか経験してきた。だけれども、これからどんな国を訪れたとしても、初めて18切符で西に向かって旅をした解放感や感動は、比較不可能なほど上書きできないものだと思う。昔は、「青春18きっぷ」という名前が、なんだかダサくて好きじゃなかった。でも、この切符がどうして青春で、18なのか、今なら少し、分かるような気がする。


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