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甘い誘惑に負けることはがん患者にとって良くないことなのだろうか?

昨日、朝日新聞be「それぞれの最終楽章」第6回が掲載された。この連載もあと一回を残すのみ。原稿は既に最終回まで書き終わっていて、もう締切を気にすることもないのがちょっと寂しい。

第6回目のテーマは「がんの社会的イメージ」と「自分の中のがんへの恐れの変遷」。がんはある意味「社会病」だと思う。「がんは死の病」「余命」という言葉がいまだに跋扈し、患者は怯え、そういう社会が作ったがんのイメージが患者の気持ちを揺さぶり、自分は死ぬ運命なんだと思い込み、みずから死を引き寄せてしまう時もある。これは他の病気の比ではないと思う。

しかし、患者が死を引き寄せてしまうのはそうした外部的要因ばかりではない。今回の記事では字数が足りず、書けなかったのだが、私がこれまでがんと付き合ってきて、つくづく思ったのは、「人は死ぬかもしれないから」と言われても、それまでの悪癖をなかなかにやめられないということだ。つまり、怠惰。「死」と「目先の欲望」を天秤にかけたとき、いかに「欲望」が勝ってしまう局面が多かったことか。。それも、まったく大したことのない「欲望」である。

例えば「甘いもの」。
白砂糖はがんの餌になるから食べないほうがいいと言われるのだが(注1:この注、文末にあるので必ず読んでください。ここに書くことは完全な糖質制限をお勧めするものではないので、その理由など書いております。)
最初は守れるものの、やはりいずれ甘いものを食べたくなって手を伸ばしてしまう。それはスナック菓子なども然り。

私自身、再発を告げられてからの最初の1年半ほどは、砂糖は一切取らなかった。チョコを食べたければ、砂糖の入らない100%のチョコを買ってきて、溶かし、ココナツオイルと混ぜて、ナッツやベリー類を入れて、砂糖の入らない自家製チョコを作っていたし、その他の砂糖が入ったお菓子も一切食べず、料理にも砂糖は入れなかった。金平牛蒡などもバルサミコ酢と醤油で味付けしたので十分だった。料理に関しては今も砂糖抜きで作るもので満足しているし、台所にもはや砂糖はない。しかし、再発から8年。いつの頃からか、外から買ってくるパンやお菓子に砂糖が含まれているのは、後ろ髪を引かれながら自分に許可を出し、時々、食べている。

再発後、完璧な糖質制限と添加物をした最初の1年半ほどで、腫瘍は縮小してきていたにもかかわらずだ。何がきっかけだっただろう。経済的に厳しくなってきたからだったか、腫瘍が縮小して油断し始めたのか、私はいつのまにか自分に甘いものを許すことが増えていた。

周囲の人にはなるべく砂糖は取らないようにしているのでと言っているので、人と一緒に食事するときは、甘いものを避けることができる。しかし、ひとたび一人になると、見られていないのをいいことに、タガが緩んで、甘いパンやスイーツを買ってしまうこともある。ここのところは、ちょっと反省して、甘いものを買うのはやめているが、一時期、気づけば、2日に一度はスイーツやスナック菓子を買ってしまっている時期もあった。

そういうときに決まって頭に浮かぶのが、以下のような言葉だ。
「あまり我慢をしすぎるとそれがかえってストレスになってよくない」
「甘いものでも、それが美味しいと思うものなら体に悪さはしない」
「美味しいと感じるもの、食べたいものは体にいいものなはず」
そういうことを自分に言っては、甘いものを許可していた。

確かにこれらの言葉は一理ある。

がん患者の中には、食養生を徹底しようと一生懸命になりすぎて、かえってその日課が自分をがん患者だと強く認識させることになり、苦しむ人がいるのは確かだ。

あるとき読んだ、患者と看病する娘さんのブログには娘さんのこんな悩みが綴られていた。娘はがんの母親のために、がんに良いとされる有機人参とりんごのジュースを毎朝手作りしては飲ませようとするのだが、母親が最近飲むのを嫌がるようになったという。娘は母に良くなって欲しい一心で、なんとか飲ませようとするが、そうすればするほど、母親は嫌がって飲まない。娘は、なぜ母は飲んでくれないのだ・・と涙し、母は飲みたくないと拒み、二人して涙している。ある意味修羅場だ。

私も一時期、このジュースを作って飲んでいたことがあるが、人参とりんごとレモンなので、味は美味しい。決して、まずいから飲みたくないというものではない。なのに飲むのを拒むというのは、やはり、それを飲むことは自分ががんだということを突きつけられる象徴のようなものでもあり、また、こんなジュースで私の大病が治るのかという疑念から生まれる虚しさ、信じることができない辛さがあるのだろう。

このジュース、野菜と果物の酵素を殺さないようにするために、低温圧搾で抽出するため、そのへんのミキサーで高速回転させてちゃっちゃと作れるものではない。高速回転させると熱で酵素が死んじゃうから。なので、このジュースを作ろうとする人は低速の専用のジューサーを買って作るか、手絞りである。ジューサーだと、カスの処理が面倒。手絞りも手間がかかる。この手間は結構なもので、これを毎朝やるのは当然の如く結構なストレスで、私もいつの頃からかこのジュースを作るのはやめていた。もひとつ言えば、有機の人参やレモンは高価なので、見た目の悪いB級の有機人参やレモンを使う人が多いが、これが軒並み通販で売り切れ。多分、がん患者が買い漁っているのだと思うが、もう争奪戦なのだ。そういう意味でも、このジュースを毎日作って飲むというのは思ったよりハードルが高い。

そういうのは、作る側もストレスだが、自分のために他人がそういうストレスを抱えていると感じる患者の方にとってもストレスになる場合もあろう。さらにネガティブになれば、私は死ぬかもしれない病なのに、娘は効くかどうかもわからないジュースを毎朝無理強いする。私は死ぬかもしれないのに・・・。みたいな心持ちになるのではないかと勝手に想像する。

ちょっと長くなってしまったが、この例にあるような光景はがん患者の暮らしの中では結構ありがちだ。身体に良いと思ってやることが、本末転倒、大きなストレスとなる。たしかにこういう場合には、無理をしないで、食べたいものを食べたほうがいいですよと言ってあげたほうがいいのだと思う。

しかし、こと、「甘いもの」を自分に許可するときの私の心の中深くを覗き込んでみると、そうとばかりも言えない嘘も見えてくる。

「あまり我慢をしすぎるとそれがかえってストレスになってよくない」
「甘いものでも、それが美味しいと思うものなら体に悪さはしない」
「美味しいと感じるもの、食べたいものは体にいいものなはず」

「悪魔の囁き」というものがこの中に紛れ込んでいるということはないのか? 再度、よくよく自分の心と体を覗き込んでみる。

すると、甘いケーキを食べたあとの胃のもたれや睡魔など、食したあとの体の反応は、満足感よりも後悔に近いものを感じている場合が多いことに気づくのだ。

美味しいと感じるものは体にいいはずということでいうと、ちょっと前に、一番大好きなトンカツ屋さんで久しぶりにカキフライを食べたときのこと、その前に少し何か食べていて、お腹ぺこぺこじゃなかったにもかかわらず、定食を残さずペロリと食べてしまい、食後も、美味しかった〜♡とテンション爆上がりしたことがある。揚げ物にもかかわらず、胃もたれも全く感じず、食べたことに喜びしか感じなかった。こと高カロリーや油の害を指摘される揚げ物であるが、こういうときは本当に滋養になっているんだと思う。

しかし、一方のスイーツに関しては、最近あまりそういう喜びを感じることがない。なのに、手を伸ばしたくなるのはなぜなのか??

多分、麻薬の禁断症状みたいなものなんじゃないかと思う。

しかし、それを食するのがよかったのか悪かったのかは、食べてみてからの体の反応でしか判断がつかないし、食べた後でも鈍感で気づかないこともある。それに、口に入れた瞬間は甘くて美味しいのだ。中毒性もあるものだから、見境なく、お腹いっぱい以上に食べてしまうことさえある。そして、そんなあとには後悔がやってくる(もちろん、たまーに、後悔しない場合もあるが)。

「我慢しすぎはストレスになる」も正しいと思う。
「美味しいと思うものは身体によいはず」も正しいと思う。
けれど、それが悪魔の囁きによる、自分への言い訳である場合もなくはない。それが身体が本当に欲するものなのか、そうでないのかを見極めるのは、「がん患者」として心まで弱っている状態ではなかなかに厳しかったりもするのだ。

それに、どこかに死ぬかもというスリルを求める本能みたいなものもあるのかもしれない。ジェットコースターやフリーフォールに乗ったり、命を危険にさらして快感を感じる本能が発動しているのかもしれない。

そして、私はまた誘惑に負ける。
もちろん、誘惑に負けてはいけないわけではない。負けることが幸せにつながることがあるのは、多くの人が、恋愛というもので体験済みであろう。

じゃあ、一体、どっちなんだよーということだけど、結局は本当にそれをして幸せな気持ちになるかどうかを自分で感じるしかないのだろう。

さらに言えば、罪悪感を抱かないために、無理に幸せになった気になってはいけない。本当に私の心と身体は喜んでいるのか、それを全力で見分けなければならない。自分に正直になれってことか・・。

「何食べたっていい」というのはある意味本当だ。
しかし、それは、自分に罪悪感を感じないならばという条件付き。

でも、こんなことを書きながら、そんなに日々、自分の心を見極める生活をしてたら、それも疲れるよなあとも思う。そもそも、もっとお気楽に生きられていたら、がんという病気にもならなかったかもしれないしね。

「お前は気楽でいいよな〜」なんて言葉をドラマなんかでよく聞くけど、実は「お気楽でいるということ」っていうのは思いのほか難しいのではないかと思う。「気楽でいいよなあ」といいながら、世間に合わせて、自分の判断から逃げて、「自分はいろいろ考えて生きているのだ」と言い訳しながら、眉間に皺寄せて、幸せから逃げているほうが楽なのかもしれない。

「お気楽でいる」ということは自分に正直ということで、それこそが人間が幸せを感じて健康に生きていく上で一番大切なことなんじゃないかと最近思う。

でも、やはり、世の中にはきっちりと規則正しい生活をし、きちんと食事制限を守り、手作りの体に良い料理を日々作って食べて、病を克服した人というのもいる。仕事での日々の努力を日課として毎日できる人がいるように、養生でも同じことが言える。多分、そういう人にとってはそうしていることが自分にとって正直なのかもしれないな。

なんだか話が堂々巡りだ。
結局、人の生き方は人それぞれで、その人にはその人に向いている生き方があるということか。

じゃあ、自分はきっちり規則正しくやる人間か、気楽に自由にやる人間かどちらなのだろう。どっちが正直な自分なんだろう。わからん。。。

一気に書いてきたが、何をいいたいのかわからない文章になってしまっているかもしれない。

自分に正直にかあ。言うは易し、やるは難し。

甘い誘惑に負けることはいいことか悪いことか。
それは時と場合によりますから、その時にならないとわかりませんというしかないよなあ。

すいません。なんだか訳のわからない文章になってしまった。

(注1)がん細胞は代謝する時、ミトコンドリアでの酸素を使った代謝よりも、ブドウ糖を利用する解糖系の代謝が中心で、がん細胞があるとそこに糖が集まってくる性質がある。その性質を利用して行われるのがPET検査。PETではブドウ糖が集まったところが映し出され、糖が集まっていれば、そこにがんの存在を疑う。
ただ、ブドウ糖は人間が代謝するのに必要な物質で、単純な糖質制限は栄養バランスを欠くので、炭水化物など糖に変わる食べ物すべてを制限するのは体に良くない。砂糖についても、精製された白砂糖はミネラル成分も切り捨てられ、吸収が早いため、血糖値を早く上げたりすることもあるが、精製されない甘味などは、良質なミネラルを含むものも多く、厳しく制限することが必ずしも良いとも言えない部分もある。なにごともバランスが大切。

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