「翔べ! 鉄平」 エピローグ 23
啓二が畑中商店を訪れると、店はいつものように『心太』の幟をはためかせていた。暗い店に入ると誰もいない。棚には何もない。
蝉の声が凍りつくほど店内はひんやりとしていた。
啓二は暗い店内で奥の座敷を見つめたまま黙って佇んでしまった。声を掛ける勇気が出てこなかった。風子に会うのが気まずく感じていたからだった。
啓二は誰も出てこないことに安心して、回れ右をして店を出ようとした。
「啓ちゃん」
店を出たところで、背中から呼び止める風子の声がした。すでに涙声になっていた。
「啓ちゃん、どうしたの」
「あ、いや」
啓二は言葉に迷い無表情を作っていたが、答えようとするといつも笑っている風子の印象と暗い座敷の中の影が重なり、いたたまれずに俯いてしまった。
「聞いたよ」
「そうか」
啓二は自分から鉄平がサイパンで戦死したことを伝えなくてよくなったことで助かったと思った。
またそう考えていることが恥ずかしく思えてくる。卑怯に思えてくる。
風子が下駄を履いて出てきた。明るい空の下に出ると、風子の方が震えていることに気が付いた。風子が俯くと啓二は顔を上げ、空を見た。それでも啓二は言葉が浮かばない。
店先の『心太』の幟の下の縁台に腰掛けると、風子もその隣に腰掛けた。
「金平さんに会ったか」
「うん。金平兄さんも戦争に取られるそう。銀平さんも満州だし、うちの兄も」
二人の顔は無理な無表情だった。
「近く、空襲が始まる」
「ここまで来るの?」
「ここは大丈夫だろう。ただ駅の方は気をつけたほうがいい。今、工場で働いているンだろ」
二人は無難な話に逃げた。啓二はまた言葉を失って空を見上げた。それを風子が見つめる。蝉の声が途切れた会話の静けさを深くする。
――僕も、出撃することが多くなると思う。
啓二はそう言おうとしたが、風子をますます不安にさせてしまうと思い、気遣うつもりで止めた。
空から地上に目を移そうとすると、橋の袂の電柱に止まっている蝉を見つけた。
「ねぇ、どうしたの」
「え、あ、あの蝉だよ。電柱に止まって鳴いている」
啓二にはその蝉が人を馬鹿にしているようで憎らしくなり、石で脅かしてやろうかと思った。
ところが、
「悲しそうだね」
と風子が言う。啓二は風子を振り返った。
「きっと、迷ってンだよ」
風子はそう言うと立ち上がって店の裏から箒を持ち出して来ては、電柱の下で上を見上げて、箒を振り上げた。啓二は縁台に腰掛けたままそれを眺めている。
「おい、こら。みんなのところに帰りな。みんな待っているよ」
風子は電柱の上に向かって箒を振り回した。振り回して元気な振りをしているとますます悲しくなる。悲しくなって涙が出てくる。
蝉が、
ジジッ!
と声を上げて森の方角へ飛び去った。風子は縁台に戻ってくると箒を手にまた腰掛けた。涼しい風が流れて風鈴が一際大きく響くと、夏のどんよりとした熱い空気が微かに震えた。
「風ちゃん、僕、また来るよ」
啓二は立ち上がろうとしながら風子に告げた。
「うん」
風子の声は我慢できずに震えていた。啓二は立ち上がらず縁台に座ったまま動かなかった。互いに優しさの盾に隠れて慰め合うのだった。
つづく
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