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インペリアル・ディテクティブ 第5話

ファイル3   津久井淳ケース・握り飯  つづき


美山と純平が2Bに戻ると、恩田はまだ戻って来ていなかった。

二人は美奈子と淳が焼け出された後のことを知る人物がいないかどうか探ってみるとこにした。
そこで再び二人の調査書類を丹念に読み返してみることにした。

「あの、この淳が森山家を飛び出していく所を目撃した巡査。生きていないでしょうか?」

「この目撃者の竹中巡査ね」

すると美山は電話を取り警察庁の桜庭に電話をかけ竹中が今何所にいるか、その前に生きているかどうか探してもらうことにした。

そこへ恩田が何か手がかりを見つけたように幾分笑みを浮かべて帰ってきた。

「恩田さん、何所へ行っていたんですか」
美山が流し目で何かを疑うように聞いた。

「谷中署だ。あの辺りの戦前からある警察署を隈なく回ってきたんだ。おい、美奈子に補導歴があったぞ。淳もだ。」

「え?」

美山は驚きの声を発し、順平は椅子から立ち上がった。

「淳は窃盗。美奈子は売春だ。銀座の頃の話を聞いてから、銀座にやってくる前のことがわからないかと思って、目星をつけて当たってみたんだ。エイコ・ママが言っていただろ。美奈子は、赤線にいたらしいって」

1946年、昭和21年。
占領軍GHQの指導で公娼廃止が言い渡され、吉原など各地の遊郭が取り壊されることになった。
しかし戦後の焼け跡のなかで、赤線と称して売春は続けられていた。

終戦前、公的に認められた遊郭では少女達を金で買い奉公として働かせていた。
そして親元がそれを返済することが出来れば少女は親元に戻されたが、実際には返済できる親はほとんどいなかった。

この遊女を公娼というが、遊郭以外の場所で営業をし、そこで働く女達を私娼と呼んでいた。
そして許可された以外の者が遊郭以外で、借金を形に少女達に売春行為をさせることである。

GHQの指導で公娼がなくなっても、それは赤線と称して残り、その後1956年昭和31年に売春防止法が成立、1957年に施行されるまでほぼ公に売春は続けられていた。

それでも、吉原遊郭や赤線は消えたとしても、その後トルコ風呂やソープランドと呼ばれる特殊公衆浴場として、平成の今日でもいまだに続いている。

「補導って、何時の事?」

美山が聞いた。

「丁度淳が事件を起こした翌々年、淳は21歳。1950年3月。美奈子は18歳だ。
児童福祉法が成立したのは1947年。しかし施行されたとしても市井の隅々まで網を張るには時間が掛かる。それと、その当時の住所だ」

恩田の目付きが鋭くなった。

「横山ってやつも探したら出てくるわ出てくるわ。傷害、詐欺などいっぱいで、戦前は刑務所にもいたことがあるし、一時期は龍泉会(りゅうせんかい)っていう組織にもいたらしい。戦後賭博で捕まったときの住所が、美奈子と同じなんだ」

恩田は黙って美山と順平の目を交互に見、そして続ける。

「銀座に流れてきたとき、すでに美奈子は横山と一緒だった。銀座以前から横山のところに身を寄せていたんだろうな。たぶん、赤線時代は、横山の私娼だったかもしれない」

「そういえば、池袋のバーテンダーの話によると、横山は美奈子を身請けしたって言っていたそうじゃないですか」

順平が恩田を見て言った。

「ああ、その通りだろう」

恩田は腕組をして考え込みながら言う。

「横山の自殺の動機が気になるな。それと横山が一時期関係のあった……」

「龍泉会?」

そう呟いた美山は恩田から順平に視線を移した。

「ぼ、暴力団?」

順平は座った上半身を後ろへ引いた。

「順平君、龍泉会って調べてみて」

「え、僕が暴力団を?」

声が震えた。

「その前に、警視庁の鬼塚さんにお願いして。だって龍泉会ってどこにあるのよ」

「そうですね。え、鬼塚さんですか?」

「そう。名前からして、その関係、得意そうじゃない」

「その後は……」

「え!」

「一緒に調べましょ」

順平と美山が警察庁の鬼塚にアポイントを取って尋ねると、すでに鬼塚も龍泉会について調べておいてくれた。
電話の様子からはすでに龍泉会を知っているような口ぶりであった。

「龍泉会だろ。むかし、1987年に解散している」

「そうなんですか」

順平の顔に一瞬安堵感が浮かんだが、鬼塚はそれを見逃さなかった。

「その後、会の多くは今の四葉会に流れた。その四葉会(よつばかい)は海外を中心に麻薬取引や人身売買を行っているらしい」

「今もその元龍泉会の組員が?」

麻薬取引や人身売買の世界に調査に向かうのは怖い。

「もういねぇだろう。ただ昔の龍泉会の元締はまだ生きている。三峰(みつみね)ってやつだ」

「三峰!」

美山が小さく確かに呟いた。

「三峰は逮捕されて二〇年を食らったんだ。それがもとで龍泉会は解散に追い込まれた。とうの三峰は出所後、長野県の泉町に住んでいる。別荘での隠居だな。別荘といっても他に家があるわけじゃなく、別荘地内での定住だ」

「順平君、三峰って、美奈子が補導されたときの身元引受人になっていた人よ。それに泉町っていえば一時期美奈子がいた島田家のある町と同じ!」

「ああ、三峰はもともと泉町出身だからな」

鬼塚と美山の会話の途中で、順平は顔を伏せてしまった。

「おい、若いの」

鬼塚はわらって、伏せた順平の顔を伺うように言った。

「ヤクザを調査するのは怖いか?」

順平は返事をしようにも言葉に迷い、口を半分開けたまま、どもりもせずに固まってしまった。

「今回は俺も同行しよう」

鬼塚の話によると、以前三峰を逮捕したのが彼であったのだが、その罪状などには、『もう終わったことだ』と言って触れなかった。

三人は次の日泉町に向かうことにした。

     *

新幹線の駅でタクシーを拾うと三峰の別荘のある住所へ向かった。

島田家のあった日本風の田園風景が広がっていた地域とは違い、西洋風の家々が点在する別荘地に向かう。

すでにモミジの紅葉は時期を過ぎ、カラマツの黄葉が広がる森の中を走った。
時々目にする白樺の木肌の白さが寒さを掻き立てる。

そんな森の中に点在する家屋は普段は生活する人もいない冷たい別荘である。

タクシーは枯葉で埋もれた道に止まった。
車のドアが開くと別荘地内の森の香に混ざって薪を燃やす匂いが漂ってきた。

順平がタクシー代を支払っている間、鬼塚と美山が木々の間に見える大きな洋式の家を伺っていると、中から三十代に見える女が膨らんだゴミ袋を持って出てきた。

「こんにちは。私、美山と申します。すみません。三峰さんはご在宅ですか」

美山は女性から話しかければ警戒もしないだろうと思って声を掛けたのだが、その女の表情は変わらず暗く気怠そうな表情であった。

「三峰は、うちですが」

女は怪訝そうに答えて、タクシーに近づいてきた。タクシーの止まったすぐ横の道端にゴミ箱が置かれていたのである。

「私は、鬼塚と申します」

今度は鬼塚が踏み出て挨拶をした。

「三峰源吉(げんきち)さんに、少しお伺いしたいことがありまして」

「父になにか?」

女はごみ袋をごみ箱に詰め込みながら、振り返りもしないで聞いてきた。

「戦時中のことなんですが、覚えていることなどありましたらと思いまして」

女はごみ箱の前で鬼塚の顔を伺いながらもずっと黙っていた。

「いえ、『会』の方とはまったく関係のないことだと伝えてください」

鬼塚はあえて警察手帳は見せずに、普段の鬼塚とは違った丁寧な口調で言葉を添えた。

「もう相当の年ですが」

女は『会』の意味を理解したらしく、初めて会釈をした。

「会うかどうか、父に聞いてみます。どうぞ……」

順平がタクシーを返し鬼塚たちに近づくと、三人は女の後ろに従って家に向かった。

丸い石を積み重ねた土台の中央に階段を配置した左右対象の、明治時代の貴族の館を思わせる別荘であった。

三人は応接室に通された。

薪を燃やす匂いはこの家から漂ってきていのだが、通された応接室に暖炉はなく、女は壁際の温風ヒーターのスイッチを入れると。部屋を出て行った。
鬼塚と順平はソファーに腰掛け、美山は窓際にたち外の景色を伺った。

「静かな森ね」

「ムショより淋しいかもしれないな」

鬼塚は呆れ顔で呟いた。

「あの方は、娘さんですね。若く見える」

順平は鬼塚に聞いてみた。

「ああ、若く見えるな」

鬼塚は部屋のドアを見て言った。

「ご存知ないんですか?」

「さぁ。今回は三峰を調べに来たんじゃないからな」

ドアのノブが回った。
ゆっくりとドアが開くと、車椅子に座った老人とそれを押す先ほどの女が現れた。

鬼塚と順平は立ち上がり、美山と一緒に三峰に向かって頭を下げた。

「お久しぶりです。鬼塚です」

頭を上げた鬼塚が最初に言葉を出した。

三峰はしばし鬼塚に目を凝らしていたが、何かを思い出し目を逸した。

「ふん。鬼塚さん。あんたかね。で、今度は?」

三峰は鬼塚がまた捜査で身辺を嗅ぎ回っているのではないかと思ったらしい。

「いえいえ。今日は、会長のことではないんですよ」

「では?」

三峰は会長という肩書を否定せず、後ろの娘に合図して車椅子を応接室の奥へ進めた。
三人もソファーに腰掛けた。

「実は、今、ある人のことを調べていましてね。会長も、もしかしたら覚えているんじゃないかと思いまして」

「龍泉会は、もう忘れたよ。会は解散。警察のお墨付きだろ」

「いえ、そのもっと前。戦後まもない頃の事なんです」

温風ヒーターの暖気が部屋にこもり始めていた。

そこで美山が話を切り出した。

「三峰さん、津久井美奈子っていう人、覚えてますか? 津久井、または島田美奈子」

三峰は思い出を辿るように、視線は過去に向いてしまった。

「美奈子……美奈子、そうだ。島田美奈子。覚えているよ」

三峰の顔が驚きの表情に変わった。

「まだ、生きているのかね?」

「いいえ。先日、亡くなりました」

「そうか! まだ生きていたんだね!」

「亡くなられたと、思ってらっしゃったんですね」

美山は三峰を労わるように言った。

「あの時代、生きていくのは大変だった」

「昭和23年、三峰さんは美奈子さんが補導されたときの身元引受人になってらっしゃいますね」

「ああ! ああ! そうだよ」

三峰の目は、驚きと喜びと悲しみを含んだ輝きで潤んだ。

「どうして。いえ、どんなご縁で、美奈子さんを」

「あれは……」

三峰の話しが饒舌になった。

     *

三峰は戦前、尋常小学校を出てから林業に携わっていた。
戦争が始まり招集年齢が地近づいたころ、運悪く倒木の下敷きになり大きな怪我をした。
それがもとで右足を引きずるようになってしまったのだが、それが原因で招集は免れた。
ただ仕事を失い、戦争にも行けなくなった三峰は周囲から非国民扱いされ、郷に居づらくなり、東京の知り合いの伝を辿って上京することになった。

上京するその日、駅では出征を祝う歓声が上がっていたが、それを避けるようにして見守っていると、切符売り場の横で、物陰に隠れるようにしながら物欲しそうにしている女の子を見つけた。
それが美奈子であった。
三峰が声を掛けても美奈子はじっと黙ったままであったが、持っていた握り飯を一つ上げると、ようやく答えるようになった。

親戚の家に疎開で来ているが、東京での空襲が始まり、家族が心配で会いに行きたいという事であった。
しかし運賃が払えず、だれか大人のあとに着いていくつもりでいたという。
三峰は、子連れであれば混み合う車内でいい場所を取れるかもしれないという下心から、美奈子を東京まで連れて行くことにした。

そして上野に着くとそのまま別れるつもりでいたが、方角に迷っている美奈子を見かねて、家まで送っていくことにしたのだった。

美奈子に住所を聞くと懐から紙切れを取り出して示した。
三峰はその紙に書かれた住所を探し出し、美奈子をその家に連れて行った。
美奈子の両親は驚いていたが、礼を言われ、そのまま美奈子の家をあとにしたということであった。

三峰を雇ってくれた材木商も美奈子の家からそれほど遠くはなく、そののちは時折使いで近くに来ることもあった。
そしてその度に美奈子を思い出したのだった。

数か月後のある日、また美奈子の家の近くを通ると、偶然美奈子に会った。美奈子は三峰の顔を見ると走り寄り、すがるように上着を引っ張った。

「おじさん、助けて」

美奈子は三峰のことを覚えていた。泉町に戻されるということであった。
三峰は持っていた白紙伝票の裏に鉛筆で自分の住所をしたため、美奈子に渡し、

「もしどうしても困ったら、ここにこい」

そう言って、再び美奈子の家に送り返したということがあった。

それから数日後、それまでにない大規模な空襲が東京を襲った。

そして終戦。

三峰は材木商を離れ、関東大震災の後に闇取引で大きくなった龍泉会に身を置くようになり、以前の材木関係の闇取引で頭角をあらわすようになっていった。

ある日、谷中警察の署員が自宅にやって来た。
そして美奈子が補導されたことを告げ、美奈子が身元引受人として告げたのが三峰の名前であった。
初め「島田」という名前にピンと来なかったが、美奈子という名前で、もしかしたらと思い警察署に同行した。
三峰は谷中署で事情を聞き、そして身元引受人として美奈子を引き取った。

警察は三峰の名前が出てきたが深く調べはせず、むしろ警察の方から引取りを願い出たということであった。

     *

「それが昭和23年、12月ですね」

美山が思い出を確かめるように言った。

「ああ、それぐらいの時期だったように思う。粉雪の舞う寒い日だった」

     *

三峰は美奈子を自宅に連れ帰り、詳しい事情を聴こうとした。

美奈子には兄がいて、共に田端の駅周辺をねぐらにし、物乞いや盗み、進駐軍相手のかっぱらいなどをしていた。

一緒に腹を満たすためには金が必要だった。

兄は壊れた工場などから鉄くずを拾ってきて売ったり、しまいにはヒロポンの密売にも手を染めるようになっていた。

ある日美奈子は繁華街で誘われて赤線で働こうとしていた。
その時後ろ盾になっていたのが横山という男だった。美奈子に売春をやらせようとしていたのだった。
そこを警察に補導されたのであった。

警察は横山を探すことができず、美奈子はとうとう暗記していた三峰の名前と住所を告げたのであった。

美奈子を妹か娘かのように思っていた三峰はしばらく美奈子を自宅に置くことにし、同時に部下を使って横山を探させた。
しばらくして美奈子は兄を探しに行くというので三峰も一緒に探しに出た。

美奈子が初めに向かったのは田端駅近くの高架下の穴倉だった。
石垣の奥の三畳ほどの狭い場所に七輪と取っ手の外れたアルマイトの鍋があった。その時、穴倉の内側の壁に、石の外れた窪みがあり、そこに一体の仏像があった。

「お兄ちゃんが帰ってきたんだ」

美奈子はそれを見て仏像を取り上げ、そして泣きながら喜んだ。

ただ待てども待てども兄は帰ってこない。

数日間、その穴倉を訪ねたが、結局兄には会えなかった。

     *

時を同じくして横山が三峰のもとに現れ、美奈子を返せと言ってきた。
横山は神馬組から美奈子を身請けしたと言ってきたのだった。
当時横山は龍泉会にも出入りするチンピラであった。

三峰は横山に問いただした。

「幾らで身請けしたんだ。お前が身請けできるほどの金を持っているとは思えねぇ」

横山は黙って神馬組の證書を見せた。一万円で身請けしたということであった。

「どうやってその金を作った」

結局横山は金の出所は言わなかった。

ただ美奈子は横山を救世主であるかのように庇い、三峰も神馬組と事を構えるほど力はなかったため、その場で二人を放ち、そして二人は消えた。

     *

「その穴倉で見つけた仏像というのは?」

三人は息を呑み、美山が聞いた。

「ああ、片腕のない仏像だった。どんな仏像かは知らんが、片腕がなかったのは覚えている。気味の悪い仏像だったよ。ただ、両親の形見か、思い出だったんだろう」

美奈子はその菩薩像を三峰の家に置いて行ってしまっていた。
三峰はそれが美奈子にとっては大切な物だと思い、妻に言いつけて大切に置いておいた。

年を越した春、美奈子が突然三峰の下を訪れ、あの横山と一緒に暮らしている、結婚しようと思うと報告をしに来た。
そして、置き忘れて行った仏像を兄に返したいから、返してくれと言ってきたのであった。

三峰は快く受け入れ、仏像を渡した。

「お兄さんは、見つかったのかい?」

「ええ。これから会いに行くんです」

ところが、それ以外兄のことは一切語ろうとはしなかった。

     *

「横山という男についてご存知のことは?」

鬼塚が上半身を乗り出して聞いた。

「ああ。チンケなやつだったよ。博打で借金を作ったり、龍泉会や神馬組に絞られて、つかいっぱしりもやっていたんだ」

「借金?」

美山は額が聞きたかった。

「ああ、一万円だったか……二万円だったか。そうそう、丁度その頃四万円が奪われる事件があったな」

「田端篤志家一家殺害事件」

「ああ、そうだ。一家殺害事件だ」

三峰は上半身を屈めて乗り出すようになった。

「わしは、あの事件は横山がやったと思った」

「なぜ、横山が犯人だと思ったんですか?」

それまで黙っていた順平が身を乗り出して聞いた。

「突然神馬組(じんまぐみ)に借金を返し、美奈子を身請けする。数万百円なんて大金を一晩で作ったようなことさ。あの時期、千円でさえ一晩二晩で作れるもんじゃねぇ。美奈子で一万円、借金で二万円だぜ。おまけにうちの組の者が何度か横山をあの家に使いに出していたらしい。
先代が世話になった家なんだ。ところが、数日後、真犯人が捕まったんだ。それで全て事件が解決したんだ。横山は犯人じゃなかったんだ」

三峰は呆れたという顔つきを作った。

「じゃ、それを警察には……」

順平は真面目に聞いたのだが三峰は鼻で笑いながら答えた。

「お若いの、ヤクザがわざわざ警察に出向くかい? おまけに犯人は捕まったんじゃねぇか。ちゃんと自供して、裁判にかけられて死刑になったはずだ」

「津久井淳元死刑囚です」

順平は三峰の目を見て言った。

「ああ、津久井?……おい、美奈子の苗字は島田だろ」

三峰は口を開けたままにして聞き返した。

「三峰さん、美奈子の旧姓、島田家に養女にもらわれていく前は津久井」

鬼塚は胸で腕組みをして説明した。

「津久井って苗字、知らなかったんですか?」

「美奈子の東京の家の名前は……知らなかった。今の今まで島田だと思っていた」

三峰が黙った。

外の森で雉が醜い声を上げて飛び立つ音がした。

「おい、鬼塚の」

三峰は鬼塚を睨んだ。
応接間の暖炉の炎の音が大きく聞こえた。

「わしもそうとうワルをやって来た。しかし、悪をワルと自覚し、ワルなりにワルでいた。お前さん方警察は、善を標榜してワルを捕まえるが、それにしても自身のワルをワルと考えず善人ぶっている。何を調べているんだね。自分たちの犯した罪の深さから懺悔の捜査かい?」

突然三峰の顔つきが苦しそうになり咳き込んだ。

「長生きは、するもんじゃねぇな」

鬼塚は目を伏せて黙っていた。
その場の四人の予感が重なったように感じ、互いに目と目で確認し合った。

三峰が持っていた鈴を鳴らすと娘が薬を持ってやってくると、三峰は慌てるようにそれを飲んだ。

「知りたくねぇこと、知らなけりゃよかったこと……あるもんだな」

     *

 東京に向かう夜の新幹線の中で、鬼塚は暗い窓に映る自分を見続けていた。その向かいで美山は目を閉じて寝たふりをしていた。

「鬼塚さん、一つどうです」

順平は駅の売店で買ったおにぎりを食べながら、もう一つを鬼塚に差し出したが、彼には聞こえなかったのか反応がなかった。

「鬼塚さん、どうかしましたか」

鬼塚は窓に映った順平の顔に驚いて振り向いた。

「あ、おお」

そう驚きながらおにぎりを受け取ったが、彼がフィルムを剥がす手の震えを順平は見逃さなかった。
鬼塚はそっとおにぎりを一噛み口の中に入れ、それをいつまでもゆっくり噛み続けた。
噛み続けて動く唇に海苔が付いて一緒に震えて動いていた。
気が付いた美山が小さなお茶のペットボトルの栓を開けて差し出すと、あわてるようにお茶を口に含んで、おにぎりを呑み込んだ。

「俺は、この仕事、辞められねぇんだ。辞めちゃいけねぇ気がする」

「え?」

「この前の裁判だって…」

鬼塚はそこまで言って、車内を見回し、近くに他の乗客が居ないのを確認すると、再び話し出した。

「ある暴力団の抗争による発砲事件だった」

大阪で起きた発砲事件で、暴力団員一名が死亡した。三日後敵対する組の一人の暴力団員が出頭してきたのである。
大阪府警は供述通りとして送検、起訴、裁判員裁判で有罪判決が出て、懲役一〇年の量刑が下された。被告は控訴せず、刑が確定した。

その裁判に疑問をもった鬼塚は、裁判記録や調書を丹念に調べると、どうしても不審な点が浮かんできた。

被告が発砲した場所から被害者の撃たれて倒れた場所までの距離が45メートル。使われた拳銃は9ミリの自動拳銃。被告は裁判で証言する際、片手で拳銃を持ち構えたと証言していた。

「おい、9ミリの拳銃を片手で構えて45メートル先の標的に当てられるか?」

鬼塚は美山と順平の目を交互に見た。

「結構反動が大きくて、よっぽど訓練したものでも難しいぜ。それを大した訓練も積んでいねぇチンピラが、片腕で中てられるか? ハワイとかに行きゃあ練習はできるだろうが、渡航経験は一度もねぇ。本当に撃った奴が他にいるんだ。裁判員や裁判官はそこまでの経験がないから、被告の供述を採用し、被告の望む通り有罪判決」

「身代わりってやつね」

美山が澄まして言った。

「裁判で10年食らっても、真面目に奉公して7年程度で出所できれば、組の中でも格が上がって喜べる。真犯人も喜ぶ。市民も有罪判決で悪を懲らしめて喜べる。みんなで万々歳さ」

「で、その事件、どうなったんですか?」

順平は興味深げに顔を寄せて聞いた。

「真犯人の目星はついているが、判決が出て刑も確定してしまっているからな。あとは10年後20年後、この2Bが調べるだろう。
三峰が言っていただろ。あたっているのかも知れねぇ。贖罪の捜査。俺は、本当は、必ずしも法が正義だとは思えねぇ。法律なんて秩序を守るための方便なのかも知れねぇ」

「でも、秩序は必要よ」

美山は額を窓に押し当てて夜の街を見ながら呟いた。

「ほら、町がキラキラ光ってる」

 三人は夜の車窓を眺めた。そしてしばらくすると新幹線は地下に潜った。

     *

 次の日、美山と順平は恩田に三峰から取材してきた報告をした。

「美奈子が、あの菩薩を手にしたのは、ちょうど事件のすぐ後ですね。それも数日の差」

 順平は表情を変えずに言った。

「神馬組と関係のあった美奈子は、ある日横山と知り合い、横山が神馬組から美奈子を身請けする。そしてすぐに売春で補導。身元引受人になった三峰は美奈子とともにねぐらを訪れると、兄の姿はなく、菩薩像だけが残っていた」

「津久井淳は、確かに森山家に行った。これは衣服の血液反応で確実だ。ただ、森山家から消えた四万円の行方は、調書や裁判記録では余りにもあいまいだ。同時にそんな大金を横山が持っていた」

恩田は首を傾げて言った。

「もちろん、それが森山家から盗まれた金とは限らんが」

「まるで、この前の入れ替わりのような話ね」

美山が呟いた。

「よし、これからは淳の方を中心に調べていこう。なぜ、淳は菩薩像を持っていたのか。なぜ森山家に入ったのか」

三人はどこから調べようかと、恩田も含めてそれぞれの考えを頭の中で纏めながら黙り込んだ。

「あの……」

順平が小さく手の平を挙げて恩田に見せて言った。

「津久井淳は、なんですべてを認めて控訴もせず、死刑になったんでしょうか?」

恩田と美山は目を合わせてその言葉の意味を探った。

「まだ冤罪と決まったわけじゃねぇぞ」

恩田が厳しい目つきで順平を見た。

「そうじゃないんです。だって、この平成の時代には、死刑になりたかったって殺人を犯しても、社会に対する不満をぶちまけるような供述をしたり、控訴上告したり、捕まった時点で精神疾患を訴えたりするじゃないですか? 控訴しなくてもヤケクソな言動を吐いたり。それってやっぱりこの社会に未練があるんだと思います。でも淳はあまりに素直すぎませんか?」

すると美山が思い出したように言った。

「それを調べるのよ。明日は12月12日。淳の刑が執行された日ね。言い換えれば命日」

「そ、そうですね」

「津久井淳に直接聞いてみましょ」

「え?」

「そうだな。美山さん、美奈子の指定管財人に聞けば墓が何所にあるか判りますね」

恩田はまじめな顔で美山に指示した。その時、2Bに電話が掛かってきた。

「あ、桜庭さんかな」

美山がそういって電話を取った。

予想通り桜庭からで、彼の報告によると当時の目撃者であった竹中巡査や刑事、検察、弁護士や裁判官はすでに鬼籍入りしていたが、淳の取調べに当たった当時まだ若かった三島元刑事の居所がつかめたと言うことであった。

そこで次の日、恩田と順平が三島に直接会いに行くことになり、美山は津久井家の墓探しに出ることになった。

     *

桜庭から貰った情報によると、三島孝彦(みしま たかひこ)刑事は昭和26年、28歳の時に依願退職しており、退職後は自衛隊に入隊。
その後六十歳で定年後は警備会社に再就職。70歳で年金生活に入っていた。
現在88歳。五つ年下の妻と国立のマンションで二人暮らしをしていた。

マンションのエレベーターが三島の住む階に着いてドアが開くと、その正面に通路が続いており、一番奥の三島の部屋の玄関まで見渡せた。
恩田と順平がエレベーターを降りると、丁度一番奥のドアが開き老夫婦が出てきた。

順平が突き進もうとすると恩田がその腕を引っ張りエレベーター脇の非常階段の方へ引っ張り込んだ。

「シ!」

順平は不思議そうに恩田を振り返った。そして二人で非常階段の影から二人がエレベーターに乗るのを伺った。
妻とエレベーターを待つ三島は持ち物を確かめているらしく、黒い背広のポケットから数珠を取り出して確かめ、また仕舞った。

二人がエレベーターに乗るのを確かめると恩田と順平は非常階段を足早に下りた。

「おい、二人は墓参りか何かに行くんだろう」

「そうですね」

「誰の墓参りだ?」

「今日、命日の人」

 三島夫妻は電車を乗り継ぎJR日暮里駅で降りると改札を抜けて南口へ出た。

すっかり乾燥して寒くなった町は灰色の建物が目立つ。
そんなモノトーンの街に潤いを与える花屋に二人は入った。後をつけている恩田と順平は電柱の陰で立ち話をするように二人の出てくるのを待し、そしてまた歩き出した。
谷中の墓地に入ると、人影は全くなく区画の整った墓地の通路では目立ってしまうが、位置を把握するには都合もよい。

三島がポンプを押して井戸水をくみ上げると、妻がひしゃくの入った桶に水を受け取る。
恩田と順平が区画の陰でそれを見ていると、その背後に誰かが立ちはだかった。
三島夫妻に集中していた順平がその気配に驚いて振り向くと、美山が唇に人差し指を当てて静かにするように示し、そっと言った。

「津久井家の墓よ」

「ああ、美山さん」

恩田も振り向いた。

「あの津久井家のお墓には、美奈子さんと淳さんのご両親、淳さん、そして横山も入っているそうよ」

「塔婆などは全くなく、墓誌には、美奈子さん以外の戒名は刻まれていないわ」

「美奈子の戒名は、管財人の弁護士が頼んだそう。それと、木下さんに調べてもらったんだけど、美奈子はちゃんと使用料は滞りなく払っていたそうね」

津久井家の墓が都立の墓地にあるということで、美山は元都庁勤務であった木下に頼んで、その伝で調べてもらったのであった。

線香の煙が墓地の冷たい空気を薄い青に染め、その香りを漂わせ始めた。

「ちゃんと供養していたってことか」

「あとで、木下さんにも会って聞いてみたいことがあるの」

「ああ、そうだな」

しばらくすると、三島夫妻が三人の傍を通り過ぎた。
その後ろ姿に恩田が声をかけた。

「あの、すみません。三島さん、でらっしゃいますか」

三島は背後に運命の声を聴いたかのように一瞬体を強張らせ、気を張って振り向いた。
その横で妻がそっとそれを見守った。

「ええ、そうですが……」

「わたくし、文部科学省の恩田と申します。先ほど津久井さんのお墓にお参りされていたので…ちょっとお話をしてみたいと思いまして」

「津久井淳のことですか?」

「その彼の妹さん、津久井美奈子さんが、先日亡くなられまして……」

「そうなんですか」 

三島は話をする間も体を強張らせ、何度か苦しそうに唾を呑んだ。

恩田は三島夫妻を上野の喫茶店に誘った。

     *

恩田の馴染みの喫茶店で、店内の一角のランチ・パーティー用の小さな宴会室を用意してもらった。

「先日、津久井美奈子さんが亡くなりまして。今その辺りのことを調べているんです。その方の形見に、菩薩像がありまして…」

恩田の説明に三島の顔つきが青ざめた。

「その菩薩像の経歴を調べているんです」

「あ、あの、菩薩像を……」

「ええ。ご存知ですか」

「覚えています。片腕の無い菩薩像ですね」

「それをお持ちだったのが津久井、美奈子さんでして、津久井淳さんの妹さんです。その菩薩像がどこからやってきたのか、歴史的観点から調べているんです。いつごろ、どこでそれを知ったのか、見たのか、お話願えませんか?」

「そうですか。その前に、津久井淳さんのことから」

三島は大きく息を吸った。

「お話させていただいてよろしいですか」

「ええ」

恩田が不思議そうな顔つきを作って答えると、三島は森山家一家殺害事件の発生の時から語り始めた。

  
             津久井淳ケース・握り飯  つづく

#創作大賞2023

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