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インペリアル・ディテクティブ 第3話

ファイル2  新山栄治ケース・M資金  つづき


1945年、昭和20年、8月8日、ソ連軍は日ソ中立条約を破棄し、満州へと侵攻を開始。
満州国南方の通化まで進駐した。

そして日本のポツダム宣言受諾後、満州国は中華民国の統治下におかれることになったが、ソ連軍は中国共産党にそれを引き継ぎ、中国共産党軍が統治を始めると中華民国軍は駆逐された。

満州国に残された日本人は、中国共産党の支配下で、財産の没収、略奪、強姦などの迫害を受け、共産主義への転化を迫られながら、翌年の1月、残留中華民国軍に呼応した日本人が武装蜂起した。

しかしその情報は事前に漏れ失敗に終わり、3000人以上が拘束連行され、拷問を伴う尋問が続けられた後、3月には付近を流れる渾江に多くの日本人の死体が浮かんだという。
生き残った者はシベリアに連行され、また中国共産党軍に徴兵されていった。

満州国通化省通化市の新山家にある日一人の日本人がやってきた。
忠明は、始めはまた怖い中国人がやってきたのだと思ったそうである。ところがそれはボロボロの兵隊服を着た男で、目は怯え、言葉は少なく、時々発する言葉は震えていた。
栄治はその日本人を屋根裏に隠し、家は平静を装った。

中国人らは捜索と言いながら踏み込んだ家々から金品を略奪していった。
当時日本の憲兵も新山家や近隣の日本人宅に顔を出しては治安の維持に努めていたが、武器だけでなく日本刀さえ没収された憲兵たちは、暴力の前に屈するしかなかった。

ある日また中国人がやってきて家宅捜査を始めた。
新山が満州国で会社を経営していたことが判明し、その財産を没収する為にやってきたのである。
忠明はそのとき、あの屋根裏に、隠れ住んでいた男と一緒にいた。

突然母恭子の悲鳴が聞こえ、兄弟の泣き声がする。
そして銃声が聞こえ、それが止むと、すべてが静かになった。

忠明は一緒に隠れていた日本人に、そのまま屋根裏にいるように言われ、そこで震えながらじっと動かずに何かを待った。
微かに母親の恭子とその日本人の会話が聞こえた。
そしてその日本人が戻ってくると、付いて来いといわれ、家をそと出た。

家を出るとき、忠明はその男に手で目をふさがれて家の中を歩いた。
しかし、その男の指の隙間から見えたのは、父や母、兄弟が血を流して倒れている光景であった。

忠明が家の裏に出ると振り返って、

『父ちゃん! 母ちゃん!』と、叫ぶと、その日本人が忠明の頬を平手で殴り、そして声を殺して言った。

『俺が、お前の父ちゃんだ! 一緒に日本に帰ろう!』

その後幾人かの日本人たちに匿われながら、やっと船に乗ることができたという。

引き揚げ船に乗る時、

『新山栄治です。これは息子の忠明です』と、あの日本人がそう言っていたのを覚えているということだった。それが忠明の父、今の新山栄治ということである。

「じゃぁ、その話の中の、新山栄治に匿われていた日本人は?」

順平はすこしどもりがちになって聞いてしまった。麻衣子は首を横に振った。

「それが、山之内信之助ね」

「その人は?」

美山の言葉に麻衣子が聞き返した。

「繭住アヤ、あなたの祖母の最初で最後の夫」

美山は言葉をはっきりと発音しながら慎重に答えた。

「僕たち、山之内幸之助さんに会ってきたんです。信之助さんのお兄さんです。その人のDNAと栄治さんのDNAを調べれば、はっきりしますよ」

順平は幸之助とアヤの関係までは言及しなかった。
ところが、それまで黙っていた紗江子が聞いてきた。

「では、伸介さんは?」

「多分、幸之助さんの子供」美山は表情を変えずに淡々と答えた。

「では、麻衣子と隆文さんの関係は?」

紗江子が慌てた声で聞いた。

麻衣子は俯き、美山と順平は、突然出てきた名前に聞き耳を立てた。

「隆文さん?」

美山が聞き返した。

すると紗江子は罰が悪そうに俯いてしまい、俯いていた麻衣子が顔を上げた。

「伸介さんの息子さんで、私の従兄弟です」

美山と順平には、なぜ突然伸介の息子の名前が出てきたのかが解らなかった。
麻衣子は一度大きく息を吸って続けた。

「今、一緒に暮らしているんです。同棲、内縁……とでも言うのでしょうか」

「ようするに、血縁で言えば伸介さんは栄治さんの甥に当たるわけですね。いや信之助さんの甥。で、麻衣子さんは、隆文さんとは血のつながりは全くない」

美山と順平は、なぜ麻衣子が栄治とアヤの過去を探っていたのかが理解できような気がした。

麻衣子と隆文は小さい頃から従姉弟同士として育ったが、伸介のアメリカ勤務の頃はなかなか会う機会がなかった。
ある日、麻衣子がアメリカにホームステイで滞在することになり、何かと面倒を見てくれたのが伸介たちで、そうしてアメリカで隆文にいろいろと案内されているうちに、恋に落ちた。
その後帰国してからも付き合いを重ねたが、従姉弟同士の結婚は法律上認められているとは言え、血の濃さを理由に躊躇していたと言うこともあった。
しかし実はそれ以上に悩ませたのが、まだ誰も知らない運命の悪戯であった。

「あの……祖父が、新山栄治ではなくて、山之内信之助だとして、では本当の新山栄治とは、どんな方なのですか」

麻衣子は恐る恐る聞いてみた。

美山はそれに対して、それまで調べた新山家のことを淡々と話した。
愛知県の製薬会社の息子で、満州に移り住み満州薬品を立ち上げ財を成したと、事細かに説明をしたが、戦後の新山家には触れないでいた。

ただ高森村の名を口にしたとき、紗江子が浮かぬ顔になった。

「紗江子さん、どうかなさいました?」
美山はその紗江子の表情を見逃さず、何かあるのかもしれないと聞いてみた。

「いえ、別に」

「お母さん、なにか知っていることがあるの?」

麻衣子は母親を労わるように聞く。

「愛知県、高森村……ですか」

「ご存知なのですか。今は高石市です」

「そうですか」

紗江子はそれで黙ってしまった。

調査は忠明が証言を恐れた高石市の高鍋春子の方へ向かおうとしていた。
ただ、美山の気遣いでその日はそれで終えることにし、後日改めて面会の約束をした。

もちろん新山家の人たちは拒否することもできるが、強引で無理な調査は、霧の向うに見えてきた真実を、落日の闇に包んでしまう恐れがある。


2Bに帰った二人は恩田に報告を済ませると、PCに向かってそれまでに得た情報の整理を始めた。
順平は、その日抱いた言い知れぬ恐怖感を思い出しながら恩田と美山に聞いてみた。

「あのぉ、今回の調査は、財務省の宝田さんの依頼で、所謂新山名義のM資金の持ち主、新山栄治を特定することですよね?」

「そうね」

「と言う事は、もう新山栄治が山之内信之助だとわかり、その家族忠明が受け取りを拒否するなら、これで調査は終わりですよね?」

栄治の痴呆が進んでいるということで、家庭裁判所に申し立てをして後見人になり拒否することもできる。成年後見制度である。

「そうね。幸之助のDNAと今生きている栄治、すなわち信之助のDNAを照合し、春子と忠明のDNAが血縁として一致すればいいのよね」

「じゃぁ、警察庁を通して春子の白骨片からDNAを抽出して、今の忠明と照合する。それと、幸之助の痰。美山さん持ってきましたよね」

 順平がなにか慌てて先を急ごうとしていると感じた恩田が割って入ってきた。

「おいおい、それで終わりにしちゃうのか?」

恩田が不思議そうな顔で順平を見て言った。

「で、でも、これ以上、何を調べるのですか? 春子を殺した犯人探しじゃないって言っていたじゃないですか」

「犯人探しじゃない。ただ調査は徹底的にやる。それが2Bの仕事だ。いい加減な報告を昭和天皇の御霊の前に献上するのか?」

恩田が昭和天皇という言葉を口にしたので順平は黙ってしまった。

     *

次の日、鬼塚から2Bの美山に電話が入った。

『あ、美山さん。昨日頼まれた、山ノ内信之介。出てきましたよ。戦後GHQから戦犯に指名されて追われていたよ』

「そう。やっぱり」

美山は予想が当たったことで確信が深まった。

『ところで、梅沢君はいる?』

美山は受話器を順平に差し出した。

『ああ、梅沢君。鬼塚です』

「ああ、調査結果ならもうすぐだせそうです。殺人の犯人はわかりませんが、M資金の持ち主は解りました」

『え、解ったんだ。さすがだな!』

「ええ、もちろん、受け取りは拒否するみたいです」

そこで鬼塚は少し間を置いてから話し出した。

『そうか。ところでね、あの白骨死体の見つかった現場から、妙なものが見つかっていたんだよ。その調べがついてね』

「な、なんですか?」

順平は動揺を隠せなかった。


『相当古い型の錆びたバッジなんだけどね。死体が埋められていた床下に落ちていたそうなんだ。やっと何のバッジか判明してね。昔の昭和自動車の社員バッジでだよ。何か調査に役立つかなと思ってね』

順平は愕然とした。

そこまで告げられると、あのいい知れない恐怖の理由が解ってきた。
情報を整理する中での推理の一つに、春子を殺したのは栄治、信之助ではないかと言うことを感じていたのである。
ところが、もし春子を殺害した犯人がその昭和自動車の人であるなら、伸介が犯人の可能性が高い。その上長い間のアメリカ勤務があるため、時効が成立しないかも知れないのである。

順平の心の中の恐ろしい予感がもっと恐ろしくなりそれが色濃くなった。

そして別の方面から余計なことを探っている鬼塚に対しての言い知れぬ怒りがこみ上げても来た。

満州で苦しい思いをしてきた信之助が一人生き残った新山の家族の忠明と懸命に日本に戻り、そこで故郷に残してきたアヤと連れ立って、懸命に生きてきたのである。
信之助は血の繋がりのない忠明や、弟の子供である伸介と、自分の子供ではない子供を、愛するアヤと共に、激動の時代を必死に育ててきたのである。
そうして出来上がった幸せを、いま根底から覆してしまうかも知れないのである。

順平はそのバッジのことを美山に打ち明けた。

「じゃぁ、順平君は、伸介が春子を殺したって考えているの?」

「ありそうじゃないですか。だって、春子はM資金のことを知っていたんです。戸籍法が変わって、栄治の居所が突き止められた。そして、栄治が栄治でなく別人だとわかった。春子と栄治や信介との関係が拗れて……」

「殺したのは、伸介? そうだとしても、共犯も考えられるわね。入れ替わっているのを一番知られたくないのは、戦犯として追われていた栄治だし……」

「僕も、始めは栄治が殺したと思っていたんです。ただバッジが出てきてしまうと。伸介さんは、以前長くアメリカ勤務をやっていますから、その間は時効の経過が停止するじゃないですか!」

恩田の頬が一瞬痙攣した。
美山も暫く黙っていたが、事務室を出てすぐに戻ってきた。

「これ、刑事訴訟法よ。よく読んでみて」

順平は法律書などを読んだためしはなかったので、突然推理から現実に戻されて躊躇してしまった。

「最近時効制度が改正されたわね。

『時効は次に揚げる期間を経過することによって成立する。

一、死刑に相当する罪については公訴時効は廃止する。

二、無期懲役又は無期禁固に当る罪についいては三十年』

判例から二人を殺して死刑かどうか争われるけど、一人を殺した場合は三十年で時効ね。
だから春子が殺されてから、三十年で時効が成立する。そして第二百五十五条では『犯人が国外にいる場合又は犯人が逃げ隠れているため有効に起訴状の謄本の送達若しくは略式命令の告知ができなかつた場合には、時効は、その国外にいる期間又は逃げ隠れている期間その進行を停止する』。だから伸介がどれくらい海外に居たかを調べて、時効の期限を特定してみれば」

順平はそれを聞きながらなにか納得できない顔つきをしていた。

「あの、忠明さんも信介さんもその家族も、もう何十年って生活し続けて、何も知らない奥さんや娘さん、息子さんたちも幸せな暮らしを作ってきたんですよ。
それを今更蒸し返して、その人たちの苦労を台無しにしてしまうんですか。
だいたい被害者春子の唯一の血縁関係にあるのは忠明さんだけなんですよ」

「だから、罪を犯すことは、それだけ責任が重いのさ」

恩田が呆れた顔で言った。

「それは犯人に言うことで、何も知らない奥さんや孫の麻衣子さんたちには関係ないでしょ。これが発覚したら、関係ない人たちの幸せも壊すことになるんですよ! マスコミに揉まれて、メディアに晒されて、会社を追われて……一人の犯罪者がでると、その親兄弟、親戚も罪を背負わなければならないんですか?」

「だから! 罪を犯すことはそれだけ重いのさ。多くの人を巻き込んで不幸にしてしまう」

恩田はすこし強めに同じ言葉を繰り返した。

「じゃ、罪は何等親まで引き継がねばならないんですか? 罪はその家族、末代まで受け継がれなければならないんですか! 何年経っても家族の犯した罪は消えないんですか? 百年たっても、先代の罪を掘り返されるなんて変ですよ。関係のない人の幸せをぶち壊して、犯人に罪の重さを知らしめるんですか? そんな! そんな社会正義のために家族が犠牲にされるんですか?」

「順平君!」

興奮した順平を美山が叱った。

「順平君、法律はその人本人を裁くだけよ。ただ、それを取りまくマスコミや国民がそうしないだけ。法律は法律。善悪の判断とは違うのよ」

「じゃぁ、マスコミやそれに群がる人たちが善悪の判断をするってことですか? 勝手に決めて、勝手に罰を与える。社会的制裁ってやつですか? 善悪の定義ってなんなんですか?」

「順平君! あなたはどう思うの? このケース、あなたの担当でしょ!」

冷静だが確りとした口調の美山の言葉に順平は黙った。

そうして暫く考えた後、順平は麻衣子に相談してみることにし電話をかけてみた。

前回と同じように面談ができないかと持ちかけるとすぐに同意してくれ、そして忠明も同行すると申し出てきたのである。

     *                

2Bから地上に這い上がるエレベーターの中で美山が順平に助言のように言った。

「順平君、今恩田さんが外務省に問い合わせて、伸介の正確な海外滞在期間を調べてくれているわ。伸介さんの勤めている会社のバッジが出てきたというだけなんだから」

「はい」

それは単なる慰めでしかなかった。


再び先日と同じホテルの一室で面会が行われた。
前回と同様に麻衣子と紗江子だけでなく忠明も付き添ってきていた。

今回は順平が聞き手に回ることになり、三人と向き合い、話は忠明から切り出された。

「あのぉ、実は春子を殺したのは、この私です」

突然の展開であった。

「あ、でもなぜ、それをお話になる気になったのですか?」

「もう時効のはずの殺人ですので……」

「え、ええ」

「私たちは、脅されていたんです」

戦後戸籍法が改正され、栄治は忠明を学校に行かせるために新しく申請した。
しかしそのことで春子が籍を置く、栄治の実家新山家の方にも記録がなされてしまったのである。
数年後栄治の消息を知った春子が栄治のもとを訪れてみると、そこに居た新山栄治は全くの別人だった。
春子はその男が、栄治が満州で築いていた財産を隠し持っていると思い、財産を返せといい始めた。
栄治は知らないと突っぱねたが埒が明かない。そこでもし財産が残っているなら、GHQからの財産の返還がされるまで待つことで一旦決着をみた。

しかしその返還が始まると再び栄治のもとにやってきたのである。

本来その財産の存在すら知らなかった栄治は再び途方にくれた。
そしてとうとう金を出さなければ、栄治に成りすましていることを公表すると言い出したのである。
何度も何度も栄治の元を訪れた。栄治は常にGHQの追っ手を恐れ、新山栄治になりすましてしまった事を気に病んでいた。
栄治はGHQの統治が終わったあとでも、春子を恐れ続け、痴呆が進み始めた今は、何かを恐れるように時々満州での事を語りだすことがあるという。

しかし忠明は、身の安全を確保してくれ、食べさせてくれ、学校にも行かせてくれた栄治に感謝していた。
『忠明をお願いします』それが実の母恭子の言葉だと、後に聞かされたと言う。

当時すでに働いていた忠明は、自分たちの幸せを守ろうと、とうとう春子を殺そうと決心した。

と、忠明は語った。

順平はその殺人が伸介との共犯ではないかと疑った。
そしてもしかすると栄治やアヤも共犯ではないかとも疑ってしまう。

「それで、春子を殺したと……」

「ええ。ある日、金を渡すと言って、春子の家に押しかけて、そこで、殺しました」

「え、ま、まあ、これは殺人事件の捜査ではないので」

順平は真相が明らかにされてしまう恐怖を濁そうとした。

「先日、父が受け取るはずの財産があるということで、春子が言っていたM資金を思い出したのです。すると、あのときのことがどんどん思い出されて。居ても立っても居られなくて……」

忠明は俯き肩を震わせて黙ってしまった。

紗江子もうつむいて、そして呟いた。

「先日、高森村という地名が出てきて。だいぶ前主人が高森村の市町村合併の新聞記事を熱心に読んでいたのを思い出したんです。私の遠縁にこの近くの出身の人がいまして、高森村の名前は知っていました」

紗江子の話を受けて忠明が続けた。

「先日、高森村の話を持ち出されて、今日、一緒にここにこようと決心したんです」

そこで静けさに包まれたが、その時間が、その場の全ての人にとてつもなく長く感じられた。
順平は言葉の途切れた静けさの中で伸介のことを聞いてみようと思った。

「あのぉ、ところで、伸介さんは、何時ごろからアメリカに行っていらしたんですか?」

順平が伸介の名を口に出すと忠明は突然身を乗り出して顔色を変えてまくし立てた。

「伸介はやっていません! 私が一人でやったんです」

忠明はとうとう背中をも震わせて泣き出してしまった。

「父と母のことを、そっとしておいてください。今更、満州のことを持ち出してどうするんですか? 両親と伸介のことをどうしようというんですか。あの戦争で苦しい思いをして、苦労して生きて、やっと静かになれたんです。もう先も短いんです。
春子さんを殺したことは、全て私がやったことなんです」

 その時部屋のドアがノックされた。美山がドアを開けると、美山の見知らぬ二人の男が立っていた。

「あ、あの、新山伸介です」

小太りの背広の男は丁寧に挨拶をした。
するとその後ろのジーンズに白いワイシャツ姿の青年も挨拶をした。

「新山隆文です」

美山は二人を部屋に通すと、先に話を進めていた忠明たちも驚いて立ち上がり二人を見据えてしまった。

「あの、私から、お話いたします」

と、伸介が言い出すと、順平がそれをさえぎった。

「あ、あのぉ、どうしてここに?」

 麻衣子が隆文にこの日の面談を話していたと言うことであった。

「そうじゃなくて……」

順平は麻衣子の視線に気が付いて目を伏せた。

伸介もソファーに腰掛け、何かの決意に満ちた目つきで話し始めた。

「罪を犯して、それが発覚せずに、そしらぬ振りして平穏に暮らしていると、いつのまにか幸せがどんどんどんどん大きくなってしまっていました。
そしてそれが大きくなると、罪が発覚することがますます怖くなる。黙っていれば居るほど、怖くなるんです。先日、隆文が麻衣子ちゃんと結婚すると言い出したときに、そんなつもり積もった不安が、はじけてしまったようで」

すると隆文が父親伸介の言葉を引き継いで話し出した。

「僕も、以前から何処となく何かを感じていたんです。
麻衣子がいろいろと調べている中で、少しずつ感づいて。血縁関係が何所かで捩れてしまっているように思えて。
そして、もしかしたら、僕たち兄妹じゃないかと疑り始めて。それよりももっと、僕たちの出生が偽りじゃなかったのかと思うようになって。
そして今、当に、その罪を償わなければならない気がして」

そう言って隆文は麻衣子を振り向いて言葉を継いた。

「だから、結婚のこと、言い出せなかったんだ。僕たちは幸せになってはいけないんじゃないかと思って」

麻衣子も隆文との結婚に躊躇していたのは血縁の不安だけではなく、父親伸介の過去のことが不安だったからであった。

伸介と忠明は顔を見合わせ、そして春子殺害のことをこまめに語った。それによると、両親の栄治、アヤには内緒で二人で共謀し殺害したということなのである。

「私は、十年ほど海外におりましたので、まだ時効の三十年にはいたっておりません。これから自首しようと思います」

「ま、待ってください! 自首だなんて……いや……」

順平は形相を変えて突然立ち上がった。

「僕たちは警察じゃないんです。僕たちの任務は、昭和天皇のご意思に基づき、戦争で傷つき、苦労し悲しんだ国民の実情を昭和天皇の御霊にお伝えすることが使命なんです。
昭和天皇も皆さんと同じようにその苦しみや悲しみをかみ締めようと、この僕たちの部署を立ち上げて、調査をさせてきたんです。
決して犯罪を暴いたり、逮捕起訴して裁判に掛けることが目的ではないんです。苦しみや悲しみの中で立ち上がり、這い上がり、そして築き上げた幸せを、振り出しに戻すようなことは、僕たちには決して許されていない。そして出来ない。
あなたが起訴され、犯罪者として明るみに出れば多くの人たちの幸せが崩れるんですよ」

新山家の人たちは黙っていた。
そして美山も窓辺に立ち腕を組み順平を見守っていた。

「忠明さん、伸介さん、それだけあなた方は重い責任を背負ってしまっているんですよ。

今の幸せは、過去の人々や国家の間違いや、そこから生まれる苦しみと悲しみの上に成り立っているんです。
順法順法と言って法を善悪の判断基準にするなら、国家の指示で行われた戦争も正しい行いになってしまう。
それだけ罪を犯した責任が重いというのなら、その犯罪を作り出す要因を作ったのは、過去の悲しい歴史でしょ。
過去の国家の犯罪も断罪されるべきです。あの戦争を忘れて、今ある事実だけを揚げ連ねてそれを真実というなら、僕は! 僕は! 真実なんか知りたくない!」

順平は忠明と伸介に向かって言ったが、今度は隆文と麻衣子に向かって続けた。

「それにもまして、家族の繋がりを血縁に求めたり、その繋がりを辿って罰を下したりって、それこそ人種や血統、民族の違いで人に害を加える差別じゃないですか。麻衣子さん隆文さん、あなたたちがなぜ罪を償わなければならないんですか!」

新山家の人たちは黙り込んで順平を見つめた。

「あ、あなたたちは……」

隆文がそっと聞いてきた。美山は『皇宮調査室』のことを正直に答えた。
そして最後に付け加えたのである。

     *

その後順平と美山は、多摩にある新山栄治とアヤの住む都営住宅を訪れてみた。
その老夫婦に会うのではなく、ただその生活ぶりを陰から見守っただけであった。

朝七時には起き、朝食後、小さい犬を連れて二人で辺りを散歩する。
昼食後はその部屋はひっそりとなり、外から眺める窓は暗い。 

夕方には二人で買い物に出かけ、その後栄治が犬を散歩に連れて行く。
そして帰宅すると、部屋に明かりが灯る。そして夜九時には明かりが消える。

何の変哲もないただ時間を過ごすだけの生活であった。
煉獄の中に見つけたほんの小さな幸せの一角である。
順平にはそこがもはや善悪の判断すら超えた小さな浄土のように感じた。

     *

2Bに戻った順平は、恩田に報告を済ませると、報告書の作成に取り掛かった。

「時効まであと、半月だな」

恩田がPCに顔を向けながら呟くように言った。

「順平君、あと半月で出来る? 入力作業もいっぱい残っているのに。出来るの?」

順平はPCに向かって画面を見つめていたが、キーを打つはずの指は止まっていた。

「おい、梅沢。美山さんから聞いたぞ。みんなの前で、忠明さんや伸介さんが重い責任をおってしまっている、って言ったそうだな。迷っているんだろ」

順平は顔を上げ黙って恩田を見つめた。

「責任って、解るか?」

「え?」

順平は喉が振るえ、反応の短い声も出すのがやっとだった。

「人が、考え、思い、そして社会で行動する時、自ずとその人の中に湧き出すのが責任だ」

「順平君、ここ2Bやその連絡員たちの中には『責任感を持って仕事しろ』なんて責任を投げ出すような無責任な人はいないわ」

美山は鼻で笑った。

「『自己責任』? アホらしいわね。自己、己自身があるなら他人が集まる社会も同時にある。
だから自己を意識する人は責任を理解せずに投げ出そうとしているのよ。出来ないのに。
順平君、貴方が任された仕事、結果がどうであれ、最後までやって、何らかの答えをだして」

順平は唇を真一文字に締めて頷いた。

     *

それから丁度半月が経ち、順平の最初の仕事の報告書が完成した。

そして順平と美山はその報告書を携え、吹上大宮御所を訪れた。
何時ものように黒田が静かに丁寧に迎えてくれた。

「梅沢さん、どうですか。2Bのお仕事、慣れましたか」

「いえ。まだまだです。今回は、初めてでしたので、報告書作成もだいぶ遅れてしまいました。こちらが、内閣調査室分室、皇宮調査室、第二部第四百六十六号。新山栄治ケースです」

 黒田は柔和な笑顔を湛えながら報告書を目で追い丹念に読む。

「ありがとうございます。謹んで、拝受させていただきます。そうそう、警察庁の鬼塚様が気をもんでおられましたよ」

「はい。これから報告書を持って伺う予定です」

     *

 霞ヶ関の白い警視庁庁舎に入ったところで、受付で鬼塚を呼び出してもらうと、彼はすぐに降りてきた。そして二人は同じ階にある小さな談話室に通されるとそこで順平が報告書を渡した。

「おいおい、梅沢君。この前、すぐに報告書を提出できるって言ってから、半月だぜ」

「はい。初めてでしたので、少々手間取りました」

順平は敢えて表情を作らないように、鬼塚を見据えて答えた。
美山はそれを横からそっと見守る。鬼塚は報告書を読む途中で表情を変えていく。

満州の説明のページでは眉間に皺を寄せ、戦後の春子殺害のページになると下唇を噛む。
そして最後のページを読み終えると、報告書を閉じ、そして天井を見て考え込んだ。
順平には何かを数えているように感じたのである。

「ふん、時効か」

そう呟く鬼塚は鼻で笑っていた。

ところで宝田はというと、報告書を受け取り読み終えると財務省の執務室に戻り苦虫をかみ締めた。
財務大臣の思惑どおり、日銀の倉庫に眠る所謂、M資金が国家予算として組み込まれてしまうことに、歯止めをかけることが出来なくなってしまったからであった。


            〈新山栄治ケース・M資金 了〉 第4話へつづく


#創作大賞2023


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