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インペリアル・ディテクティブ 第1話


あらすじ
梅沢順平は厚生労働省から内閣調査室別室、通称セカンド・ビューロー(2B)に派遣されることになった。
順平は先輩の美山洋子に連れられて、報告書を提出するため吹上大宮御所へ向かう。その帰り、報告書の内容と昭和天皇勅定の2Bの歴史を知ることになる。
報告書の内容は、塩田貴子ケース。埼玉の公団住宅の一室で孤独死しているのが発見されるが、預金には三千万円も残っている。受取人を探すため、貴子の歴史を追った。夫は兵隊に取られビルマで戦死。子供を米三升と交換して飢えを凌ぎ、再婚後は事故で家族を失う。しかし、調べを続けるうち、戦死した夫は生き延びて、多くの家族を残していたのである。そして調査は続く。


プロローグ 


平成24年

厚生労働省年金局総務課の広い部屋の片隅で、梅沢順平は幸せな毎日を送っていた。
彼にとっては地方の大学を出て運よく有りついた職場で、昇進競争からもすでに外れ、諦めと言うより安堵の人生を送っていた。大きな仕事もなく、かといって書類に包まれる仕事は忙しい。

「梅沢!」

順平は課長に呼ばれた。
初めて課長から別室に呼ばれたのだった。

「梅沢、明日から出向してもらえないか」

「え! 相談も内示もなしに突然ですか?」

「そう。しばらくの間だよ。籍は今まで通りだよ。仕事場もそれほど遠いところじゃない。総理府、内閣調査室だよ」

「は、はい!」

梅沢順平は、厚生労働省に勤め始めて3年の25歳の若者である。

その彼がやっと慣れた厚労省の職場から内閣情報調査室への出向を命じられたときは、そのイメージから大抜擢の飛び級的昇進と思い、手のひら返しの二つ返事で承諾し、調査室への初出勤の日は新しいスーツを伸張して張り切って向かった。

もともと昇進に興味が無いというよりは、それを諦めてむしろ生活全体や人生に楽しみを感じたいと嘯いてきた。
ところが出向先が総理府内閣調査室であるなら、言い知れぬ緊張感と義務感を感じずにはいられなかった。

名誉である。でも、何か変な予感もした。

首相官邸の職員通用口の係員に名前を告げ、身分証や書類を見せると、門を潜れる。
その後建物への入り口で再び書類を見せ、手提鞄の中身をX線でチェックされ、体や着衣のセキュリティー・チェックも受け、やっと案内係りにたどり着ける。

「梅沢さま…」

案内係は電話をすると梅沢の名前を告げ、すぐに受話器を置いた。

「あちらのエレベーターで、地下八階になります」

――地下八階?

順平は一瞬裏切られたような気分になった。着任した日は、総理大臣とは言わないまでも、少なくとも補佐官辺りぐらいから「がんばってくれたまえ」と握手を求められるのではと思っていたのだが、地下八階であれば補佐官でさえいそうにない。  

長く重苦しい機械音に包まれながらドアの上の階数を表示する電光掲示板を見詰めた。
B2、B3と明かりがつかない。途中の階はなにかカードのような物を反応させないと止まらないらしい。

そして突然B8の階の明かりが点いてエレベーターが止まった。  

扉が開くとそこは廊下でもホールでもなく、一部の蛍光灯の光が目に強く感じるほど暗い、胞子を沈殿させたカビの気配を感じさせる倉庫のような場所であった。

順平は再びエレベーターが自動的に動き出して地上へ戻されてしまわないように、半ば条件反射でエレベーターを降りてしまった。

そして倉庫らしきその地下八階はやはり倉庫で、天井の広がり方がその広さを感じさせる。
高い天井に届くように幾つもの棚が列を作り、棚が並んで作る谷が暗い奥へと続いているのである。

そんな倉庫を見ると順平は初めて、自分が左遷されてきたのではないかと疑問を抱くようになった。
その静まり返った冷たい世界の一角で恐る恐る新しい展開を待ってみると、背後でエレベーターの扉が閉まり、重苦しい音を立てて地上へと登っていってしまった。

意を決し順平は自分から新しい展開を切り開こうと、棚の谷間を歩き始めた。左右の深い谷を数えながら奥へ進む。
時折無作為に谷に入ってみては、並んでいる資料の棚に書かれている文字を読んでみた。

『関東軍防疫給水部・人事』『北支那防疫給水部・人事』『中支那防疫給水部・人事』『南支那防疫給水部・人事』『南方軍防疫給水部・人事』

別の谷に入ってみると、

『鬼川原村 引揚者名簿』『奥尾山村 引揚者名簿』『三陸地震 猪牙郡被災者名簿』『明治東京地震 被災者名簿』

時代が半世紀から一世紀遡ってしまうような錯覚に陥る。

天井を見上げるように棚の峰々を眺めながら一歩一歩ゆっくりと歩いた。

そしてとうとう倉庫中央を突っ切る本流の奥の壁に突き当たろうとするところで左側の棚が終わり、そこにコンクリート・ブロックの壁で仕切られた四角い小部屋を見つけた。

壁に設えられた窓から本来の仕事場の明るい光が漏れている。

順平は誰かいるのだろうかと、その壁の奥にある入り口に向かった。
ドアの前に立つと中から、今までにないカビ以外の生物、明らかに人の気配がした。

順平はノックをして返事を待った。
待ったが返事がないので二回目のノックをした。
中からこちらを伺っているのか、と猜疑心が沸いてくる。

すると、

「開いてるよ」
と、中からけだるそうな声が返ってきた。

声に応じてドアのノブを回すと、パソコンのキーを打つ音が聞こえ、その方向、右手を見ると、二つ向かい合いに並んだ机の横にその二つを見張るように置かれた大きな机で、パソコンの画面に目を落としていた一人の男が顔を上げた。

薄いクリーム色の背広は活動的な印象を与えるが、服から露出している部分は高中年そのもので、髪を短く借り上げた姿は何処と無く昔の軍人を思わせた。

地下八階の陰鬱な場所で投げやりとも感じとれる声のかけられ方をされ、日の当たる所で考えていた希望がいっぺんに消え去ってしまった。

エレベーターで地獄に連れて来られてしまったような絶望感が沸いてくる。

それでも順平はここも人間社会の一部なのだと、気を取り直して自分から名乗ろうとしたが、その男に先を越されてしまった。

「うめざわ、じゅんぺい……徳井さんから聞いているよ」

「あ、はい」

突然名前を呼ばれて、それまで重ねてきた着任挨拶のイメージトレーニングが全て無に帰すと、自分が迷い込んでしまった陰鬱な世界に溺れ動転してしまった。

順平は彼の名前を呼んだ男に近づいて、その机の数歩手前で立ち止まると、

「あ、あのぉ、ここは……」順平は上手く言葉が出てこない。

そして質問を終えないうちに、

「通称、2B セカンド・ビューロー(第二執務室)。正式名称は、内閣調査室、特別室。別名、皇宮調査室。何と呼んでもいい」と意図を察して男が低い単調な声でしゃべり続ける。

「着任早々、挨拶なしかね」

「あ、いえ。すいません。はじめまして。梅沢順平です。内閣調査室……」

「まぁ、間借りしているってとこさ。俺の名は、恩田正二(おんだ しょうじ)。元防衛庁の事務官。君は厚生省だね」

「はい、いえ、厚生労働省です」

「まぁ、どっちでも好いことだ」

あと三年で定年を迎える恩田正二室長は、旧防衛庁の出身で、すでにこの部屋で三十年の月日を過ごしていた。
カビの原因を特定できたような印象を与える。

室長と言っても、前任の旧厚生省出身の係長が定年退職で去った後、自動的に係長に昇進、室長になったのである。

「あのぉ、早速ですが……」

順平はいろいろと聞いてみたいことが頭に浮かんだのだが、恩田に遮られてしまう。

「その席に座って」

恩田は順平の言葉を最後まで聞かずに答える。

「もうじき、この席の子が来るから、その子に聞いて。まぁ、最初は単なる入力作業だから。心配しなさんな」

順平は、この目の前の男には余り逆らわないほうが好いと思い、示された机に向かってみたが、特別という言葉が仕事内容を明確にさせてくれず、自分の未来を想像できない場所に来てしまったことに不安を覚え、椅子に座る姿勢も恐る恐るか渋々か、ぎこちない。 

黙ったまま鞄を机の隅に置き、普段のように装ってパソコンの電源を探して起動した。

事務所の場所を省みれば、明らかに左遷されてきたようなものであると確信を深め、それまでの上司徳井健一の笑い顔が目に浮かんだ。

パソコンの起動を待つ間黙っているのだが、恩田のことが気にかかり時折気づかれないように横目で見やる。

パソコンが起動すると画面は見慣れたウインドウズの画面なので、順平はそれまで厚生労働省で使っていたように、時間表示やキーボードの言語変換を調整し、彼自身の仕事用の画面に整えた。

電話が鳴った。すぐに順平が取ろうとすると、

「あ、いい。お前は暫く、電話は取るな!」

順平は手をやけどしたように引っ込めた。

「はい、昭和生命、恩田です……」と、恩田は順平に背を向けて会話を始めた。

順平は電話さえも取らせてもらえないのかと悲しくなってくる。

遠くから微かにエレベーターの動力音が聞こえてくると、今すぐにでもそのエレベーターに乗って逃げ出して、元の上司に掛け合って見ようかという衝動に駆られた。
すると部屋の外から倉庫の壁に響くヒールの音が聞こえてきた。何か別のもっと恐ろしい事実が目の前に迫ってくるように思えた。
ヒールの音が止まり、事務室のドアのノブが回った。

「恩田さん。おはようございます」

「ああ、おはよう」恩田は丁度受話器を置いたところだった。

「例の件、用意が整いました」

髪を短く刈り込んだ細身の女性で、淡いピンクの女性用スーツの下に白いブラウスが印象的な身なりをしている。

この倉庫の中ではカビの胞子も避けてしまいそうなほど華やかに見えた。
順平をあえて無視して恩田の前に進み出て会話を始める女の脇には藍色の風呂敷に包まれた書類箱のようなものがあった。

「そうか、じゃァ、彼と一緒に行ってきてくれないか。こちら梅沢君。梅沢順平。厚生省、厚生労働省から飛ばされてきた」

「まぁ……」

順平は初めて出てきた『飛ばされた』という言葉で先ほどからの予想が当たったと確信したのだが、女は全く驚くことなくただ愛想として笑顔を作っただけであった。

「梅沢。こちら美山洋子(みやま ようこ)。宮内庁から出向してきているんだ」

「あ、梅沢順平です。よろしくお願いします」

「美山です。じゃぁ、早速だけど、出かける用意をして。これから関係部署を回るから。まずは、順平君、あなたは宮内庁の本営に新任のご挨拶ね」

「宮内庁? あのぉ……美山さんは、宮内庁から左遷されてきたんですか」

「そうよ。左遷」

順平は恩田に、飛ばされてきたと言われて少々癪に障っていたので、当てつけて見ようと新しく現れた美山に、もっと明確な言葉を使って聞いてみた。
しかし当の美山はむしろ自慢げに『左遷』と言う言葉で返して来たのである。

「順平君、さ、用意して。行くわよ。その鞄、持って」

美山のはきはきとした言葉に釣られて順平はそれ以上左遷の理由を探ることを忘れ、慌てて椅子から立ち上がってしまうと、部屋を出て行く美山を追った。

美山の女性用の鞄を持って後を追うと、なぜか、かばん持ちにさせられてしまったようで情けなさを感じた。
もっと自分を主張しなければと思うのだが、すでに『順平君』と呼ばれてしまったことで降参しているのである。

美山は風呂敷包みを大事そうに抱えて先を急いだ。

     ******

二人は地下鉄九段下で降りると、靖国通りからすぐの田安門から北の丸公園に入った。
太陽の位置が高くなったせいで朝の出勤時よりかだいぶ暖かく感じた。

美山の足取りは女性にしては意外に速く、順平は着いていくのがやっとである。

公園内に入り、桜の花を見に来る観光客を掻き分けて進むと大きな建物、武道館が見えてきた。
その武道館を左に見ながら広い公園の道を、ゆっくり歩く散歩の人や観光客、ジョギングをする人をやり過ごして、どんどん奥へ入っていくのである。

「順平君。武道館ぐらいは来たことあるでしょ」

「あ、いえ。初めてです」

美山は駐車場の裏を抜け、だんだんと樹木の茂るほうへと向かっていく。

「順平君。これからは普段、日の目を見ることがなくなるから、こんなときに確りと太陽を浴びて、森林浴もしておきなさい」

順平は春の気持ちよさを感じていただけに、このまま美山にどこか知らないもっと恐ろしいところへ連れて行かれるのではないかと訝った。

「あのぉ、これは、どこへ行くんですか」

「乾門(いぬいもん)。吹上大宮御所の裏口よ」と、美山は歩みを緩めず頭だけで振り返って順平に笑顔を投げかけた。

「吹上大宮御所。今は使われていないわ」

「え?」

吹上大宮御所と言われても順平にはぴんと来ず、何も感じることができずに無表情を装った。

工芸館前の交差点を渡ると、広い袋小路の先に古式ゆかしい大きな門が見えてきた。
左右に小さな屋根を従えながら正面中央に大きな屋根を掲げ、その下にこげ茶色の木で組まれた観音開きの大きな扉がある。

右側の一つが少しだけ開いていて奥の雑木林が見て取れた。

その乾門の前には数人の護衛官が立っている。

順平が追いかける美山は幅広の道をわざと左に詰めて木立の下を歩き、二人が番小屋の手前五メートルほどまで近づくと、一人の護衛官が寄って来た。
美山はそれを気にせずどんどん進む。

そして彼女と護衛官がすぐ肉眼で顔を識別できる距離に近づくと、美山がスーツの内ポケットから定期入れのようなものを取り出した。
それをまるで刑事のように護衛官に見せると、一言二言会話を交わして、後ろの順平を視線で示した。
彼らは道を開け、番小屋の後ろに並べられた木製の格子の柵をずらした。そ

うして美山が番小屋を通り過ぎると、護衛官は右手で敬礼して二人を見送った。

乾門を通り過ぎると、今までの喧騒が嘘のように感じられ、美山も歩みを緩めた。綺麗に整備された公園のような道を歩き続ける。
やっと話しかける余裕の生まれた順平は、まだ朝からの不思議な世界が信じられずにきょろきょろと辺りを見回しながら、美山に聞いてみた。

「あのぉ、ここは皇居ですよね」

「順平君。ここは吹上御苑って言うの。皇居の西側半分。その中央の吹上御所は、今の天皇陛下のお住まい。そして、その手前、これから行く、吹上大宮御所は、昔昭和天皇がお住まいとしてお使いになられていた所よ。
崩御なさられた後は、皇太后さまが続けてお住まいになられていたけれど、皇太后さま崩御の平成十二年以降は使われていないの」

「え」

「今日はね、私が調べたケースの報告書を提出しに来たのよ。その後、そこであなたの身分証を受け取ったら、後で仕事の内容を説明するわ」

順平は仕事の内容を教えてもらえると言うことで、一旦は納得したのだが、もしかしたらあの暗い地下六階の倉庫の隅っこでパソコンを睨んでの入力作業なのかと想像するとやるせない。
それとも畏れ多くも宮内庁に届ける重要な報告書の作成をするのだろうかと、狐に抓まれた気分ながら美山に従ってついていく。

乾壕を左手に見ながら、なお整備された林の中の緩い坂道を登ると近代的な建物が木々の間に見えて来た。
その建物の大きさからするとやけに小さく見える玄関の前に、黒い背広を着た男の人が立っているのが見えた。

会話が出来るほどに近づくと、

「美山様、お待ちしておりました」と、丁寧にお辞儀をする男は老齢に見えるが背筋が確りと伸びた人で実際より若々しく見えるが、髪は白髪に黒髪が混ざっている。
その老人はやさしそうな笑顔を向けて二人を玄関のほうへ丁寧な手招きで案内する。

「お久しぶりです。黒田様」

「はじめまして。梅沢順平です」

順平は自分なりの精一杯の丁寧さでもって美山の後ろからお辞儀をすると、黒田は順平の言葉に振り向いて軽く頭を下げた。

「梅沢様、お待ちしておりました」
と、言って二人を先導して玄関を入り、すぐ横の控え室に招き入れた。

黒田は二人を控え室に通すと、またお辞儀をして出て行った。
控え室は今までの順平にとっては柔道場か剣道場のように思える広い部屋で、そんな大きな部屋の中央に、体を伸ばしても反対側へ届きそうにもないほど大きなテーブルが置かれている。
椅子は座面も背もたれも肘掛も刺繍の施されたビロードで覆われていて、引くにも重たいくらい重厚である。

二人はそんな椅子に入り口に向かって並んで腰掛けると、美山は風呂敷包みをテーブルの上に置き、横に座る順平を向いて話しかけた。

「あの黒田さんは、これからの仕事の力になってくれる方よ。昭和天皇にお仕えしてきた方で、今でも私たちと殿下の間を取り持ってくれているの」

順平は自分が勘違いの夢を見ている錯覚に陥り、控え室の広さも手伝って気が遠くなる。
美山は解いた風呂敷を丁寧に折り畳み右手の机の上に置いた。

しばらくすると、再び黒田も木製の箱を持って戻ってきた。黒田が大きなテーブルを挟んで二人の正面に立つと、美山も立ち上がった。
順平は美山の真似をするしかない。

「ではあらためて、美山様、お待ちしておりました」

「黒田様。いつもご協力ありがとうございます。今日も、いつもの報告書をお持ちいたしました」

「ありがとうございます。どうぞおかけください」

黒田は二人が腰掛けるのを確認して、自分も椅子に座った。

「こちらが、報告書。内閣調査室分室、皇宮調査室、第二部第四百六十五号。塩田貴子(しおた たかこ)ケースでございます」

美山はそう言って黒い漆塗りの木箱をテーブルの中央に差し出した。

――なんの報告書なのだろう?

順平はその内容が気になった。

「謹んで、拝受させていただきます」

黒田はテーブルに額が着かんばかりに頭を下げる。
そして腰を上げて箱を引き取ると自分の左脇に置きなおし、今持って来て右に置いた木箱をテーブルの中央に差し出した。

「では、こちらが、梅沢順平様の身分証、それと受領書類です」

美山が腰を上げてそれを引き寄せると、目の前で蓋を開けた。
そして中から小さな紙片を取り出し、次に三枚ほどに綴られたA4の大きさの書類を二冊取り出すと、順平の前に差し出した。

「順平君、こちらにサインと拇印を」

美山が小声で順平に説明した。

順平は書類を一瞥し、それほど内容を良く把握できはしなかったのだが、取りあえず背広の内ポケットから万年筆を取り出してサインをした。
そして美山が差し出す朱肉用の黒い小箱を開け、その黒いインクを右手の親指に着けると、自分のサインから少しずらすようにして拇印を押した。
三枚綴りの一枚一枚、合計六枚にサインをし拇印を押す。

すると美山がそれを確認し、サインした一冊と共に順平に指し出し、同時には小さなカードが置かれた。
そしてサインしたもう一冊を箱に戻すと再びテーブルの中央に差し戻した。

順平が受け取ったカードは、運転免許証のようにプラスチックでコーティングがされており、すでに自分の写真が貼られていた。
そしてその写真のすぐ下に、金色の菊の紋が入っているのである。

「梅沢様、これから、どうかよろしくお願いいたします」

黒田は再び深く頭を下げた。

「は、はい。こちらこそ。よろしくお願いいたします」


ファイル1  塩田貴子ケース・米三升


吹上大宮御所を出た二人はゆっくりと乾門に向かって小道を歩いた。美山は来た時とは違って春の陽気を楽しむようにゆっくりと気持ちよさそうに歩く。

「順平君。さっきの報告書、塩田貴子ケースなんだけどね」

順平は本営に提出された報告書の内容の話が始まったと思い耳を欹て、隣を歩く美山を振り向きながら唇を追いかけた。

「家庭裁判所から法務省経由できた仕事だったの」

「法務省?」

「塩田貴子が亡くなったのは昨年。八十一歳だった。
生まれは昭和五年。死因は衰弱死、というより餓死ね。埼玉の県営アパートの一室で、一人で死んでいたの。警察の調べで事件性は全く無かったんだけど、預金が三千万円もあることが解ったのよ。その上身寄りは全くなし」

「え、そんなに財産を持っていながら、餓死ですか」

「いいえ、毎月少しずつ預金を下ろしては食いつないでいたみたいね。それに少ないながらも年金も貰っていたわ」

「じゃァ、何で?」

     *

塩田貴子の生まれは昭和五年。福岡県生まれ。旧姓柳田。

博多で育った貴子は昭和十八年、同じ福岡県出身の大内義之(おおうち よしゆき)と結婚し、長男義一(よしかず)を出産。
その後すぐに出征した義之は南方で戦死。半年後貴子は博多で終戦を迎えた。

その終戦の翌年、昭和二十一年一月、息子の義一が亡くなった。

その後、どうにか生き延びた貴子は、塩田栄治(しおた えいじ)と再婚。

栄治の伝を頼りに東京へ出てきた。昭和二十七年、移り住んだ東京板橋で再び男児を出産。卓也(たくや)と名づけられた。

しばらくは平凡な日々を送ることが出来たが、昭和四十年、卓也を交通事故で亡くす。
そして三年後には工事現場の事故で夫栄治も亡くす。

その後貴子は、再婚はせず一人で埼玉の製茶工場に勤め、定年後も一人で暮らし続けた。

十年ほど前から足腰を患い病院に通っていた。

ある日、出かけようとしたのであろう、立ち上がりざま、倒れ、そのまま動くことも出来ず、助けを呼ぶことも出来ず、そのまま息絶え、二日後に診療に行くはずだった診療所が不審に思い通報し発見された。
警察によって衰弱死と断定された。
卓也と栄治の死亡保険金、自分の退職金はほとんど手付かずで、こつこつ貯めた給料も合わせると、預金額は三千万。

ただし相続人が見つからなかったのである。

通常相続人がいない場合の財産は、家庭裁判所が一定期間公示をし、誰も現れない場合は国庫に帰属される。

ところが今回、法務省の一人の男が偶然にもそれを目にし、貴子の経歴の中で、最初の子義一に注目したのであった。
戸籍の上では死亡となっているが、昭和二十一年のことで、本当に死んだのかどうか疑問に思った法務省のその男は、義一の行方、または死亡の確認をするよう、2Bに要請してきたのである。

そこで美山が担当することになり義一を追いかけ始めたのであった。

     *

美山はまず初めに、貴子が生まれ育ち、義一が亡くなるまで住んでいた福岡へ向かった。

実際、調べてみると、死亡診断書を書いた宮田啓介(みやた けいすけ)という医師は無届の医師で、後に摘発され裁判で有罪になっていた。
そうするとその死亡診断書が信用できなくなる。偽医者がすべての診断で偽るとは限らない。
診断が医学上正しくとも、それを判断する資格を偽っているのである。
なぜ死亡診断書が必要だったのか、と考え、幾つか仮説を立ててみた。

義一が死んだとしたら、なぜ無届の医師に診断書を頼んだのか。
医師と偽っても通常の診断料を貰っていれば一般に人にはなかなか見破りづらい。死亡後通常どおりに事を運ぶ事は出来なかったのであろうか。
それとも偽医者と知らなかったのか。

当時は日本中が貧困にあえいでいた。そんな時代にあえて偽医者に頼むなら、法外な代金を要求されてもおかしくない。むしろ子供を何所か目立つところにそっと置き去りにしたほうが無難である。
もし仮に貴子が子供を育てられずに殺し、それを隠蔽するために頼んだとしても、お金は掛かる。

時代背景からしても、普通は何所かに遺棄するであろう。

そこで、死亡診断書は偽物で、もしかしたら義一は死んでいないという仮説を立てて探し始めたのであった。

美山はその診断書を書いた偽医師に会ってみれば何かが解るかもしれないと思い、法務局を介して宮田啓介の住所を割り出した。
しかしその博多の住所のところへ行くと、すでに宮田は病死していた。

ただその妻が生きており、当時の書類があるかどうかを聞いたところ、田宮の日記が出てきたのである。
その日記の中の、昭和二十一年一月、義一死亡の前後の頃を読み返してみた。すると、

『百瀬隆三(ももせ りゅうぞう)。米一俵。診断書 内 三升と幼児』

と書かれたページを見つけた。

文章にはなっておらず、メモ書きされたようであった。

そこで百瀬隆三が何かの鍵を握っていると思い、今度はその男を探してみることにした。

博多の市役所では2Bの身分証の菊の紋は通用しない。
厚生労働省の室長であった川端恒彦を通して年金記録から調べてもらった。

すると百瀬隆三の身元はすぐに判明した。

博多市のA町では比較的有名で、戦前から軍部と取引があり屋敷を構えるほどの裕福な家柄であった。

ただ住所は突き止めたものの、すでに隆三も、その妻芳子も亡くなっており、屋敷自体もすでに取り壊され土地も切り売りされていたのである。

当時のことを知る人は居ないかと、その屋敷跡の近所を聞いて回ってみた。

そうして数日間かけて徹底的に百瀬家の関係者を探し回っていると、終戦前から百瀬家に奉公していた垣内(かきうち)キエという老婆を紹介され、話を聞くことができたのであった。

小さい頃から百瀬家に奉公に出され、子守と遊び相手として家に住んでいたということであった。

「坊ちゃまは、突然やってきた。奥様は養子にされたのだと言っておった」

最早表情を変えることが難しくなってしまった顔のキエは時折皺の向きだけを変えて淡々と語った。

「どこかの、お医者様から貰われてきたらしい」

美山はそのお医者様が宮田だと察した。

当時子供に恵まれなかった百瀬隆三、芳子(よしこ)夫妻は養子に出来る子供を捜していたと言うことであった。

美山が百瀬家の戸籍を調べてみると、その二人が養子として迎え入れた息子の良太(りょうた)の出生年月日が、義一の出生年月日と同じで、尚且つ養子に迎え入れた日付が義一の死亡日と同じなのである。

良太出生証明も宮田が作成していた。
その偽出生証明の親子は架空の人物らしく、全く繋がりのある人物は見つからなかった。

そこで、美山は百瀬家の養子良太を探し始めたのであった。

ただ良太も博多に住所を持っていたが、すでに癌で亡くなっていた。
しかしその良太の息子、貴子にとって見れば血縁上は孫に当る百瀬新(しん)は生きていたのである。

     *

「え、じゃぁ、その百瀬新って言う人が、貴子さんの遺産を相続するんですか!」

「順平君、話はまだ終わりじゃないの。その百瀬新、私たち以外に探している人たちがいたの」

「え?」

「大阪府警」

「え?」

順平は新たな展開に息を呑んだ。

「新は振り込め詐欺団の大ボスよ。全国指名手配中。大阪府警で彼の遺留物と貴子のDNAを鑑定したら、ばっちりよ。時間はどんどん流れて、解明できなくなくなる事が多くなるけど、でも科学は進歩するわ」

「え、じゃぁ、その三千万、詐欺団のボスに渡るんですか!?」

 順平の歩みが止まり、美山はそれを振り返った。

「順平君、どう思う」

美山は、声を出すのをこらえながら笑って口を半分開けた順平を見つめた。

「いやぁ、癪だなぁ。だって振り込め詐欺って、お年寄りを狙って大金を掠め取っているんでしょ。濡れ手に粟じゃないですか」

「ハハハハ、そうね。お金は欲しいわね。貧乏人はそう考えるのかも。でももし新が名乗り出てきたら、捕まるわ。最高で十年以下の懲役。どっちが得かしら」

順平は知らずに首を傾げてしまっている。

「じゃぁ、国庫に?」

「そう甘くないわ。話はまだ続きがあるの」

     *

そこで美山は次に、戦死したとされる大内義之の行方を追うことにした。
義一が生きていたなら、もしかしたら義之も生きているかもしれない。
美山はそれまでの仕事経験からどんでん返しを期待したのであった。

美山は東京の2Bに戻り、倉庫にある旧日本陸軍の資料を丹念に調べた。
福岡で召集され、どの部隊に配属され、何所に派兵され、何所に転戦したか……そうした調べは2Bにとっては朝飯前で、義之は徴兵された後、その配属先から、ビルマ戦線で『ウ号作戦』に参加していたことが分かったのである。

『ウ号作戦』とは太平洋戦争中の日本軍側の呼び名で、一般にはインパール作戦と呼ばれている。
太平洋戦争当時、今日のインド、ミャンマーとバングラディッシュに挟まれたマニブル、ナガランド、アッサム地方で行われた作戦で、連合軍の中国への補給路を断つためにイギリス軍の拠点を攻撃した日本軍の作戦である。

一九四四年、昭和一九年三月、ビルマから進軍した日本軍はヒコマを占領、イギリス軍の要衝インパールを目指した。しかし三ヶ月に及ぶ攻防の末、大敗した日本軍は、ヒコマを撤退する。

義之はそのヒコマで戦死したとされているのである。
美山はその戦死を確認しようと、外務省を通じ、まずヒコマに入った。

     *

「え、インドまで行ったんですか?」
順平は驚いた。

もし自分も行くことになったらどうしようと期待と不安に包まれる。
ハワイや香港に行くのとはわけが違うのである。

「そうよ。もし義之が生きていたら、どうする?」

「どうするって、死んだって知らされたなら、死んだんじゃないんですか」

「そお? だって、戦場でその生死消息が不明なら、戦死の方が兵隊の家族にとっては恩給や手当てがもらえるから、その方がいいかもしれないじゃない。仲間が戦場で瀕死の仲間を置いて逃げるとき、どうする?」

順平は美山の言葉に答えを探したが見つからない。

「もし、仮に、今の自衛隊の隊員が、イラクなんかで、敵に襲われて逃げたとして、逃げ切れなかった人は、全部戦死? もしかしたら、敵の捕虜になって生きているかもしれないし、そしたら、いつか帰ってくるかもしれない。もし、もし、それが脱走していたり、作戦中に逃亡していたとしたら、どうする? そういう隊員の家族にも、名誉を与えて保障をするの?」

「え!」

順平は言葉を捜すのを止め美山が続けてくれることを待った。

「生命保険の会社だって、被保険者が条件に合った死に方をしたか確認して初めて保険金を支払うでしょ。それと同じよ。
行方が解らないから、復員して家族に伝えるとき、家族のことを思って出来るだけ保障を受けられるように、戦死と報告するんじゃない? 
何時までも帰りを待ち続け影膳を据えたりする人もいるだろうけど、諦めて気持ちを入れ替えて新しい生活を模索する人もいる。」

二人の間に沈黙が流れ歩く足音だけが耳に残る。順平は「死亡」という言葉の意味を改めて考えながら、そして恐る恐る聞いてみた。

「で、生きていたんですか」

「ばっちりよ。この仕事、10年もやっていれば、感が働くようになるわ」

     *

義之の所属していた部隊は日本軍がヒコマから撤退する際、イギリス軍の攻撃を受けてジャングルの中にさ迷いこんだ。
義之は負傷していたのだが、そのまま彼が息絶える前に、部隊の仲間はイギリス軍に最後の攻撃を仕掛けた。
残された義之は、現地のイギリスから独立を目指すインド人たちに保護され、傷を癒し、そこで暮らすようになったのだった。

     *

「ヒコマ、インパールと回って、結局、ディマブルという町で、OUCHIという名前を出して聞いていたら、いっぱい知っている人が居たのよ!」

「え、有名人?」

「そうじゃないの。命が助かった義之は現地の人と結婚して、子供を五人もうけたわ。そしてその子供たち、孫ね。いっぱいよ。義之のことはその長男と長女に聞いたわ」

義之自身は昭和39年、1964年に病没していたのである。

「え、じゃぁ、じゃぁ、あの三千万……どうなるんですか」

「まぁ、個人的な心情としては、インドの子供たちにあげたいわね。
でもね、これは法務省と家庭裁判所の判断に任せるしかないわ。
特に、日本に伝があると解れば、その子孫が日本への定住を求めてくることもあるわね。

私たちの仕事はね、そうして歴史の影に隠れてしまった細部を事細かく調べて報告することなの」

「そうか、ところで、貴子は戦後どのような保障を受けていたんですか。受けていたとすれば、それは詐欺罪?」

「死亡や戦死宣告は、当時の復員省が出したのよ。それにもう時効よ。貴子本人は死んだと思っていたんだから」

二人は乾門にたどり着くと丁度護衛官が交代するところであった。
その一部始終を見守ってから、門に近づくと一人の護衛官が声をかけてきた。

「お久振りですね。美山さん」

「あら、熊さん。お元気そうね」

「こちらは?」

「彼が新任の梅沢順平君。よろしくね。こちら球磨川さん」

「よろしくお願いします」

順平君が挨拶すると、球磨川は敬礼で挨拶を返した。

「ところで、美山さん……」

球磨川はすこし照れた表情で話しかけようとした。

「今、勤務中でしょ」

美山は球磨川の話をさえぎった。

「あ、ハイ!」

「今度非番の時にでも、この順平君と一緒に、お食事しながらお話ししましょ。色々聞かせてあげてよ。2Bのこと。じゃァね」

再び球磨川が背筋を伸ばして敬礼した。広い静かな通りを抜けると、交差点を渡って元来た道を九段下まで向かう。

「あのぉ、これからどちらへ?」

「法務省よ。法務省の2B連絡員の赤岩さんを紹介するわ」

     *

2B調査員は地下鉄など公共施設やレストラン、バーなど人の多く集まる場所で仕事の話はしない。常に一般市民のプライバシーに関わっているため、些細なことでも漏れてはいけないからである。

時には調査を進める上で犯罪者と関わりを持ってしまうこともある。
その周囲の人たちはたいてい過去を語りたがらない。
そして彼らは一様に過去を探られたくない状況に置かれている場合が多い。

地下鉄桜田門で降りた二人は出口に登り出るとすぐに、赤いレンガで目立つ古い洋式の建物を目指す。

敷地入り口の円筒状の番小屋のあるそこは法務省である。

受付で赤岩氏に取次を願い出ると二人は控え室に通された。
平成においても明治時代の雰囲気を残す内装は、向かいの新しい建築の警視庁とはだいぶ趣が違い、タイムマシンで一時代を遡ってしまった雰囲気を醸し出している。
控え室の窓から差し込む光は、風に乗らない強い光線になって部屋を熱くしていた。

美山は椅子に腰掛けてテーブルに書類を置くと、ゆっくりと落ち着いて順平に話しかけた。

「報告書は三つ。一冊は陛下に。いえ、正確には昭和天皇の書斎に。もう一冊は2B連絡員の依頼主に、最後の一冊は、2B地下資料庫に保存されるわ」

「今回の依頼主は法務省ですね」

「ね、順平君、あなた歴史は得意?」

美山は突然話題を変えた。

「え、まぁ、大学受験で日本史を選択していました」

「じゃぁ、太平洋戦争の終わった年は?」

美山の目が意地悪そうな目つきになった。

「え、確か、そうだ大学受験ではそこら辺の年代は出題されないんですよね」

「知らないの!」

「ええと……」

「1945年、昭和20年。8月15日」

順平は顔を伏せて頭を掻く。

「西暦と和暦の換算の仕方も覚えないとね。それと戦前一般に使われていた度量単位。
さっきの話の中で、米一俵、三升ってどれくらいだか解る?」

「はぁ、一升はお酒の一升瓶から想像できますね」

「調査で話を聞くとき、そういう単位を使って語られることがほとんどよ。後で覚えないとね」

「あのぉ、なんで、こんな仕事が……」

順平は2Bの存在理由が知りたかった。

「だから、終戦の年、昭和20年。
終戦と同時に陸軍省と海軍省はそれぞれ第一第二の復員省となって、当時兵隊の復員や解体された軍隊の処理をすることになったの。
そして民間人に関しては厚生省が行ってきたのよ。

終戦当時、昭和二十年、中国大陸から東南アジア、太平洋の島々には兵隊民間人、合わせて七百万人もいたのよ。
そうして時代が進むに連れて、その時の三省が後に統合され、厚生省から総理府に移り、復員引き上げ業務の書類は厚生省が保管。

調査業務は地下に移され、2B(セカンド・ビューロー)と呼ばれるようになったのよ」

「あ、でも調査が本来の業務なんですか?」

順平は想像もしたことが無い状況に言葉が見つからない。

「戦前、戦中、戦後を通した日本国内で、また当時の満州や中国奥地で、東南アジアで、太平洋の島々で、起こった事を調べ、その人がその人であると言うことを証明する。
生きている人が本当に生きていて、死んだ人が本当に死んだことを、証明するの。時には死んだ人を生き返らせて、生きている人を死なすの。
それが私たちの仕事よ」

美山の終わりの言葉は笑っていた。

「こんな仕事、誰がやるの? 警察? 彼らは民事不介入。刑事事件にならないと動かないわ。
裁判所? 民事だとしたら誰かが訴えを起こさないとね。
じゃぁ弁護士? 誰が依頼するの? 小さな人々の小さな歴史なんて、すでに決められてしまっているのよ。

そんな小さな決められてしまった歴史をひっくり返して何の意味があるの? 

弁護士は法の下で動くだけ。
じゃぁ探偵? 彼らが無報酬で働くかしら。どれだけ捜査の権限があるのかしら。

テレビ・ドラマのような探偵なんているわけ無いじゃない。みんな殺人事件を追うのよ。殺人に心を躍らせるのよ。

法律は正義と称されて、そして法は法によって決められたことを法として処理して歴史化するだけよ」

控え室のドアが開いて初老の男が入ってきた。ねずみ色のスーツにちょっと栄養不足の身を包んだごくごく普通の、定年を夢見ているような六十代半ばほどの男に見える。

「いやぁ、お待たせしました」

柔和な顔つきと落ち着いたしゃべり方は年輪を感じさせる。

二人も立ち上がって挨拶をした。

「赤岩さん、お久しぶりです」

「いやぁ、ありがとう。お手数お掛けしたね」

「こちらが報告書です」

美山は順平がテーブルの上に置いていた鞄を取って中から一冊の書類を取り出し赤岩に差し出した。

それを受け取った赤岩はすぐに目を落として、左手で座るように合図をしながら、自分も二人の正面に座った。

そうとう心待ちにしていた報告書のようであった。

赤岩がその「塩田貴子ケース」を読む間、静かな時間が流れる。

そして書類から目を上げると同時に笑顔を作って美山を見詰めた。

「いやいやいや、やっぱり生きておったか。いやいや、死んでおったんだな」

と感嘆しまた読み続ける。

そして時折驚きの言葉を発しながら、目は書類から離さない。

美山は赤岩から視線を外し窓の外を眺めている。
順平は赤岩の表情から塩田貴子への彼の感情を読み取ろうとしてみた。

赤岩が顔を上げた。

「今の日本は血縁を重んじるからね。孤児院から子供を引き取って育てても、ある日、その子供を捨てた親が現れて、養父に集るっていうこともよくある。
子供を捨てたりする親でも、血が繋がっていれば親になっちゃうんだよね」

と赤岩は二人を見て言うと突然携帯を取り出して電話をかけ始めた。

「あ、もしもし、僕、そう」

相手が誰だかは解らないが、順平は家庭裁判所の関係者だと察しがついた。

「あの件ね、僕の思い過ごしだったみたい。そう……」

塩田貴子の件を言っているのであろう。

「すみませんでしたね。じゃぁ、普通に手続きを進めてください。よろしく」

赤岩は携帯を背広の内ポケットにしまうと、美山を一瞥してから順平に顔を向けた。

「あぁ、ご挨拶が遅れましたね。新しい方? 僕、赤岩です」

「はい、梅沢順平と申します」

「そう、じゃ、これから、よろしく頼むね。恩田さんは元気?」

と赤岩は美山に視線を向けた。

「はい、今、日露戦争の真っ只中ですわ」

「ハハハ、でも、数年前の戊辰戦争よりは楽じゃないの」

「あれは、半ば趣味みたいなものでしたから」

なぜ赤岩は役職を言わないだろうと順平は不思議に思ったその時、控え室のドアが開いて女性が入ってきた。

「局長、あのぉ……」

「あ、今行く。これ、シュレッダーにかけて。じゃぁ、美山さん、梅沢さん、僕はこれで失礼します。ごめんなさいね。また近いうち、お食事でも」

赤岩は書類を女性に渡し、立ち上がりながら二人を振り向いて挨拶を残すと控え室を出て行った。美山は軽く頭を下げると、順平もその役職を気にして改めて深く頭を下げた。

     *

法務省を出た二人は2Bの資料室へ戻った。

「おお、どうだった。身分証、貰ってきたか」

恩田は何かの資料を読んでいた。

「はい、でも……」

「余り人に見せるなよ。菊のご紋なんて、今時誰も知らないどころか、おもちゃに間違われるからな」

美山は2Bに帰ると真っ先に、三冊目の書類を大きな茶封筒に入れ、普通に封をし、封蝋を垂らすと印章を力強く押し付けた。
菊の紋の封蝋である。

そして順平について来るように促し、事務室資料棚の谷に出て行った。
その朝、順平が通ってきた倉庫のもっと奥に行くと、まだ資料の置かれていない空の棚が現れた。

棚は一番新しい書類で資料の波を終へ、次の書類が来るのを待っているようである。
美山はその封筒を最後の列に並べた。

「あの、この封蝋された書類、全部、今日聞いたようなケースの調査報告なんですか」

「そうよ」

「もしかして、これって、現代の今昔物語……ですかね?」

「昭和天皇勅願の物語集ってところかしら」

美山は順平を振り返ってニコリと笑うと、今度は棚を二つやり過ごした谷に入っていく。

「順平君、このダンボール箱、持って」

「はい」

「それが、今日からのお仕事。入力作業よ」

「え、こんなに」

「それ一つじゃないわ」

美山は棚に詰め込まれた段ボール箱を仰ぎ見た。

     *

美山の指導ではじめたコンピューターへの入力作業は、いたって簡単で単純なのであるが、一時間もやると飽きてくる。
そして時計が気になる。
恩田は一向に画面を見詰めたままキーボードを叩き、美山は机の上の書類を一枚一枚読んでいる。

順平は打ち込む書類を眺めながら、そこに出てくる和暦を見、その日聞いた塩田貴子のことを思い出していた。

「あのぉ、あの人……」

順平は美山に視線を向けた。

「赤岩さん?」

 彼女も目を上げて聞き返す。

「いえ、あの報告書の、塩田貴子って人ですけどね、幸せだったのでしょうか?」

「順平君はどう思う?」

「いえ、僕は、僕は、自分のことと比べて考えることしか出来ないから、やっぱり不幸だったのかな、って思いますけど」

「あなたは幸せなの?」

「え、ええ、まぁ、まぁ……」

「今朝、左遷されたってことが解って、不幸のどん底に突き落とされたんじゃない?」

「ま、まぁ、でも、今でも、思っていますけど。あの塩田貴子は、最初の夫を失って、二人目の夫も失って、子供も失って、最後は孤独死。結局三千万もの預金を持っていながら、使えずに、国に没収されて」

恩田はキーボードの手を休め、画面を見ながら右手を顎に当て、そっと順平の話を聞いている。

「宮田が日記に書いていた、米一俵。診断書 内 三升と幼児、この三升ってどういう意味だと思う」

「宮田が百瀬から米を一俵貰い、貴子に米三升をあげて、子供を買ったんですかね」

「たぶんね。子供を売った貴子をどう思う?」

「え、そりゃァ、人身売買? 幼児虐待? とか、でも、今は自分の子供を殺す母親もいるしなぁ……」

「貴子は最善の道を選んだのよ。もしあのままだったら、貴子も子供も死んでいたでしょうね。そこへ救世主、百瀬夫妻が現れ、宮田を介して貴子の子供を買った。貴子にとっては子供も自分も助かる道が開けたのよ。あの時は昭和。昭和21年。今は平成。
社会の状況も変わるわ」

「まぁ、そうでしょうけど……」

 順平が答えに迷っていると恩田がそっと口を挟んだ。

「三千万円も、米三升も、どっちも幸せになるための一つの手段でしかないよな。三千万円で幸せになれない人もいれば、米三升で幸せになるきっかけを掴んだ人もいる」

「順平君、あなた、何が善くって何が悪いか、とか、どんなのが幸せで、何が不幸なのか、はっきり解っている?」

「え? そりゃぁ、子供を売るのは悪いことですけど、あの時は仕方が無かった、とでも言うんでしょうかね」

「なんで、子供を売るのが悪いの?」

「そりゃぁ、今は法で禁止されているじゃないですか! 昔だったら、女の子を女郎に売り飛ばすとか有っただろうけど、今は禁止されて、人を金で売り買いしたり、殺したりって、悪いことに決まっているんですよ」

「じゃ、あなたは、法が正しく、法によって人を殺すことが決められたら、喜んでそれを正しいと言って、人を殺すの?」

「え?」

「独裁政権の下、人種差別を肯定して法制化して、一部の人たちを集めて虐殺したり……そんなこともあったわね。
法は善悪の判断基準にはならないのよ。

善悪は常に一人ひとりが、その人の判断でしなければならないのよ。自分で感じて自分で考えて判断するのよ。

それが社会における人間の責任よ。

それを放棄して、法に判断を委ねるのは、自分で考えることをしなくなった卑怯者のすることよ」

恩田が顔を上げて少し熱くなってきた美山を一瞥し話し出した。

「まぁな、幸せもそうだろうね。何が幸せで何が不幸か……自分の基準があるはずだろ。
それが解らないから、何かの基準が欲しくて、テレビやネットで謳われることを真似するのさ。
自分が幸せなのかどうか、確かめたいのさ。何かのお墨付きが欲しいって奴だな。ふん。
ところがあっちにもこっちにもいろんな基準が出てきて、今じゃ、それが数ヶ月で変わっちまう。
で、もっともっと幸せに、と限りが無い。いつまでたっても満足できない。そうして自分を失っていくんだ」

順平は黙ってしまった。

「順平君、今日あなたがサインした書類の三枚目、最後の項を読んでみなさい」

順平は背広の内ポケットから折りたたんだ今朝の書類を取り出して広げ、そして三枚目を捲って最後の項に目をおとした。

『真理は国民一人ひとりの中にあり。朕は真実を見極めることを欲するも、公開隠匿の判断は常に国民の幸福を優先すべし』

「真実が解ったとしても、公にすることは、その人の幸福を尊重した上で行え、と言っているのよ」

「隠匿? なんで?」

「私たちは法によって制限された刑事でも探偵でも弁護士でもないわ」

美山がそう締めると恩田が呟くように続けた。

「幸せか不幸せか……善か悪か……その真実は、その人その人の行動の理由にあるんじゃないか」


昭和20年、1945年、太平洋戦争終結と同時に陸軍および海軍は解体され、戦地外地に残っている日本人の兵員の帰還を旧陸軍が第一復員省として管理し、旧海軍が第二復員省として管理、民間人の引き揚げに関しては厚生省が管理してきた。

その後第一と第二復員省が統合され復員庁となり、1948年には旧陸軍関係の第一局が民間人の引き上げを管理する厚生省へ引き継がれ、旧海軍関係の第二局は総理府へ移された。
そして翌年、復員業務は全て厚生省に引き継がれ、復員引き揚げ業務は終わった。

これらの組織の、当時の仕事の内容はと言うと、戦前、戦中、戦後を通して、戦地、外地から復員や引き揚げしてきた人たちの、援護や補償のための調査、および財産の補償問題を調査することが本来の目的であった。

しかし復員引き揚げ業務が終わったとされても、内地、所謂新生日本の国土では、あの戦争の傷を体や心に残し、苦渋の日々を送る国民もいたのである。
そしてその傷は、今日の平成の人たちにも暗い影を落としていることがある。

ただ復員引き揚げ業務が終わったとされた時、昭和天皇のご意向で、調査業務だけは内閣府、いわゆる首相官邸の庁舎の一角に移され継続され続けてきたのだった。

そして平成の今日では、その部署は内閣官房の建物の地下に隠されるように置かれている。

その部署が極秘裏に残されることが決まった際、昭和天皇が四人の調査員に対して、次のように訓示をなさられた。

『真理は国民一人ひとりの中にあり。朕は真実を見極めることを欲するも、公開隠匿の判断は、常に国民の幸福を優先すべし』

昭和20年の終戦から、すでに67年の歳月が流れ、その調査は困難を極める。それでも、ふとした事から、とても深い事情を背景にした真実に突き当たることがある。

真実を突き止めても、67年の間に育まれてきた今日の幸福を破壊してしまうなら、必ずしも正義とは言えない。
人の行動の理由は、すべて人の幸福に向けられなければならない。


             〈塩田貴子ケース・米三升 了〉 第二話へつづく


#創作大賞2023    #ミステリー小説部門

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