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インペリアル・ディテクティブ 第4話

ファイル3 津久井淳ケース・握り飯 


順平は、新山栄治ケースの報告書を献上した後、口数が少なくなっていた。
ただ以前のような左遷されたという被害妄想はなくなり、入力作業を地道に丹念にこなすようになっていた。

ボロボロと崩れてしまいそうな古い書類と、怪しげに光り輝くパソコン画面を交互に見つめる眼差しは一期一句を語り継がなければならない義務感を漲らせている。

そんな順平のデスクのすぐ向かいで美山もごく当たり前の時間を過ごすように調べ物などの仕事を続ける。
ただ恩田は時折用件を言わずに事務所を出ては何所かに行きなかなか帰ってこないことがある。
二人で取り残されると、美山は静かな順平に世間話を持ちかけてみるが、明らかに以前とは違った反応を示すようになっていた。

「順平君、新山家の人たちは今どうしているの?」

「あ、麻衣子さんと隆文さんは結婚したそうです」

と感情を表に出さずに澄まして答えた。

「式は挙げずに、籍だけを入れたということです。伸介さんは会社を辞めて、忠明さんと共に春子の骨を引き取って供養したそうです。それと墓は新山家、山之内家、両家の名前を刻んだそうです」

「そう」

美山はそれで黙ってしまった。また静寂に戻ると今度は順平が、しかし美山には視線を向けずに話しかけた。

「美山さん、僕がやったこと、正しかったんでしょうか」

「え?」

「時効を成立させてしまったことです。もし『待っててください』なんて言わなければ、二人は自首していたと思うんです」

「自分でどう思う? って、聞くしかないんだけど……私だったら、同じことをしていたかも。いえ、鬼塚さんも同じことをしていたかもね。報告書を貰って、まだ時効が成立していなかったら、あの人、報告書を机の引き出しに忘れたかもね。『あ! 忘れてた!』ってね」

と美山はおどけた口調で言う。

「そんなに深く悩まないで。責任なんて、そんな重いものじゃないわよ。時効なんて皆が忘れるから成立するのよ」

美山は順平が責任を余りに重く背負いすぎているように感じ助け舟をだしたつもりだったが、順平は美山の笑い顔を見て自分の顔を嫌みったらしく歪ませながら笑った。

「今回は被害者の遺族がすでにいなかったことと、加害者側に被害者の親族が居たということで後を引かない形に終わりましたけど……」

「憎しみを抱き続けることも辛いし難しいわよね」

時効を前にまた憎しみの感情を起こさせてもそれは始めの頃とは違っているであろう。
ただ殺された人の供養のために犯人を憎み続けるなら、生き残った人の人生は悲しい。
悲しい人生を歩み続けることで憎しみの感情を保ち続け、さらなる悲しみに浸り続ける。
それはまるで憎しみと悲しみの回し車である。

「順平君。人が事象物事を前に考え行動する時、その人の中から自ずとそれに対して責任が沸いてくる。責任は自我を持った人にだけに現れるものよ。だから自己責任っていう言葉は責任を擦り合う、自分を消滅させようとする人たちの好きな言葉ね」

テレビのニュースで、悲しい事が起きていると知り、衝撃的な事件が起こったことを知り、それを知って何かを感じ思ったとき、その人に中に責任が沸いてくる。考えて行動しても功を奏さないときもあり、そして自身の無力を感じる。
どうすることも出来ない自分の無力感を味わう。

そして目の前の事象事件が続く時、その人はその人の責任だと感じる。小さな個人のとても軽い責任であろうが、人はその小さな責任を足し合わせて大きな力にしてゆく。
責任とはとても小さく軽いものなのである。

誰が悪いのか、誰に責任があるのか、と問いかけることは、自我を持たない卑怯者の責任の擦り合いである。

「僕、ここの仕事、興味が沸いて来ました」

順平はしっかりと美山の目を見て言った。

電話が鳴った。
会話中と云えども静かな部屋に突然鳴る電話の音は耳から心を通して電流のように全身に響き渡る。

「はい」

美山が出た。

「ああ、クマさん。いいわよ。じゃぁ」

美山は簡単に済ますと受話器を置いた。
順平にも会話の内容はだいたい把握できた。

「順平君、今晩、付き合って」

「はい。また仕事ですね」

順平の表情は以前のような疑念や驚きの感情は混ざっておらず、冷静な表情であった。そこに恩田が帰ってきた。

「おい、美山君、梅沢、後で話があるんだ」

「今晩の話ですか?」

「いや、その」

恩田は話の繋がりを探した。

「……また仕事の依頼か?」

恩田は自分の話より今晩の話に関心を振り向けた。

「ええ、今晩。何時もの居酒屋の二階」

「よし!」

その恩田のいつにない張り切り様に美山は不思議そうに目を見張った。

順平はそれまでの恩田の口調にやる気無さを感じることもあり意外な一面を見た思いで恩田と美山の顔を交互に見てしまった。

     *

居酒屋『大正軒』の地階は何時ものように賑やかであった。
三人で暖簾を潜ると待ってました、とばかりに女将が二階へ案内してくれた。

二階の何時もの部屋に入ると、順平には初対面の痩せて白い前掛けをかけた丸刈りの初老の男と球磨川がすでに座っていた。

「あ、2Bの皆さん。こんにちは」

前掛けの男が振り向いて挨拶をした。

「あら、木下(きのした)さんも一緒?」

美山は気軽に挨拶を返した。

「ああ、久しぶりだね。木下さん」

恩田も挨拶を返す。

「へへへ、何時も厨房にいるもんで、なかなか皆さんの前に顔を出す機会がなくて。すいやせん」

「はじめまして。梅沢順平です」

「こちらこそ」

順平は木下が下町の単なる居酒屋のオヤジにしか見えず、2Bと関係があるのかといぶかりながら、表情には出さないようにその座に収まった。

「あ、そう、梅沢さんは初めてでしたね」

と球磨川が木下を紹介し始めた。

 木下信吉(しんきち)。元東京都庁福祉課の課長。そして元2B連絡員。退職後居酒屋『大正軒』を開き、それ以来”B”が会合に使っている。
なので会合がある日は二階に客は入れない。

従業員がやってきて卓上コンロや網などの焼肉の用意をし始めた。
そして肉や野菜、魚介類の載せられた大皿が運び込まれ、従業員が出て行くと木下が下座から襖を閉めた。

「じゃぁ、木下さん。ご説明、お願いします」

球磨川が仕切る。

「はい。実は……」

木下は下座で正座し、俯き加減で話し始めた。

     *

木下信吉は都庁を退職した1998年の翌年、浅草に『大正軒』を開いた。
暫くして店が順調になり出し息子夫婦も店を手伝ってくれるようになった頃、以前の仕事で養った経験をもとに地域での福祉活動にも参加するようになった。

そこで佐藤孝三郎(さとう こうざぶろう)という男と知り合いになり、地域の独居老人宅を定期的に訪問しては健康や生活を見て回るようになった。
佐藤も定年前は商社に勤めていて、今では福祉活動以外で暇が出来ると夫婦で旅行に出かけたりもしていた。

ある日、地域見回りの打ち合わせで木下が佐藤の家を訪ねた時、木下はある菩薩像を目にした。

それは小さな椅子に座り足を組んでいるが、高さは一尺に満たない程の両の手のひらで包みたくなる大きさの像であった。
ただ右腕が肩から欠けていたのである。
以前は金箔が施されていたらしく、所々剥がれ残った煤けた金の箔が見えた。

佐藤はそれを自宅の仏壇の横の箪笥の上に、奥さんが作った白く丸いレースの上に置いて飾っていたのである。

     *

「で、その菩薩像がなにか?」

美山が話を促した。

「わし、いや私は、小さい頃、それを毎日のように拝んでいたんです!」

「へぇ、弥勒菩薩ですか」

順平が聞いてみた。
彼は菩薩と言えば弥勒菩薩しか知らなかった。

「え、それが、何菩薩かどうかは……なにせまだ子供だったもので。ただ、菩薩さんと言えば右手で頬杖を着いていますよね」

「それならたぶん、弥勒菩薩ってやつですよ」

と恩田が確認した。

木下はますます自信なげな表情になりながらも話を続けた。

     *

木下がまだ十歳の頃、近所の森山(もりやま)という家によく出入りをしていた。その家の末娘久美子と仲がよく、森山家に行っては遊んでいたのである。

それよりも木下にとって魅力だったのは、まだ食糧事情もままならない当時、森山家に行くと時々甘いものに有りつけたからであった。
木下だけでなく、他に多くの子供たちも、それが目的で集まってきていた。
遊びに行くと、久美子の母親が迎えてくれて、まず仏壇のご先祖様に挨拶をしろと教えられていた。

木下は久美子と一緒に仏壇の前に座り手を合わせる。
ただ木下はそのときは仏壇に供えられた砂糖菓子を薄目を開けて眺めていたという。
当時は甘い物などなかなか手に入る物ではなかった。

ある日、欲に任せて人目を盗んで、その砂糖菓子に手を出した。
するとそれを見ていた久美子の母がそれを咎めた。

「盗んではいけませんよ。必ず誰かが見ていますから。ほら、目の前の菩薩様が見ているでしょ。さ、菩薩様に許しを請うて、それからいただきなさい」

その菩薩像は女性のような顔つき体つきで、柔和な笑顔を浮かべた幸せそうな顔をしているのだったが、右腕が折れていて痛々しくも感じた。
その像の顔の表情と姿が余りにも違いがあり過ぎて少々不思議で怖くもあった。

ある日、砂糖菓子を貰った木下は久美子の母親に聞いてみた。

「あの仏様は、腕が無いのに痛くないのか」

「ああ、あの菩薩様は、御身を削って、苦しみを一身に受けて、みんなを幸せにしてくれているのですよ。だから、私たちは毎日感謝しているんです。さあ、お供えして菩薩様も召し上がられたようなので、みんなにもあげようかね」

そう言われてまた砂糖菓子を貰ったと言う。

ところが、1948年、木下が十歳の頃のある寒さが厳しい日、突然森山家は姿を消した。

森山家に遊びに行くと警官に立ち入りを止められその場で帰された。
何日もそれが続き、次第に足が遠のいた頃には、森山家は空き家になっていた。

中学に進むとその森山家の空き家で幽霊が出ると言う噂が出てきたが、木下は久美子のことを思い出すとその空き家には近づけなかった。
もしかしたら久美子は死んで、それが幽霊になって出てきているのではと思ったからで、そう思うと興味が湧いたが、幽霊が出ると騒ぎ立てることがまた久美子に申し訳ない気がして、近づかず、忘れようとした。

当時の木下にとって、なぜ久美子が居なくなったのか、なぜ森山家が突然消えたのか、町の噂で知るしかなかった。

そして数年後に本当のことを知った。

家族共々殺された、ということであった。

     *

「その久美子さんって、木下さんの初恋?」

美山が聞いてみた。

「え、ええ、まぁ」

木下は少しだけ顔を崩したが目付きは悲しそうだった。

「悲しい初恋ね」

「ただ、先日、あの森山家の菩薩像が、目の前に現れたんですよ」  

木下は突然慎重な口調で声を低めた。

「見間違いではないと思います。すごい懐かしく感じたんです」

「で、なぜ、その像が佐藤さんの家にあったのか、それを調べてもらいたいと……」

 と美山が木下の顔を伺って聞いたが、とうの木下は頭を下げるだけだった。そんな言葉を探している木下に今までずっと黙っていた恩田が鋭い目付きで聞いてきた。

「その森山家に出入りしていた頃、住んでいたのは何所でした?」

「あの頃は……今の荒川区でした。田端です。あっしの家は坂の下で、森山さんの家は坂の上の大きな家でした」

「あ、木下さん、この件、私が調べましょう」

恩田が突然乗り出した。

美山はまだ木下の説明が終わっていないと思っていたので恩田がすぐに引き受けたことが意外に思えた。

「木下さん、ご自身で、なにか調べましたか?」

恩田は焼肉を突いていた箸を置いた。

「ええ。ただ今の私では限りがあるんで。それで今回、2Bに……私の個人的な思いもあるんでしょうが、そうじゃない、なにかがあるような気もするんです」

――2Bの直感だ。

順平がそう感じたとき、恩田が半身を卓上に乗り出させてきた。

「なぜ、森山家が消えたか、お解かりですか」

恩田の言葉にその座の視線が注がれた。
恩田はすでに何かを知っているようであった。

「はい。ただ、ただ、だとしたら、あっしが関係した2Bのお仕事の中では、余りに……重すぎます」

「その菩薩像の歩んだ道程を調べてみましょう。梅沢、美山さん、心してやるぞ」

恩田は腕を組んで済まして言ったが、全員の目付きは驚きの表情でいつになく意気込んでいる恩田に注がれた。

「お願いします」

木下の目付きは今までに無い真剣な眼差しであった。

     *

次の日、三人がほぼ同時にRDに出勤してきた時間は定時より一時間ほど早かった。申し合わせた訳ではなかったが、同時にエレベーターに乗ったのである。

2Bの小さな事務室に入るなり、美山が恩田に聞いた。

「恩田さん、森山家が殺された事件、知っているんですか」

「ああ、一九四八年十二月、田端篤志家一家五人殺害事件。被害者は森山家の五人。犯人の津久井淳(つくい じゅん)は一審で死刑。控訴上告はせず一審で死刑が確定。一九五〇年、刑が執行された。昨日思い出して調べてみたんだ。戦後二例目の死刑判決だ。その前の判決では死刑が違憲かどうか、が争われたが結局一九四八年に最高裁で死刑は合憲と判決が下っている」

三人は普段出勤するとすぐにパソコンの電源を入れるのだが、それを忘れて恩田の話を聞いていた。

「今回の調査は菩薩像の経歴を調べることだ」

恩田は念を押すように言った。

「どんな事実が明らかになるか、何もないか、木下の思いすごしか……」

恩田も美山もごく普通の会話をしていたが、順平はすこし暗い表情を隠せずにいた。

「資料を集めるぞ。厚生省と総務省を通して島田美奈子の記録や経歴を、それと事件の裁判記録や調書は警視庁や警察庁、法務省を使って調べろ」

「じゃ、私がやるわ」

美山が手を挙げた。

「それじゃ、順平、俺といっしょに木下の見た菩薩像から当たってみよう」

恩田は二人の顔を見た。

「家の目立つところに飾っているほどだから事件のことは関係が無いだろう」

「はい。そうですね」

順平は佐藤が事件とは関係ないと聞いて安心した表情になった。

三人はいっせいに2Bの事務所を飛び出した。

     *

恩田と順平は木下を誘い佐藤の家を訪ねることにした。

佐藤の家は墨田区の向島にある築三十年程の小さめのマンションにあった。
木下の家も同じ墨田区押上にあり近所である。

三人は歩きながら世間話をするが、木下には森山家の事件のことなどは一切話さないようにしていた。
木下もその話をするのを避けているようであった。

佐藤家を尋ねると、恩田は木下の紹介で厚生労働省から地区の福祉に関わる事情を聞きたいと申し出、すぐに部屋に通された。

「どうぞ。おあがりください」

「失礼します」

二人は玄関から一番奥の居間に通された。
新築であったら相当広く感じるであろうが、長く住んでいると家具や小間物が積み重なり狭く感じる。
ただ居間とベランダを仕切るガラス戸を透かした太陽の光が部屋を広く感じさせている。

二人は少々古ぼけたソファーに腰を下ろし、佐藤はその向かいの一人用のソファーに腰掛けると、台所の奥さんを振り向くようにして声を掛けた。

「母さん、お茶はまだかね」

「はい、今」

台所から奥さんの声が聞こえてきた。

恩田は部屋を済ました顔で眺めまわすと、箪笥の上に右腕を失った菩薩像を見つけた。
奥さんがお茶を運んでリビングに入ってくると同時に、恩田はなにげなく誘うように話しかけた。

「あの仏像は、菩薩ですね。右腕が欠けていますが」

すると佐藤は真後ろにある箪笥を振り向いてから答えた。

「ええ、先日亡くなった島田美奈子(しまだ みなこ)さんの遺品ですよ」

と、佐藤は少々残念そうな顔つきになったが、その話も独居老人の実態を知ってもらうためになるだろうと考え語り始めた。

     *

佐藤は地域の独居老人の見回りをボランティアでやっていたのだが、そんな見回りをする老人のなかに島田美奈子という老婆が居た。

十年ほど前から向島のマンションに越してきたのだが、部屋は2LDKの小ぢんまりとした部屋だった。
そして昨年七十九歳で自宅にて死亡。死因は心不全。
血圧が高く病院に通っていた。
死後丸二日経っていたと言う。

当日佐藤がいつものように尋ねると返事がなく、管理人を呼び開けてもらったところすでに亡くなっていたのだった。

遺族はおらず、全くの独り身であったが、預金などはそこそこに残されており、管財人が指定され処分された。
その際、佐藤は島田が仏壇に飾っていたこの菩薩像を貰って来たと言うことであった。

     *

「今、一人で寂しく亡くなっていく人が多くなりましてね。私がこんな見回りを始めてからでも、すでに四人目ですよ」

「そうですか」

恩田は相槌をうち、地域のボランティア団体の話に変えた。
そして話が終わる頃、恩田は再び島田美奈子の話に戻した。

「あ、それと、あの仏像の前の持ち主だった方、島田さんでしたね。向島の前はどちらにお住まいだったのでしょうか」

佐藤は前の住所は知らなかったがその向島の住所を快く教えてくれ、また管財人を務めた弁護士の住所も教えてくれたのである。

「なぁ、母さん。島田さん、以前はどこに住んでいたか知っているかね?」

佐藤は台所を振り向いて奥さんに尋ねた。

「まぁ、あまり話さない人でしたからね。昔なにかあったんでしょ。苗字も隠していたし」

佐藤の奥さんは暖簾から顔を出して答えた。

「え、島田さんじゃないのかい」

「ええ、確か津久井とか。噂ですけど、ここに来る前は銀座でクラブを経営していたそうですよ。だから源氏名っていうやつでしょ。弁護士さんが話しているのを聞いちゃって」

恩田も順平も凍りついた。
津久井、死刑になった津久井淳と苗字が重なった。

ただ木下は菩薩像が話題になってからというもの、それをずっと見続けていた。

「木下さん、そうとう菩薩像がお気に入りのようですね」

じっと見入っている木下をからかうように佐藤が話を振った。

「え、ええ。良い菩薩像ですね」

「それじゃ、差し上げましょうか」

「え! いいんですか?」

「ええ。これは島田さんが亡くなったことで、今の孤独死や老人世帯の実情を忘れまいと思って貰ったんですよ。私より若い方にお持ちになって貰った方がいいかと思いますから」

佐藤は快く菩薩像を木下に差し出した。それから暫く、地域の老人世帯の話を聞いてから三人は佐藤宅を出た。
木下の手には風呂敷に包まれた菩薩像が下げられていた。

恩田と順平は木下から菩薩像を預かって2Bに帰った。

事務所では美山も加わって手袋を嵌め、風呂敷を解き、菩薩像を机の上に置いた。手袋をしていてもできるだけ触らないように、遠巻きに眺めてみた。

「指紋なんかは出ないだろう。磨り減った金箔も気になるな」恩田はそっと顔を近づけて呟いた。

「ここで調べますか?」

 順平が恩田を見て言うと、美山が提案した。

「科学捜査研究所に任せましょう。これから警察庁の桜庭さんのところに行くから」

「そうだな」

     *

美山は警察庁外事部の桜庭を訪ねた。
桜庭も2B連絡員で調査の依頼から調査協力までしてくれる。
庁舎一階の若干細長い台形の小さな応接室で待っていると桜庭が入ってきた。

「いやぁ、お待たせ」

桜庭はまだ若々しく見える四十代の目付きの鋭い男だが話が始まると、机の上の手を細かく動かして、顔つきや身振りにサラリーマン臭さを漂わせた。

「お久しぶりです」

「今回は何を調べているんですか? この田端一家殺害事件? もう昔に終わっちゃったことですけど。ま、2Bは何時ものことですね」

「今回は木下さんの依頼なんですよ」

「あ、もと都庁の? 彼、元気ですか?」

「ええ。今は居酒屋をやっているのはご存知でしょ。それとボランティアで独居老人の見回りをやっているんですよ」

「そうか。あの人らしいね」

桜庭は澄まして言う。

「あ、それで、これが、津久井淳が逮捕されたときの調書」

桜庭は右手に持っていた厚手の茶封筒を美山に差し出した。

「外事部にいらっしゃる桜庭さんが、こんな調書を請求するなんて、変に思われたんじゃ?」

「いやぁ、拉致事件と絡めればすぐに許可が下りるんだよ」

「ありがとうございます。それで、ついでにもう一つ、お願いがあるんですが」

「え、何?」
と答えながら、美山の傍に置かれた風呂敷包みに視線を移した。

「ええ、この菩薩像なんです。ここから出てくる指紋とか、血液反応とか、何でもいいんです。何もでなくてもいいんです。精査してもらいたくて」

「なんだ、そんなことか」

そう快諾しながら、桜庭は現れた菩薩像に見入ってしまった。

「不思議な仏像ですね。面立ちや体つきから奥深い優しさを感じるけど、たぶん、見る人によっては恐ろしさや嫌悪も感じるんじゃないかな」

桜庭のその言葉に、美山は改めて菩薩像に見入ってしまった。

美山は警察庁を出ると斜向かいの法務省にいる赤岩を訪ね、事件を捜査した田端署の調書と裁判記録を受け取ると2Bに急いで戻った。

     

美山が2Bに戻ると、すでに恩田と順平が机に向かって資料をあさっていた。
順平が厚生労働省や総務省から取り寄せた津久井美奈子の生前の記録を調べていたのである。

美山が入ってくると二人は驚いたように顔を上げた。

「はい、当時の警察の調書と裁判記録」

「よし、まずその裁判記録は美山さんから調べて。調書は始めに俺がやろう。順平、美奈子の経歴が割れたら、これらを順番に交換して全員で目を通す」

「はい」

調書や記録、書類などは2Bの三人がそれぞれの目で見て読んで、互いに気が付かない部分を拾い出していく。
同じ事柄を全く違う視点から精査するのである。

そして三日もすると全員が全ての書類に目を通し終え、互いの意見を出し合う。

     *

津久井美奈子。旧姓は島田。ただ婚姻の記録は無い。
1932年昭和7年5月、東京葛飾区の津久井圭吾(けいご)と紗江(さえ)の間に長女として生まれた。1942年昭和17年、十歳の時に長野県泉町の島田家に養女として移籍。
その後、1963年昭和38年、元の津久井に姓を戻していた。

住所記録は住民登録法が施行された翌年の昭和26年に東京の北区から始まっていた。
その後転々とし、2001年に今の墨田区向島に越してきた。
年金積み立てと受給の記録、および生活保護の記録は無い。


津久井淳。1928年7月、津久井家の長男として生まれる。
美奈子のように養子には行かず葛飾で両親と共にいたが、1945年3月の空襲で両親を亡くす。
戦後の1948年昭和23年12月、森山家での強盗殺人容疑で逮捕。すぐに犯行を自供、起訴。

一審の東京地裁でも否認せず、死刑判決。控訴もされず、死刑が確定。1950年12月、刑が執行された。

     *

「すぐに繋がったな」

美奈子は元死刑囚津久井淳の妹であった。

「へぇ、美奈子は、公的年金は貰わず生活保護も受けず、生活できていたんですね」

順平が不思議そうに呟いた。

「まぁ、銀座でクラブを経営していたって言うことだからな。相当ためていたんだろう。それに最後の住居はマンションだが賃貸ではなく持ち家だ」

恩田が不思議さを打ち消した。

「1951年、昭和26年、島田から津久井に姓を戻しているわね。なぜかしら」

美山はその疑問をメモ書きすると資料のページを捲った。

「うん、銀座で探せば、美奈子を知っている人に会えるかもしれないな」

その後話は津久井淳の方へ移った。

「強盗殺人?」

美山が恩田に確かめるように聞いた。

「ああ、事件の概要だが……」

と、恩田は被害状況などを説明しだした。

     *

昭和23年12月、津久井淳は北区田端の森山家に盗みに入った。
そこで奥さんの森山久子(ひさこ)に発見され、台所にあった包丁で刺し殺す。
丁度家に居た長男の竜太(りゅうた)に発見され騒がれ殺害。
その場にいた娘の久美子、次に姑のイトも殺害。その後家の中を物色している最中に主人の太郎(たろう)が帰宅。殺害。

被害はその他に太郎が持ち帰った、知り合いの中山守から融資された事業開業資金の一部の4万円を奪い、逃走。

その一週間後、赤羽に潜伏していた津久井淳を逮捕。決め手は衣服に付着していた被害者の血痕。
それと包丁に付いていた指紋。

犯行時間は夜の9時から11時。その11時ごろ、森山家を飛び出す津久井が近くを見回っていた巡査に目撃されていた。

     *

「あちゃ、決まりですね」

順平が頭を掻きながら呟くと、美山が不思議そうに聞いてきた。

「4万円だけ? 私は、この犯行で仏像も盗んだのかと思ったわ」

「殺人以外に、被害は4万円だけだ。ただ当時としては平均的な月収の4倍に相当するからな」

「盗んだ4万円はどうしたのかしら?」

「一週間後に逮捕されたときの所持金は1円」

記録によると遊行や飲食、また賭博で使ってしまったということであった。

「そんなに簡単に使っちまえるか?」

恩田が首を傾げた。

「じゃぁ、今度は裁判の方だけど……」

美山が裁判の記録を話し始めた。

津久井淳は検察での調べから裁判でも一貫して犯行を認め、死刑を求刑された裁判では最短で結審していた。
その後、弁護士に進められても控訴は一切拒否し続けたと言う。

「警察でも検察でも、裁判でも、全て認めているのよ」

美山は困惑した表情をした。

「まぁ、誰も口を挟む余地が無いな」

と言う恩田はうっすら笑みを浮かべている。

「これで終わりですか?」

順平は俯いてクスクスと笑い出した。

「そうは問屋が卸さない」

恩田は順平の笑に答えるように笑顔で続ける。

「菩薩像は何所から来たんだ? 美奈子が死亡時持っていた。それは兄の淳が殺害した森山家にあったということだ。しかし当時、仏像が盗まれたと言う届けは出されていない」

「まぁ、ここまでなら弁護士でもちょっと優秀な探偵さんでも調べは付くわ。森山家の遺族から譲渡されたとか、転売されたとか、そして巡る因果を不思議がって終わりね。淳は菩薩像も盗んでいた。そして美奈子に渡した、とか」

「よし、まず美奈子の過去から当たってみよう」

     *   

恩田は順平を連れて銀座へ向かった。

「恩田さん、嬉しそうですね」

「なに、こっちは美山さんより俺の方が顔は広いからな」

順平は事件のことでやる気を出しているのかと思ったのだが、銀座の方への関心なのだと思い少々がっかりした。

まだ夕暮れ時でバーやクラブが営業を始めるには早く、デパートは一番の賑わい時で老若を問わない女性が多く通り過ぎる。

そんな時間帯でも東銀座の人通りの少ない道に入ると、恩田は白黒の服装のバーテンダー風の男が打ち水をしている背後の、小さな穴の中へ降りていった。

順平はビルに掲げられた看板で店の名前を確かめようとしたが、どれがどれだか判別がつかずただ恩田の後を追いかけた。
狭く暗い階段を一階分降りると表面が皮のシートで覆われた頑丈そうな扉の前に行き着いた。
恩田がドアの横の呼び鈴を押そうとすると、先ほど打ち水をしていた男が後ろからバケツと杓子を持って降りてきた。

「あの、開店は9時からなんですが」

まだ二十代に見える若い男で順平とそれほど年は違わないように見えた。

「あ、すずらんママ、居る? 恩田だけど」

バーテンダー風の青年はその『すずらんママ』という言葉に気が付くとそっとしかし急ぐように重いドアを開けて中に入り、すぐに出てきた。

「あ、失礼しました」

青年は今までとは打って変わって丁寧に挨拶をして二人を中に招き入れた。

「あら、久しぶり。恩田さん」

ホールの奥から年配の和服姿の女性が現れた。
開店前のホールは照明が透き通っている。
女は恩田をカウンターに近いボックス席に招いた。

「新平ちゃん、この方たちに何かお出しして。ノンアルコール」

バーテンダー風の男はやはりバーテンダーだった。

「いや、ママ、気ぃ使わなくていいですよ」

「そうよね。またお仕事で来たんでしょ」

「ハハハ」

「今度は? また浮気調査?」

「まぁ、そんなところで」

順平は恩田とすずらんママの会話から、恩田は探偵として通っているのだと察し、最近作った『昭和生命』の名刺を出すのは控えた。

恩田は暫くママと世間話をしてから、切り出した。

「いやぁ、実はね…島田美奈子って女性を探していてね。そう津久井とも名乗っていたかも知れないけど」

「島田? 津久井? 美奈子?」

「といっても、もう八十歳ぐらいにはなるんで、そうとう昔のことなんだけど」

「知らないわね。私もこの銀座で働き始めて五十年になるけど……あ、もしかして美奈子ネェサン? もうそんな年よね」

「どんな方ですか?」

恩田はどんな小さな手がかりでも欲しかった。

「私がここ銀座で働き始めた頃、当時働いていたクラブを辞めて独立した人。そうとう苦労した人みたいよ。婚約者に死なれて。その人なら私より、田中さんの方が知っているはずよ。田中英子。『エイコ・ママ』って呼んでいたわ。ヒデコだとヒドイ子みたいでしょ。私がここ銀座で働き始めたときの恩人」

ママは新平に紙とボールペンを持ってこさせ、住所を書き始めた。

「その、婚約者に死なれた、って?」

「そう。当時は噂になったわ。美奈子ネェサンが殺したんじゃないかって。でも、自殺だったらしいわ。ほら、ここに行ってみたら。エイコ・ママがまだ死んでいなけりゃね。そうとうのお歳だし」
ママは古いアドレス帳を開きながら言った。

ママがメモ用紙を差し出すと恩田は大事そうにそれを背広の内ポケットに仕舞い、だいぶ前に差し出されたトマトジュースを一気に飲んだ。

「ママ、ありがとう。今度ゆっくり飲みに来るよ」

「まぁ、余り期待していないわ。それよりこっちの若い子に来てもらいたいわ」

と順平の顔を覗き込みながら、恩田にも愛想笑いを振りまいた。

順平はママが差し出した名刺を丁寧に受け取ると、その薄いピンクの名刺には「ステラ」という店の名前と「今日子」と源氏名が書かれていた。

名刺を珍しげに眺める順平を横目で伺う恩田が言う。

「すずらん・ママってのは、周囲の人たちが内々で呼んでいる名前さ。美しいけど……毒がある……ってね」

「本名は?」

「さぁ……名刺、なくすなよ」

二人は新橋駅から池袋へと向かった。

     *

今日子ママに教えられた店は『マンサク』という名前で、池袋の西口からすこし北の繁華街のはずれにあった。
店は昔銀座で稼いでいたと言う割には少々貧相に見える小さなバーで、小さな扉は駅から歩いてくると電柱の影になってよく見えない。
店先に置かれた四角い看板の明かりだけが目立つ。二人が訪ねたときは営業し出したばかりで、外見とは裏腹に中は広く、四人いるホステスの数が少なく見えた。

「水割り」

恩田はカウンターに座りバーテンダーに水割りを注文すると順平を見て注文をするよう促した。

「あ、じゃぁ、僕も水割り」

バーテンダーは頷いてコースターを二人に前に差し出して注文を受けたことを示し、お絞りや摘まみなどを並べていく。
暗がりに見えるその顔は相当の老齢である。
恩田と順平を囲むように若い肌をむき出しにしたドレスの女が二人、カウンターに寄ってきた。
順平がその接近に気を奪われていると、恩田が隣に座った女に話しかけた。

「いやぁ、きれいだね」

「初めてですね。私、サキ。サキって言います」

「へぇ、サキちゃんか。ところでさ、エイコ・ママはいる?」と聞くと若い女はホールの奥の扉を見遣った。バーテンダーも一瞬恩田に視線を向けた。

「銀座のすずらんママの紹介でね」

と、続けた。

それまで立ち続けで水割りを作っていたバーテンダーが手を止めてカウンターを抜け、奥のドアを開けた。

バーテンダーがカウンターに戻ると、少し遅れて和服を着た老齢の女性が出てきた。

「めずらしいわね。すずらんママの紹介? どなたかしら?」

見かけの歳に似合わず若い声をしている。
その色白の肌は、店の名前からしても北国出身の人だろうと恩田は思った。その女が恩田たちに近づくと若い二人の女はもといた席に戻っていった。

「はじめまして。恩田昭二と申します」

恩田は『探偵事務所 時代屋』とロゴが書かれた名刺を差し出した。

「あら、探偵さん。どんなご用かしら?」

そう言いながら恩田の隣に座った。恩田と順平に水割りのグラスが差し出された。

「実は今、津久井美奈子さんと言う方の事を調べていまして。旧姓は島田」

ママがカウンターの壁に並べられた酒のボトルを眺めながら暫く考え込んでいると、バーテンダーがママにそっと話しかけた。

「あの、昔、首をつった横山ってやつの……」

恩田はそれをそっと聞いていたが気が付かない振りをした。

「ああ! 思い出した! 美奈子ね。そうそう島田美奈子。結婚するからって姓をもとに戻して津久井に変わったわね」

「ご存知ですか」

「知ってるもなにも、一緒に銀座で苦労してきたからね。戦友よ」 

ママはそう言い切ると持っていたバッグからタバコを取り出して火をつけた。

「何年ごろだったかしら、確か、昭和26年。そうよ! ダルマが売り出されたときね」

「ダルマ?」

話に真剣に聞き耳を立てていた順平が呟いてしまった。

「そうね。若い子はもう知らないかしら。サントリーのダルマ」

カウンター越しにバーテンダーが頷きながら聞いている。

「その頃、ほとんど同時に私たち、銀座で働きはじめたのよ」

美奈子は、銀座で働き始めたときすでに男がいたと言う。

     *

昭和26年、1951年。
銀座で働き始めた美奈子は当時ミーナと呼ばれていた。
エイコと共に人気を博し売り上げは他の人たちを凌ぎ、その二人の売り上げ競争には誰も追いつけなかった。

当時の美奈子は銀座で働き始める以前のことはなかなか語らなかった。ただ噂から吉原、当時で言う赤線で働いていたと言う。
そしてすでに横山と言う男と付き合っており同棲もしていたと言うことであった。

     *

「内縁関係っていうことですね」

「そう。そしてあれは東京オリンピックのあった年だったわ。それまで付き合っていた男、横山に死なれて」

「死なれた?」

恩田は首を吊ったということを聞いていたが、少しだけ驚いたような振りで理由を誘った。

「そうよ。私はあの男、横山ってやつはいけ好かなく感じていたから、止めちゃえ、って何度も言っていたんだけど、美奈子はそうとう貢いでいたみたい」

エイコ・ママはそこで口ごもるように一瞬話を切ったが、思い切って話を続けた。

「ヤクザとのつながりもあったみたいだし。そりゃぁ、こう言う商売だから、私だって昔はそれなりにお相手もしたけどね」

エイコ・ママが語るには横山は美奈子の紐だったという。
そして時折美奈子が漏らしていた言葉が「別れられない」と言うことであった。

「とうの美奈子は幸せの絶頂だったんじゃない。ただ田舎の里親とは上手くいっていないとか言って、島田って名前から津久井に戻したそうよ。お金も貯めて独立の準備。そしてきれいさっぱりになって籍を入れるってことだったのかも」

「へぇ」

「ところがさ、ある日突然、その横山ってやつ、部屋で首を吊って自殺したのよ。美奈子が仕事から帰った朝、ぶら下がっていたの」

「その横山って男は……なんで自殺なんか」

恩田は横山という男が気になった。

「そうね……銀座で働き始める前から一緒だったみたい。ねぇ、お前さん、あんたも昔美奈子にほれていたんでしょ。横山のことも知っているわよね」

エイコ・ママがバーテンダーの夫に話を振った。

「ひもって言うより、美奈子さんを身請けしたとか聞きましたけど……」

バーテンダーは聞き伝えだとして言葉尻を濁すように言ったが、一語一語は断言していた。

「身請けか。ところで横山さんは何で自殺なんか」

恩田が聞くとエイコ・ママが話に割って入ってきた。

「さぁ、みんな驚いていたわ。理由が見つからなくて。警察なんか、美奈子を疑ったくらいよ。アリバイ? 私と働いていたもん。死亡推定時刻は夜の0時前後。ダルマが飛び交っていた時間よ」

「ところで、その美奈子さんが持っていた、菩薩像って知っていますか?」

「菩薩像?」

エイコ・ママは首を傾げた。

「ええ、右腕が折れた……」

「ああ、覚えていますよ」

バーテンダーがそっと澄まして話し始めた。

「あの、右腕のない菩薩像。腕の無い痛みや苦しみもすべて負いながらも優しい、そんな顔つきをしていましたね。だいぶ剥がれてはいたけど金箔が施されていたようですね。横山の葬儀の時に、美奈子が持っていたのを覚えていますよ。盛大な葬式じゃなかったけど、棺桶の上に置かれていたな」

バーテンダーは薄暗がりの中で、嫌な思い出を思い出すように顔をしかめて語った。

「そうですか。あ、そうだ、ダルマ、あります?」

恩田が突然ウィスキーの話を振った。

「もちろんよ。今はあまり売れないけど」

ママは倦怠感を漂わせて答えた。

「じゃ、一本。また来るときのためにね。梅沢って名前で」

バーテンダーがボトルを用意し始めた。

「おい、順平、挨拶しとけよ。忘れているぞ」

「あ、すいません。申し遅れました。梅沢順平と申します。よろしくお願いいたします」

「こちらこそ。若いお客さんが増えるのは嬉しいわ」

二人は店を出ると2Bには戻らず直帰することにした。

     *

その後、美山と順平は美奈子が養女として引きとられていた長野県の島田家を現地に赴いて調べてみることにしたのである。

東京から新幹線を使って一時間弱で着ける長野県の東に位置する泉(いずみ)町は、今は観光でにぎわう小さな町であったが、名所を離れると田園風景の広がる静かな田舎町であった。家々の屋根は和瓦葺とスレート葺に混ざって赤いトタン葺が目立つ。

駅でレンタカーを借り受けると、まず町役場に向かった。

町役場の戸籍係は美山と順平を受付カウンター前に待たせたままどこかへ行き、三十分ほどで戻ってきた。

「こちらが島田家の戸籍ですね」

戸籍係の示した書類はコピーであったが、その戸籍は写真でも活字には古さを感じさせた。

「もう昭和38年にこの家族は亡くなって途絶えていますね」

美山はその戸籍を見せてもらった。しかし美奈子の名前が無かった。

「美奈子さんって言う人は? 戦前、この島田家に養女として貰われてきていたらしいんですが」

「ええと、あ、戦後、戸籍から抜けて津久井の姓に戻していますね。ただこの島田家の記録はもう戸籍法改正前の詳しい記録は残っていませんね」

順平が、東京で死亡した美奈子の戸籍から拾い出した島田家の住所を示すと、戸籍係は番地が三十年程前に変更されたことを教えてくれ、現在の住所を教えてくれた。

その住所は、群馬県との県境の山から谷が広がり、そこに開けた田園地帯に、十戸ほどが集まった小さな村にあった。
水田はすでに収穫が済み、茶色の農地に細かい黄土色の稲株が残っている。
一軒ある看板を掲げた雑貨商はシャッターを下ろし、時々農機具を乗せた軽トラックが通り過ぎるほど静かな村である。

その商店脇に車を止めて近隣の表札を見ながら住所を探していると、村を突き抜ける県道脇の歩道を、音を立てない静かな電気車椅子に乗った老婆がやって来た。
美山が声を掛けてみた。

「おばあちゃん、すいません。このあたりに昔住んでいた島田さんってお家知りませんか」

老婆は相当運転に慣れているようで、一旦車椅子を停めると、振り向かずに車を回転させた。

「なにかね?」

「この辺りの、島田さんってお家を探しているんです」

美山はすこし声を大きくして言った。

「ああ」

搾り出すような声の老婆は島田の名前を知っているようであった。

「おばあちゃん、知ってます?」

美山は何も知らないふりをしてかまをかけるように質問を投げかけた。

「もうない」

老婆は素っ気ない言葉で答えるが、目は美山を伺っており、明らかに何かを話したい様子であった。

「何所に行ったか知ってますか?」

美山が更に聞こうとすると左手を掲げて付いて来いという身振りをして車椅子を動かし始めた。
美山がその老婆の乗る車椅子の後ろについて歩き始めると、順平は慌てて車に乗りゆっくりと二人の後を追いかけた。

老婆が入って行った家は和式の瓦葺で、車二台がやっとすれ違えるほどの舗装された農道から田圃に突き出したように広がって建っていた。

老婆は車椅子に乗ったまま玄関前で杖を取り出しながら嫁を呼ぶと、ゆっくりと車椅子から降りて腰を曲げながら歩き出した。
美山が老婆について行くと芝生の広がる庭に面した縁側に案内された。

嫁が縁側に出てきてガラス戸を開けると、美山はお辞儀をした。

「今、お茶をお持ちします」

嫁もお辞儀で帰すとお茶を用意しに奥へ消えた。
老婆は縁側に座り、美山にも座るよう左手で促した。

「島田家はもうねぇ。正義(まさよし)さんも藤子(ふじこ)さんも、息子の亮(あきら)さんも火事で亡くなって、娘の千恵子(ちえこ)は、もうずっと小さい頃に亡くなって」

車を停める所を探し当てた順平が遅れてやって来た。

老婆は昔、その村で産婆をやっていたという。
それで村の全ての家々のことは全て知っていると豪語していた。

島田家は戦後、昭和34年に火事を出し祖父母も合わせて一家五人が焼死していた。
また娘の知恵子は戦前、昭和十年に結核で亡くなっていた。

「すみません。もう一方…」

お茶をお盆に持ってやって来た嫁は順平を見つけると縁側にお盆を置き再び奥へ戻っていった。

「あ、いえ、お構いなく」

そんな会話があっても美山と老婆は話に夢中になっていた。

「おばあちゃん、美奈子さんって娘さん、ご存知?」

「ああ、知っとるよ。奥さんの藤子さんは千恵子が亡くなって相当悲しんでな、東京の親戚から養女として貰われてきたんじゃ。ただな……」

     *

美奈子は島田家に貰われてきたときは十歳。
初めは空襲の始まった東京から疎開でやってくるつもりであったが、島田家は養女として迎えたがった。

東京の津久井家も家庭の事情が芳しくなく、美奈子の将来も考え養女に出した。

しかし東京からやってきて、その村では珍しい革靴を履いたり綺麗な服を着ているということで学校でも苛められていたという。

また真冬には氷点下15度を下回る気候と畑仕事に耐えられなかったのか、終戦前の昭和19年、稲の収穫が終わり冬が訪れる前、島田家を飛び出して東京へ帰ってしまったということであった。
美奈子が十二歳の時である。

島田家の義父正義は東京から手紙を貰い心配し、春になったら迎えに行くつもりでいた。
ところが三月に東京が大きな空襲に見舞われたということであった。
正義はすぐに東京へ駆けつけたが、美奈子もその実の親も見つからなかったということであった。

     *

「おばあちゃん、美奈子さんの東京の実父のことはご存知?」

「いいや。ただ、美奈子を養女に渡したのは、口減らしとも言っていたような。長男は東京に居たようじゃがの」

嫁はお茶を配り終わり、そっと座敷側で座って老婆の話を聞いていた。

「おばあちゃん、美奈子さんが大事にしていたものとか、ご存知? たとえば菩薩像とか……」

「いや、知らんのぉ」

     *

美山と順平は老婆と嫁に丁寧に礼を言うと、車で新幹線の駅へ向かった。

「美奈子は、津久井の家族といっしょに居たかったんでしょうか」

「そうね。あのまま島田家にいれば空襲には会わなかった。しかし、島田家からは何も届けが出されていないわね。正義が探していたと言っても、二人は見つからなかった。きっと生きていると信じて待っていたのかも知れないわ」

「やっぱり死体を確認しないと死んだって理解できないですからね。でも実は津久井家の淳と美奈子は生き残っていた」

「二人は、空襲で生き残った後、どうしていたのかしら」

美山も順平もそれで黙ってしまった。

     *

二人が2Bに戻ると、恩田はまだ戻って来ていなかった。

                   津久井淳ケース・握り飯 つづく


#創作大賞2023

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