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身の程知らずの恋

自分の人生に爽やかなイケメンが絡んだことがない。それは、ハッキリ断言できる。別に、面食いではないし、アイドルおたくとかでもないので、男性の顔立ちに何か執着があるわけではないのだが、思い返すと、小学生のころから中高大、そして就職した今に至るまで、イケメンの彼氏はおろか、イケメンの友人すらいたことがない。

何をそんなに避けられているのかわからないけど、自分の周りにいた男性たちは、すべからく、中の下か、下くらいの顔面偏差値だった。もうちょっと偶然イケメンが人生に絡んで来てもよさそうなものだが、「単なる上司」とか、「行きつけの店の店員」とかのレベルでも、真砂子の人生にイケメンは存在しない。

イケメン(しかも爽やかな)は、自分には何の関係もない生き物だし、これからもそうだと思って生きてきた。

鮫島直哉に出会うまでは。

************

その日、仙台支社から社内研修に来るという若者の、あれやこれや面倒を見る役を仰せつかっていた真砂子は、1日分の事務仕事を昼までに終え、デスクでそわそわと時計を見ていた。

初めて会う人間にはいつも少し緊張してしまう。いい人だったらいいけれど、意地悪な人だったら憂鬱だとか、もしも極度におとなしい人だと、自分もあまり話し上手ではないから気づまりだなとか、あれやこれや気をもんでいた。

鮫島直哉がオフィスに現れたのは、そんな自分の想像にやや食傷気味になっていた時だった。

「絵に描いたような爽やかなイケメン」。それが、第一印象だった。

さらっとした前髪が少女漫画のように風になびき、キラキラした大きな目はやさしげに微笑んでいた。

「お疲れ様です! 今日からお世話になる、鮫島です!」

真砂子の横にすらっと立った若者が、キラキラした光をこぼしながら爽やかにあいさつした。真砂子は、思わず息をのんだ。

「な、なんという爽やかさ! まるで、歯磨きのCM!」

心の中でそうつぶやいてしまったのも無理はない。

大都会東京に暮らしていても、長らくイケメンに縁がなかった真砂子は、突然至近距離に現れた正真正銘のイケメンに、思わず目を奪われてしまった。

「ええと、大山さんですよね? あれ?違います??」

イケメンは不安そうに首をかしげる。そんな仕草もかわいらしく、整った顔立ちだと何をしても様になる、とうめきたくなる。

「え、あ、……いや、……大山です。すみません。突然だったもので……」

なにが突然なのか突っ込まれたら、「イケメンが」と思わず口走ってしまいそうであわてて口ごもる。

鮫島は、ホッとしたような顔で微笑んだ。

「よかった! やさしそうな方で。1か月間、よろしくお願いしますね!」

その言葉にまたぶっ倒れそうになる真砂子、32歳であった。


真砂子は、自分で言うのもなんだが、地味だ。

地味な顔だし、性格も地味だ。クラスカーストとかでは、真ん中の下方面。とくに目立つような特徴がないので、自分でもどこに位置しているのかよくわからない。友達もみんな地味だったし、特にそれが悪いこととも思ったことはない。

派手で綺麗な友人たちと喋るのは苦手だったから、別に、あこがれたこともない。

イケメンの彼氏が欲しいと思ったこともなく、なんとなく付き合うことになるのは、やっぱり自分に似て、取り立てて特徴もないような地味でおとなしい男ばかりだった。

最近は、ちょっとお互いに意識しているかな? という男が職場にいる。

1つ上の先輩で、総務部勤務。休日に行う職場の交流会で隣に座っていて、なんとなく連絡先を交換した。時々メールをやり取りし、2人で食事に行ったりもしている。

向こうも押しが強いタイプではなく、恋愛に縁があるような感じもなくて、こちらが連絡をすれば、返事が返ってくるし、誘えば食いついて来るけれど、自分からアクションを起こすようなことは今のところない。

ときめく要素は皆無だが、恋愛なんてそんなものだと、真砂子はすでに割り切っている。

なんとなく彼のような自分に似て地味なタイプの男と、いずれは結婚して、つつましく家庭を持てればいいんじゃないかと思っている。それだって、今の時代は、なかなか実現できない夢だ。

華やかな恋愛を繰り返す女子たちを見ながら、思うことがある。
結婚できなければ、どんなに素敵な男と恋しても無意味だ、と。

地味な男だっていい。胸ときめく恋などしなくてもいい。

身の丈に合った男と順当につき合って、最終的にごく普通の家庭を持てれば、人生はトントンだ。

派手な恋愛をしてきた人たちと、同じ場所に立てる。ならば、素敵な恋をめぐる厳しい競争の世界にいるよりも、自分と同類の人間だけを相手にする方が賢いんじゃないか、と。

それは、真砂子なりに、自分の人生に立てた指針なのだ。
結局、最後に負けなければ、人生は、勝ったも同然だと。

鮫島直哉は、本当に、顔だけではなく性格まで爽やかなイケメンだった。

東京にいたらもっとスレていたかもしれないが、仙台という絶妙に空気が綺麗そうな環境ですくすく育ったからなのか、誰に対しても分け隔てがなく親切で、そして、まっすぐな性格だった。

真砂子がぼそぼそひとりごとを喋っていても(ひとり暮らしが長いので、つい独り言を言ってしまう癖がある)、「何? 真砂子さん、何か言いました?」と首をかしげてのぞきこんでくる。

どんな些細な話にも熱心に耳を傾け、わからないことを一生懸命質問してくる。
素直に感心して、「すごいですねーっ!」と目を輝かせる。
その一挙手一投足が、若さの輝きにあふれていて、まぶしかった。

「ねえ、真砂子さん、いっしょにランチ行きませんか? さっきの話の続きを詳しく聞きたくて……」なんて、食事に誘う言い方も、いやらしくなく爽やかだ。

そのくせ、真砂子のちょっとした変化にも敏感で、「あ、今日の髪形かわいいですね」とか、「今日はめずらしくフェミニン系ですね!すごく似合います!」なんて褒めてくれる。

そんな風に対応されたことがなかった真砂子は、そのたびに、胸がときめくのを押さえるが大変だった。

もちろん、職場の女性たちも、もれなく直哉に夢中だった。
どこへ行っても、女子たちの熱いまなざしを集めていたし、みんな直哉に話しかけたくて隙を狙っていた。そんな女子たちにも、面倒くさがらず、かといって調子に乗ることもなく、にこやかに対応する直哉は、まさに神! だった。

真砂子は、直哉を連れて歩くようになってから、他の部署の女子たちの名前を一気に覚えた。これまで、自分とはまったくかかわりのなかった若い女子社員達が、一斉に目の前に現れたようだった。

もしかしたら、直哉の横にいる自分は邪魔なのか……? と気になったりもしたけれど、ちょっと身を引こうとすると、直哉は決まって、「真砂子さん、この子、ご存知ですか?」と、相手の女子を紹介しようとする。そうやって、真砂子の居場所がなくならないように気を使ってくれているのもまた、うれしい。

真砂子は、思わず浮き立ってしまう心を必死に押さえつけた。

「この子は、とてもいい子だから、私に気を使ってくれているだけ。誰に対してもこんな風に、親切でやさしいんだから。舞い上がっちゃダメ!」

一生懸命そう言い聞かせていると、ふと直哉が真砂子を見つめている視線に気づく。

何やらやさしく、いとおしげな目で真砂子を見ている。……気がする。

真砂子はあわてて首を振った。

「何考えてるの! こんなイケメンが私みたいな年上の地味女を相手にするわけないんだから!」

胸がドキドキと音を立ててうるさい。その甘く切ない痛みは、今まで経験したことのないものだった。

「恋なんて、まさか。こんな素敵な彼に、恋なんて! 身の程知らずもいいところだ! 笑っちゃう……」

真砂子は、直哉と視線がかち合うたびに、そう何度も自分に言い聞かせなければならなかった。

*************

そんなある日、真砂子は、社内でばったり、ひとつ年上のいい感じ(?)と思っていた男性社員に会った。

そういえば、すっかり忘れていたけれど、だいぶ前に、「また今度お食事でも行きませんか?」とメールして、「いいですね。どこに行きますか?」と聞かれたきり、返事もせず放置していたのだった。

「大山さん、なんか久しぶりですね。」高梨浩二は、目を落とし、早口の小声で、そう言った。そのピリピリした雰囲気に、ちょっと怒っている? と真砂子は感じた。

久しぶりに会った高梨は、少し大き目の灰色の背広に身を包み、おどおどとした猫背で、ちょっとくすんで見えた。

直哉の横で会話するのにどこか気恥ずかしさを覚えながら、小声で高梨に言った。

「あ、すみません。高梨さん、ご連絡するって言ってたのに、まだしてなくて……」

高梨浩二は、それを聞くと、ちょっと頬を赤らめながら、キッと目を上げた。

「いや、別に待ってたりはしてないんで。気にしてなんかいないです。別に、そんなに」

必死な調子でまくしたてる、その言い方が今日はなんだか引っかかる。別に、とか、そんなに、とか。

そんなに会いたいわけじゃないってこと……? よく考えると失礼な言い草だ。

「そうですか。ならいいんですが……。いまちょっと忙しいので、また改めてお誘いしますね」真砂子も、相手に釣られて少し冷淡な口調になってしまう。すると、高梨はそれを敏感に察したのか、またしてもすごい早口でワーッと言い返してきた。

「いや、別に、忙しいのはこっちも同じだし。時間ないなら、誘わなくてもいいですよ。僕も待ってるわけじゃないから。そっちが誘ったから行ってもいいって言っただけで、僕から誘ったわけじゃないし。

なんか勘違いしてるかもしれないけど。僕は、全然、そんなんじゃないですから。はい。違いますから」

目も見ずに、言いたいことだけ言い切ると、真砂子の反応も見ずに、高梨は「失礼」と言って、つかつかつかと去って行った。その背中を、真砂子は呆然としながら見守った。

「え……何あれ……?」

後ろでちょっと様子見していた直哉が、真砂子に気を使うように声をかけた。

「真砂子さん、今の人、真砂子さんの……?」
「いや、あの、たまにお食事に行ったりする人なんだけど……」

直哉に見られて恥ずかしい、と思う気持ちはありつつ、今はそうやってやさしく問いかけられることにほっとする。

それにしても、こうして見ると、今まで、高梨の何がいいと思って会っていたのか、まったくわからなかった。

あんな風にまくしたてられるほどのことを、自分がしたとも思えない。一体なんだったのだろう。何が彼のプライドに触ったのだろう。
真砂子はため息をついた。

あんな男と、いっしゅんでも将来の夢を描いていた自分が信じられない。チラッと横にいる直哉を見る。きっと、この人のそばにいるのに慣れてしまったからだ。

この端正な横顔はいくら見ていても見飽きない。直哉は、ちょっと考え込むような顔をしていた。

「真砂子さん、あの人とまた会うの?」

唐突に、直哉が尋ねた。いつになく真剣な目をしている。しかも、いきなり親密な口調だ。

真砂子は、違和感を覚えるより前に、激しいときめきを感じた。

「え、いや、なんか向こうもそんな気ないみたいだし。もう行かないんじゃないかな……」

しどろもどろ答える。直哉が、ホッとしたように破顔一笑した。

「よかった! 真砂子さんにあんな風な口を利く人と、会ってほしくないよ」
「え……? それって、」

直哉はちょっと照れたようなはにかんだ笑顔を向けた。

「真砂子さん、もし食事に行きたいなら、俺を誘ってください。俺が、代わりにお付き合いしますから。いつでも!」

思わず息をのむ。なんてキラキラした純粋なまなざし。このまっすぐな視線で見つめられて恋に落ちない女が(いや男も)いるだろうか?

くらくらしながら真砂子は胸を押さえた。

これは、本物のモテ男子だ。誰に対しても、あけっぴろげに好意を伝えられる。それは、自分に自信があるからだ。相手がどんな女だろうが、子どもだろうがおばあちゃんだろうが、誰にでも分け隔てなくやさしくできる。これが本当にモテる人間ってことなのだ。

今まで真砂子は、イケメンでモテる男性を敬遠していた。どうせ自分なんかを相手にするわけないし、そんな人種から見たら自分はただの道端に転がる石みたいなものだろうと思っていた。でも、それは単なる偏見だった。

本当にモテる男とは、愛情に糸目をつけない人種のことなのかもしれない。

あふれ出す愛を、隠さない。誰にでもわかりやすく愛を注げる。その愛情が、相手から見て喜ばれ、歓迎されるとわかっているから。

直哉を好きにならないでいるのは、難しい。
真砂子は、胸の痛みを抱えながらそう思った。

でも、直哉に好きになってもらえるわけがないことも、同じくらいハッキリしている。

「誤解しないようにしなきゃ。私のことなんか、好きになるはずない人だもの……」

真砂子は、そう自分に言い聞かせて、直哉に微笑み返した。

「ありがとう。じゃあ、今度ごはん付き合ってね」

***********

それから、直哉が仙台に帰る日までは、あっという間に過ぎていった。
何度か2人で、会社帰りに食事に行った。

直哉は、いつも礼儀正しかったけれど、2人きりになるとちょっとだけ砕けた口調になる。それが、なんだかくすぐったくて不思議と心地よかった。

何人かの女性から誘われているのは知っていた。でも、直哉はそういう誘いに浮つくこともなく、「ちょっと予定が……」なんて言いながらはぐらかしている様子だった。

「いま付き合っても、どうせすぐ遠距離になっちゃうもんね……」真砂子は心の中でそんな風に考えてひとりで納得した。

短期出張中だけと割り切って女遊びする男もよく見かけるので、直哉の態度は誠実で好感が持てた。

「モテる男はがっつかないのよね……」そこがいい。そう、真砂子は思う。

実は、あのあと、高梨から一度連絡があった。
借りた本を返したい、という内容だった。

別に、ただの文庫本だし、もう読んでしまった本だから返さなくていい、と伝えると、それに対する返事はなかった。

沈黙が雄弁に何かを語ることがある。まさに高梨がそれだ。物言わぬ裏側に、すごい圧を感じる。「俺の怒りを知れ」、とでも言うような。

少し前だったら、そういう沈黙に耐え切れず、何か書いて送ってしまったと思うが、いまは、そういう態度にただただうんざりする気持ちしかなかった。

今はそんなことより、直哉と過ごす日々が終わりを告げる日がさびしいのだった。

こんな風に、イケメンな若い男子と、仕事でとはいえ、四六時中ともに行動するようなことはもう二度とないだろう。毎日がキラキラして見えたこの短い時間の恋(と自分のような人間が呼んでいいのかわからないけれど)が、もうじき終わってしまう。

「人生で一度きりの、幸運だったのかな……」真砂子は、そんな情けないことを考えてはため息をついた。


直哉の東京での最終出社日には、近くの居酒屋でささやかな送別会が行われた。

こんなにたくさん集まるのか、というくらい、若い女子で、狭い居酒屋の中はごった返していた。直哉の前には女の子たちが群がり、連絡先を交換しようと列をなした。

その喧騒を遠目に見ながら、真砂子は、直哉のことを考えていた。

「あんないい子なんだから、地元に帰れば彼女がいるってこともあるんだよな……」

そう思うと、2人で飲んでいる時もそんな話は出なかったことが、少しさびしくも感じられた。

ふと、直哉と目が合った。直哉が、眉を上げて、ちょっと肩をすくめて見せた。
「疲れましたよ」と言っているようだった。真砂子は、ひらひらと手を振って見せた。

1次会が終わり、2次会に流れていく人ごみの中で、真砂子は最後に、直哉の姿を見ようと振り返った。大勢の人にもみくちゃにされていた直哉もまた、真砂子を探していたようだった。

「大山さん! 2次会、行きますよねっ?」

珍しく大きな声で直哉が叫んだ。真砂子は、軽く手を挙げた。

「ううん、私はここで。鮫島君、お疲れ様!元気でね!」
直哉が、人の垣根を押しのけて、真砂子のほうへ近づいてきた。

「え、ちょっと待って。もう帰っちゃうんですか」
「うん、あとは若い子で楽しんで」

真砂子は自分の肩をもむ仕草をしながら、おどけたように言った。
すると、次の瞬間、あっと気づいた時には、視界をふさがれていた。
背の高い直哉の腕の中にすっぽり自分の身体が収まっていた。

「え、ちょ……」

いっぺんぎゅっと、力強くハグして、直哉は真砂子を見下ろした。

「大山さん、ありがとう。……また連絡します」

キャーッと女子たちの悲鳴が周りで起こるのも意に介さず、直哉は小さな声でそうささやいた。

そして、極上の爽やかな笑顔で、手を振った。頬がボッと燃え立つのを感じた。

真砂子は一行がわいわい騒ぎながら移動して行くのを呆然と見送り、そして姿が見えなくなるとようやく長い息を吐いた。

最後まで、胸を射ぬかれっぱなしだった。

危なかった。
このままずっとそばにいたら、きっともっと好きになってしまっただろう。
真砂子は、ふっと自嘲気味に笑いをもらす。

こんな身の程知らずな恋は、短いからいいのだ。
まるで、物語の中の王子様のように。何もかもが完璧だった直哉。
最後まで、自分を夢見心地にさせてくれた。

こんなことはもう人生で二度とないんだろう。そう思うと、猛烈に切なくもあり。
その痛みすら甘くも感じるのだ。

真砂子は、いつまでもそこにたたずんで、抱擁の余韻に浸っていた。

***

直哉は仙台に戻ってから、何通かのメールを送って寄こした。

てっきり、「東京ではありがとうございました」という礼状かと思ったが、内容は意外にも、「何してますか?」とか、「元気ですか?」とか、まるでそこに座っているころと変わらないような内容だった。

いつも親しげだった直哉の口調を思いだすと、その不在が切なくなって、すぐには返事が書けなかった。

それに、下手に返事をしたら、そこで会話が終わってしまって、それが最後になるかもしれない。ならば、いつか自分から返せるように、メールの返事は書かないでおいたほうがいい気がした。

そうこうしているうちに、日が過ぎて行き、直哉の存在は、まるで夢か幻のように思えてきた。

あの爽やかな笑顔も、そばで静かに見守ってくれていた暖かな空気も、最後の別れのハグも。何もかもが自分の頭で作り出した妄想のような気さえするのだった。

真砂子は、直哉のことは記憶の底に封印しようと決めた。

あんなイケメンと絡むことは二度とない。だから、忘れたほうがいいのだ。この先の自分の人生を歩むためにも。

そして、あっという間に3年の月日が流れた。
結局、真砂子は、そのまま誰と結婚することもなく、同じように仕事をし、同じように地味な毎日を過ごしていた。

風の便りに、直哉が東京の本社に異動してくると聞いた。
直哉は、仙台で結婚し、身重の妻とともに上京するとのことだった。

なんだか懐かしいと思いつつ、もはや、遠い日の恋の残骸に、胸が痛むこともなかった。
さらさらと砂のように時が自分の上に流れ、それによって、彼の結婚にも平然としていられることにホッともしていた。

直哉が突然真砂子のデスクに姿を現したのは、秋も深まったある日の午後のことだった。

「大山さん」

直哉は、変わらぬ人懐こい笑顔で、横に立っていた。

「鮫島君!」

真砂子は、ビックリして、仕事用のメガネをはずして直哉の顔をまじまじと見つめた。

「東京に異動になったって聞いてはいたけど……」
「そうなんです。ご挨拶が遅れてすみません」

直哉は、どこか他人行儀な口調で、ぺこりと頭を下げた。

2人の間に、それなりの時が流れたことを、改めて感じて、真砂子はちりっとさびしさを感じた。

「そんな、気にしないで。営業部に来たんだよね。来たばかりで忙しいでしょ。引越しとか……あ、」

真砂子は、ふと気づいて、言葉を切った。

「結婚したんだよね。おめでとう」

直哉は照れたような笑顔を浮かべた。

「ありがとうございます。そうなんです。いま妻は妊娠中で」
「そうなんだってね。噂で聞いたよ。おめでとう!」

真砂子はつとめて大人の笑顔をつくりながら、直哉にうなずいて見せた。

「この子に恋をしていたなんて、嘘みたい」

心の中で、思わず苦笑してしまう。3年前の自分が、あまりに無謀で、なんだか哀れな気さえする。彼の言動や行動にいちいち期待してドキドキしてたなんて。年増の女がみっともなかったな。周りから見ても、もしかしたらいいもの笑いの種だったんじゃないだろうか。そう思うと身がすくむような心地だ。

「ねえ、大山さん、あとでちょっと1杯付き合ってもらえません?」

直哉が、昔のような無邪気な口調で言った。真砂子は、さばさばとした先輩然としてうなずいた。「いいよいいよ。一杯飲んで、お祝いしよう。奢るよ!」

そう、もう大丈夫。直哉のことを好きだった黒歴史は、この一杯で精算しよう。そう思いながら。

*********


「ねえ、ずっと聞きたかったんです。大山さん。」
「ん ?何を?」

会社の近所のビストロで、ビールを傾けながら、直哉が突然言いだした。
直哉は、ハイピッチで酒をあおっていた。最初に注文した料理がテーブルに運ばれてくるまでに、ビールをグラスで2杯飲み干している。

こんなに一気に飲むようなところがあったかな? と真砂子も少し不思議に思っていた。
直哉は、ほんのり赤く染まった頬で、何かずっと黙っていたことを告白するように、決意した調子で話し始めた。

「僕の、何がダメでした?」
「は?」
「やっぱり、年下だったから、ですか?」
「???」
「それとも、遠距離だったから……?」
直哉は、ビールの泡面をじっと見つめながら、真面目な顔をして尋ねた。
「なーんて、今さら聞いても未練ですよね。すみません」

真砂子は、何を言われているのかわからなくて、肘をつき、うつむいた直哉の顔を覗き込んだ。

「えっと、何のこと?話が見えないんだけど……」
すると、直哉が急に、テーブルの上の真砂子の手をギュッと握った。
「今さらって思われると思うんだけど……。

俺、初めて大山さんに会った時に、『あっ』て思ったんですよ。
この人は、今まで自分が会った女性と全然違うって」
握られた手が気になって、混乱しながらも、真砂子は、半笑いで「え?」と首をかしげた。

「だから、」

直哉は、少し身を乗り出した。

狭い店内のバーカウンターのテーブルは小さい。テーブル越しに、直哉の身体がぐっと寄って、体温を感じるくらい近くに感じる。

「大山さんは、俺が探し求めていた理想の女性なんじゃないかってことです」

え? はい? ……はいーーーーーー????

真砂子は思わず頭が真っ白になって、ハイチェアからずり落ちそうになった。

「え? 理想? は? 何言ってんの?」

思わず素で突っ込んでしまう。だが直哉は真剣そのものの表情で答えた。

「大山さんは、今まで会った女性と違って、知的で、落ち着いてて、大人で。しかも話が面白くて、いつも気が利いてて。なんていうか、とにかくすごいって感じで。ビビッと来て。いっしょにいるうちに、どんどん大山さんが素敵だって思うようになって……」

内心ひっくり返っている真砂子をほったらかしに、直哉は酒の力を借りてか、どんどん語りはじめる。とても自分の話とは思えず、真砂子は呆然とその言葉を聞いていた。

「でも、大山さんには全然相手にしてもらえなくて。仙台に戻ってからも、ずっと会いに来たかったけど、大山さんからはメールの返事もなくて、ああ、もう俺のことなんか忘れてるんだなって。それで、必死で、あきらめたんです」

直哉は、真っ赤になった顔を肘で覆った。

「あきらめて、地元で結婚もして、子どももできて。なのに今さらだけどまた東京に行くことになったら、やっぱり大山さんのこと思いだして。未練なんですけど、あの時、どうして俺はダメだったのかってことを聞きたくて。すみません。……会いに来ちゃいました!」

真砂子は、そう告白する直哉のうなじのあたりをじっと見つめて黙りこんだ。
直哉は、こんな時ですら、潔い。まぶしい位にまっすぐだ。
見つめられずに、逃げ回って、縮こまっていた自分とはまるで真逆で。

「そんな……私なんか、鮫島君が思ってくれるような人じゃないって。ほら、全然モテないしさ」

必死で笑いを繕いながら、なんとか絞り出すようにそう告げた。
もう、遅い。自分はこの手を、つかみ損ねたのだ。
私を、理想の女性と呼んでくれた、奇跡のような人を。

「いえ、大山さんは、素敵な人です。他の人がどう思おうが関係ない。俺にとっては、理想の女性です。あの頃も。今も」

まっすぐ見つめるその瞳に、吸い込まれるように真砂子は押し黙った。視線が、切なく絡み合い、そして、真砂子は目を落とした。

恋のチャンスは一度きり。それを過ぎてしまえば、あとからいくら答え合わせをしても、もう間に合わない。時は過ぎてしまい、直哉の手を取れる自分は、そこにはいないのだ。真砂子は苦く笑った。

「どうして、……私って」
「え?」

いつもいつも自分に自信がなくて。自分が好きになったら相手の迷惑だって思ってた。自分を選ぶような人は、きっと自分と同じで、ときめくような恋をあきらめている人で、消去法で現実的な選択肢を選んでいるのだと、そう思い込んでいた。

目の前にある恋にも、目をふさいで。
ないものだと思って、心に蓋をして。
目を開けてちゃんと見てさえいれば。あと一歩の勇気があれば。
自分の気持ちに正直になってさえいれば。
この手を取ることだって、できたはずなのに。

「馬鹿だよね~……私。」
「大山さん?」

「私も、好きだった」そう、告げようと思ったけれど、言葉にせずに飲みこんだ。
今さらだ。今さら、そんな言葉を、直哉が求めているとは思えなかった。

「ちゃんとそういうことは、言ってくれないと。惜しいことした!」

真砂子は、そう言って、握りしめられた手をそっと外した。

「理想の結婚相手になるチャンスを逃しちゃったよ~!」

冗談めかして言いながら、涙が出そうだった。

直哉は、それを聞いて、少し気が晴れたような笑顔を見せた。もうとっくに、真砂子のことは過去になっているのだろう。それがわかって、また少し切ない気がした。

「あーあ、本当の理想の相手、私も出会いたいな~!」

真砂子は、大きく伸びをした。

それから、直哉とは2人きりで会っていない。
社内でたまにすれ違っても、ちょっと会釈するだけの仲だ。
それでも、真砂子は、自分の中に、昔はなかった暖かい感情が芽吹いているのを感じていた。

誰かが自分を恋することがある。
広い世界の、誰かから見れば、自分だって、恋の対象になる。
それが、大人数でなくても。たった1人でも。
それでいいのだ。人生には、たった1人の理解者がいれば十分。
その人さえ自分を愛してくれればいいのだ。

そのためには、自分が自分を愛している必要がある。
自分なんて、と思わずに。
そう、後ろ向きでいてもいいことなんかないんだから。

「だって、あんなに素敵な人が好きになってくれた私なんだもの!」

真砂子はそう心につぶやいて、どこまでも晴れた空のようなすがすがしい気持ちになるのを感じるのだった。


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