テクノロジーは人間を幸せにするのか?トイレを設置しても、何故か外で用を足したインド人の事例から学んだ教訓について。
友人がこんな言葉をこぼした 。
『現代って便利だよね。時間が経てば、テクノロジーが不便なことを、なんでも解決してくれるから。』
もちろん一理ある。 しかしこうも思う。 『本当にそうだろうか?テクノロジーは短期的な便利を与えているだけで、長期的な幸福をもたらさないのではないか?』
そこでこの記事では、『インドにトイレで用を足す文化が根付かなかった事例』から、『便利』を追求する事で見えなくなってしまうものは何か?を考えていきたい。
「情感(ハート)には理知(リーズン)が感知し得ない
独自の理(リーズン)がある」ー科学者/パスカル
かつて科学思想の生みの親であるデカルトの敵であった
パスカルが残した言葉はそれを予期していたのかもしれない
・インドにトイレを設置しても使われなかったのは何故だろう?ー文化の物差しについて。
僕たちは用を足すとき、必ずトイレに足を運ぶ。当たり前のことだ。 しかし、インドにはトイレがなかった。 インド人には、トイレで用を足すという、日本人から見れば「当たり前のこと」をしていなかったのだ。
そこでインド政府はその現状に対し、国中にトイレを設置した。
これで国民はトイレを使い始め、町は、国はもっときれいになるはずだ!インド政府の役人はそう思ったに違いない。
しかし設置したトイレはほとんど使われなかった。
インドで幼児(5歳未満)の死因の17%は下痢とその合併症だが、原因の8割が排泄物に含まれる雑菌の経口感染であるにもかかわらずだ。
何故だろう?
僕が思うに、自分の『文化のものさし』しか持っていないとその国、環境、風土の文化が見えなくなってしまうからだ。
この事から、テクノロジー(この場合は、トイレ)を推進させる事が必ずしもゆたかさをもたらすとは限らないし、「あったほうがいい!」と外から考えてすすめていても、実際につかうひとに文化を根付かせなければ意味がないという教訓が得られる。
・『宗教は無意味』と切り捨ててしまう現代思想の危険性
インドの家庭にトイレが根付かなかったのはもう一つ、宗教的な理由がある。排泄とその処理が、インド最大の宗教、ヒンズー教の考え方と密接に関係するからだ。
ヒンズー教では「浄」と「不浄」という概念が重視される。トイレは不浄で遠ざけるべきものという意識は伝統的に根強い。そこには厚い厚い、宗教の壁があった。
宗教が完全に無意味だと決め付けてしまう科学思想に染まったひとには理解できないだろうが事実価値があると感じている世界がある。
そこにそとから、「便利だから!」と、使えるモノを渡せばそのまま受け入れられるという考え方は安直すぎるのではないだろうか?
なにかを取り込んで欲しいのなら、それを使う人間・土地の風土の文化の接続も同時に考え、実装しないと、意味がないのだと僕は感じた。
・新しいテクノロジーを取り入れるとき、僕が忘れたくない疑問。
受け入れて欲しい、なにかを根付かせたい!と思うなら、そこに住み人々が残したい文化を残しながら新しい文化を根付かせようとする営みも同時に必要になってくる。
ただの『科学のものさし』で全て取り込んでしまうのは危険だ。ただ便利だから、取り入れてしまうのは危険だ。
テクノロジーを目の前にした時、一歩立ち止まって次の問いを自分に投げたいと思う。
・その新しいテクノロジーによって変質する文化は何か?
・忘れ去られうる人間にとって大切な文化は何か?
・そ現存する文化を残しながら新しい文化を創造するにはどうすればいいのか?
この問いを忘れ、僕達の世界は有機的なエコシステムを失い、無機的な世界になっていってしまうのが僕はたまらなく怖い。
そこに『暖かさ』はない僕にはそう、想えるのです。
そして思う。じゃあ僕は何をするの?
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最後まで読んでくれた方、ありがとう
少しづく空気に冬の空気が混ざりつつあります
暖かく
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れんてん
ただ、ありがとうございます。 きっとまた、「なにか」を届けます。