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頑なにマスクを外さない日本人は「不自由」なのか?ー自由を担保する無意味な規範についてー

「いつまで日本人はみんなマスクをつけているんだ」「ワクチンを打っているんだから、もうマスクをつけるのはやめようよ」「アメリカじゃみんなマスクつけてないよ」

最近、そんな声を聞くようになってきた。そういう主張の裏には「欧米の自由な文化から遅れている、不自由な日本人」「日本人は無意味なことを続けるから不自由だ」と言った思想が隠れているように僕は感じた。

「日本人は空気を読む。社会的な圧力に簡単に屈して、みんながみんな周りに合わせてしまう。それがダメなところだ」

僕が学生だった時、そういう言葉はよく聞いていたし、納得もしていた。「なんでこんなにもみんな、周りに合わせようとするのだろうか?」「もっと自分のやりたいことをやったり、自分らしく生きれば良いのでは?」そんなことを思っていた。

けれども最近、「無意識に規範的な行動をしてしまう日本人の集団」はひょっとするともっとも個人の自由が最大化された集団なのかもしれないと思うようになった。その理由を今日は言葉にしていきたい。


いろんな規範を無意識的に守るから、常に自由が担保されている

日本人は周りに合わせようとする。それは日常的に起こる小さな選択から、就職や大学選びなど、今後の人生を左右するような選択のときなど、濃淡はさまざまだ。

日本人は電車に乗るとき「まずは出る人を優先する」ために、ドアの前を開ける。ひとが出終わってから、電車の中に乗り込んでいく。この流れを言葉などでコミュニケーションすることなくやり遂げる。なぜなら多くの日本人はそれが当たり前の規範として認知しているからだ。

就職活動をしているとき、誰からも指示されていなくても、多くの人が黒いスーツを身の纏っていた。「黒いスーツを着ていたら高評価になる」などを誰も言っていないにも関わらず、その選択を当たり前のものとして受け入れている。

多くの日本人は政府が「感染症対策のために必要なのでマスクをしてください」と繰り返し発信したら真夏だろうが、できるだけマスクをつけようと心がける。
もちろん「国家がいったからやろう」という、独裁状態だからではなく、「科学的に重要そうだから」とか「周りの人がみんなつけているから」とか複合的な理由でマスクをつけるという選択をする。

マスクをすることによって個々人は少しだけ不自由になる。取り外しも面倒だし、呼吸もしにくい。暑くなったら熱がこもってストレスになる。

こういった無数の規範や周りがやっているからという理由で生まれていく認識が大量に存在する。それは人間社会という巨大な共同体が生み出す誰が設計したのかもわからない、そこにどんな意味があるのかもいまいちよくわからない規範だ。
一つ一つの規範は、人間の選択を限定するという意味で「不自由」をもたらす。

「電車でまずは自分が乗り込む」という選択や「アロハシャツで面接を受ける」「たくさんの人がいるところでマスクを外す」といった選択が取れなくなる。正確には、「選択した上で取らない」のではなく、「もはやその選択肢は存在しない」という認知構造のが正確だろう。

しかしこれは、本当に「不自由」なのだろうか?

規範が選択肢を制限することは、個人の自由を阻害するのか?

この問いの答えは、Yesであり、Noだ。学生の頃の僕は、「Yes」の一点張りだったと思うが、なぜここにNoが入るのだろうか?

電車に乗り込むときに、「自分から乗車する人」「列に並ばずに抜かす人」「電車に乗れなかったからよじ登ってしまう人」などたくさんの自由な選択をする人ばかりだったらどうなるだろうか?
電車という交通手段は非常に不自由な選択肢になってしまうだろう。

電車に乗るとき、「周りの人は抜かしてこない」「まずは自分が電車から降りてから、人が入ってくる」「電車の上によじのぼる人もいない」とわかっているからこそ、電車を自由に活用することができる。

つまり、規範の制限のおかげで、他者の行動の予測可能性が増大する。規範に従うという不自由という代償を支払うことにはなるものの、社会生活の中でその恩恵を十分に受けることができる。

電車における社会のマナー・規範がわかっているからこそ、それさえ守っていればあとはどんな自由も許容されるのだ。どんな音楽を聞いてもいい。どんな本を読んでもいい。他人が予測不可能な行動をする可能性も低いから、他人に直接的に自由を制限されることも少ない。

マスクをする日本人は不自由なのか?

感染症が拡大したとき、誰もマスクをしなかったらどう思うだろう?
お店に行っても、他人と話すときもみんなマスクをしていない。その状態に恐怖を覚える人も多かっただろう
し、その結果今よりも感染者はずっと多かったかもしれない。

日本人は、確かに「マスクをする」という規範に従順だったことから被った不自由もあっただろう。けれどもその代償のおかげで、今も元気に生きることができる自由を享受したり、「マスクしろよ」「必要ない!」といった他人との争いを避けることができたのかもしれない。


日本人は、誰が設計したのかもわからない・意味があるのかもわからない規範を受け入れる受容性が高いのだろう。

それは「自分の意志で選択できない」「周りに合わせてしまって本質を見失う」といった、弱点があるのは確かだ。マスクの件に関して言えば、真夏に屋外でマスクをつけ続けて熱中症になるリスクと、屋外でマスクをつけ続けることで低下する感染リスクを天秤にかけて考えて決断できたほうがいい。

しかし、そのは社会的な生活のお互いの予測可能性を向上させるという大きなメリットもあるのではないだろうか?

日本人は無数のマナーに無意識的に従うことで、他人の行動の予測可能性が極めて高い。それゆえに、自分もそう在ろうとする。その連鎖の結果、多くの人が規範に従わない社会よりも、より多くの、幅広い自由を獲得しているのかもしれない。


日本人は何も恐れることなく夜道を散歩できる。確かに、他人に不自由を被らせる悪人が0ではないことは事実だが、比較的安心して歩ける。それは、日本人はみんな暗黙知的な規範を守って生活すると容易に予測できるからだ。


夜道で、「誰彼構わず話しかける自由」があったら、どれだけ不自由な社会生活になるのだろうか。

その世界の文化自体が「他人と話すのが自然だ。楽しいことだ」というものであればまた別の話だけど・・・・


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