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『過去の黄金時代』は空想である〜「昔は良かった」。その感情は終わらない螺旋階段を降り続けることを望むようなものだ。〜

今日は『ミッドナイトインパリ』という映画を見た。この映画は、「昔は今よりもよかった」という誰しもが思う感情に対して、「本当に昔のがよかったのか?」、と投げかけてくる。

現代を風刺するような、そして過去を美化するような、それでいて『今』を生き、『過去ではなく今』に向きあおうというメッセージを感じる映画だった

「昔は良かった」。その感情は終わらない螺旋階段を降り続けることを望むようなものだ。もし、昔に戻れたら、そこにいる人たちもまた、「昔の方がよかった」と言い出すのだから。

いつの時代の人間も、生きたことのない過去を美化してしまう

この映画では最初に美しいパリの街並みの情景が、淡々と映される。

主人公はアメリカ人の映画の脚本家だ。しかし彼は『小説家』になることを夢見て
脚本家としての成功を投げ捨てでも、小説を描きたいと思っていた。

彼は婚約者の父親の仕事の出張についていき、ついでとして婚約者とパリ旅行に来ていた。どうやら彼の婚約者のお父さんはバリバリのビジネスマンのようだ。

彼は兼ねてから、結婚したらこの美しい『パリ』に住みたいと願うのだった

しかし彼はある時、12時の除夜の鐘が鳴り響いた時ある場所で1920年代のパリにタイムスリップする

そこにはピカソ、ヘミングウェイ、ダリなどの、彼が慕い、神のように崇める芸術家たちがいた。
その美しい芸術を生み出した先人たちの時代に、彼は迷い込む

そこは彼にとって芸術の、すなわちパリの『黄金時代』だった。

そして彼は、明くる日も明くる日も12時に同じ場所に行き黄金時代を旅する
そして彼は、その時代を生きる美しい女性に恋をする。

彼女との恋が実り始めるが、しかしその彼女は、「今のパリよりも1890年代のパリが最も美しい。あの時代を生きたい」というのだった

2010年を生きる彼にとって1920年代は黄金時代であった。しかしその時代を生きる彼女の黄金時代はさらに過去の1890年代であったのだ

そして主人公の彼は、彼女と1920年代から1890年代にさらにタイムスリップする

そこで二人は1890年代の芸術家である、ロートレック、ゴーギャンに出会う

そして1920年を生きる彼女はこう言った「彼ら(1890年代)の絵はすごい。今の(1920年代)の画家にはかけないわ」

しかしその言葉を聞いてゴーギャンは言う。「今の時代(1890年代)は空虚で想像力に欠けている。ルネサンス期に生まれたかった。」

そこで彼は気付く。いつの時代の人も過去を振り返り見たこともない『あの時代』『黄金時代』に思いを馳せ、『自分もあの時代に生まれたかった』と 嘆くのだ。

2000年代を生きる自分にとっての黄金時代である1920年の人は、1890年の時代を想い、そして1890年を生きる人はルネサンス期を想うのだ。そしてルネサンス期の人は古代ギリシャ時代に思いを馳せるのだろうか?

そして主人公は、自らの意思で雨の日の情景が美しい2010年の現在のパリに戻るのだった。

美しいところだけに目を向けて、「過去はよかった」と想ってしまう人間

「昔は良かった。」それはあらゆる分野で、時代で、言われることなのだろう

そして変わってしまった今の時代を蔑む。しかし本当に「昔は良かった」のだろうか?

思いを馳せる『黄金時代』を生きたこともないのに、何を持って昔は良かったと言えるのだろうか?

美しいところだけに目を向けて、「昔は良かった」と想うのはあまりに短略的な思考ではないだろうか?

その時代も今と変わらず、美しいものだけがある時代ではないはずだ。
その時代の葛藤があり苦悩があり憧れがあるのだろう

それを差し置いて「昔は良かった」と過去に憧れ過去を肯定してしまうのは、なぜだろう

「過去の美」よりも、まずは「現在の美」に目を向けることはなぜできないのかー人間に課された呪いー

現代には、「昔は良かった」と想う、憧れの時代を生きた先人たちの希望がたくさん詰まっている

苦しいこともたくさんあったが、生き抜いた先人たちの希望が「今のこの世界」にはたくさん詰まっている

好きなところにはその気になればいける。会いたい人にも簡単に会って話ができる。美しい芸術にも深遠な学問に誰でも触れることができる。

あらゆる感情をポケットの中のデバイスが呼び起こしてくれる。
戦争に苦しむこともない。そんな時代はこれまで一度もなかったのだろう。

もちろんこれは、この地球上の全人類全てに当てはまることではないけど、少しづつ全人類がそこに向かっている

もちろん失ったものもたくさんあるが、変わってしまったものはもう戻ってこない

そして一度手に入れてしまったものはもう捨てられない。
もう、スマートフォンが無かった時代に戻ることはできない

実にたくさんの、過去の恩恵を受けているにもかかわらず、それに満足しないのは、なぜなのだろうか
永遠に満足せず、永遠に「もっと便利に」「もっとストレスフリーに」を望む人間。
これは、人間が進歩し続けるために課された、呪いのようなものなのだろうか。

今はひどく見え、昔が美しく見えるように、「今だけがVUCAの時代だ」と思い込んでしまう現代人

現代は人類史上最も。先の見えない複雑な時代だ。『VUCA』の時代だ。
そんな言葉をよく聞く。しかし本当にそうだろうか?


いつの時代を生きる人も、先が見えなかったはずだ。

過去を振り返ってその時代がどのように変化していたかを語るのは簡単だ。
時代の因果関係を結びつければそうなるべきであったかのように語ることができる

しかし無数にある選択肢から、なぜその因果が結ばれたのかを語るのは困難を極める

時代が「どのように」進んだのかを語るのは簡単だが「なぜ」その変化を選び進んだのかを語ることは次元の違う難しさを伴う

つまり当たり前に進んだように見える過去の時代も、その時代の人々から見たら全て『VUCA』であったに違いない。

僕らが生きる現代が特別VUCAなわけではない。
未来がわからないという不安とはこれまでもずっと向き合ってきたことなのだろう

未来をやたら不確実だと現代人が感じてしまうのは、
人間がある程度の予測能力を持ち合わせてしまったからなのかもしれない

人間は過去の方が良かったと嘆く一方で、現代は予測不可能で生きていくのが難しい時代だと思い込んでしまう。

「昔の方が、わかりやすくて変化も遅かったから、生きやすかったはずだ。」ここでもまた、過去の事象を未来に立つ視点で見下ろし、「どのようにそうなったのか」を理解することでその進歩が容易に予測できるものであったかのように考えてしまう。

「過去を美化し」「過去をわかりやすく簡略化してしまう」これはどちらも幻想だ。

しかし現代は、過去のいつの時代とも比較にならない爆弾を抱えている

過去も現在も変わらず美しい面があると述べたが、現代人は最大の危機に瀕していると僕は想う。(しかし過去の人もそう思ったのだろうか)

19世紀に人類は自分の住む環境もろとも破壊する力をつけてしまった

しかも現代はただ生きるだけで着実にこの地球環境を変更し続ける

それは向き合わなければならない。
現代の美が地球環境の変化という代償に依るものであることは否定できない。この状態を無限に続けることはできないだろう。

未来の人間は、今という過去の代償を支払うことになるのだから。

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