自分を信じることは、世界で一番難しい。
久しぶりに、高次元の存在から“お叱り“をいただきました。
私がいつまで経っても自分を疑うからです。
1月〜2月前半にかけて、今までの数字が伸びない理由・そして急激に伸びた理由を分析しつつ、自分がやっていることが正しかったのかどうかを見つめる期間でした。
数字が伸びる動画は“飴“を意味し、数字が伸びない動画ほど“鞭“を意味する。
つまり“現実逃避“と“現実直視“の違いがあるということ。
人は“現実直視“を嫌がる生き物です。ことエンタメに関しては特にだと思います。
だから似たようなサバイバルゲーム映画や漫画が流行り、似たような色やデザインの服が蔓延する。それがいいのか似合っているのかはさておき、みんなが見ている・着ているからというのが大前提。
私は落ち込みすぎたり、不貞腐れすぎると急に自分をふざけながら褒め出すという謎のスイッチが入ります。
“私がやっているのは服で例えたらヴィヴィアンウエストウッド見たいなパンクデザインの服ってことだな!“とかそんな感じですごく烏滸がましい発言をプライベートで発します。
その時にハッとし、“あながち間違えではないのかもしれない“と思いました。
自己評価の低い私は、私がやっていることが“間違っているのか・正しいのか“という判断しか持てていなかったのですが、ふと、幼い頃の記憶を思い出しました。
私は大人しい性格でしたが、いじめられる対象になりやすかった。
片親だから、田舎にきたよそ者だからという理由もありましたが、それだけが理由じゃなかったことを後々になって知っていくことが増えました。
今でも忘れられないエピソードは、小学四年生の時です。ダンスが流行っていた時代でした。数人とダンスの練習をしていると、私だけ“変だ“と指摘を受けて、何度も日々練習をさせられ、指導されていました。
あまりにも指摘をされすぎて、疲れてしまった私は“何がそんなに変なのかもっと的確に教えてくれないか“と言いました。
そうすると、みんなバツが悪そうに黙りました。
“わかんない“とまで言い放ちました。
その時は“子供だから説明し難いのかもしれない“と思っていました。“私はダンスが下手なんだな“と認識していたからです。
ところが中学生になると、全学年クラス対抗ダンス(女子のみ)というものがあり、先輩たちも集まって、少し難易度の高いダンスを披露することになったのです。
私は学校にあまり行っていない時期で、途中参加の練習でしたが、3年生の先輩たちが優しく教えてくれたのを覚えています。
そして後日、ダンスが上手な人が一列目という配置で、私は一列目という一番重要な場所を任されることになりました。
私は周りの評価を鵜呑みにしすぎて、自分のスキルを見誤ることが非常に多かったのです。
以前お話した“陸上競技“系でも、高校全学年女子一位を取るほどのポテンシャルがあった事実であったり、意外と自分で自分の能力を把握仕切れていないということが発生するんですね。
でもこれ逆も然りなので難しいのです。(自分ではできると思っていたけれど、実際同じようなレベルに上がってみたら全然できていなかったなど)
逆も然り側で生きているので、自分が何ができていなくて、何ができるのかが把握しにくい。
“売れているものがこの世で一番だというなら、この世で一番うまいラーメンはカップラーメンだ“という有名な歌手の人が言った言葉がありますが、まさにそうなのです。
売れているからいいとは限らない。
だけど同時に、自分が作っているのものは“本来質がいいものなのか“というのも見極めていかなければいけません。
じゃあ、どこで評価すればいいんだよーーーー!!!!という問題に直面しました。
だから分析の癖をフル活用しました。
結果、皆様のコメント欄や個人鑑定でのお言葉がそれを物語っていました。
私にとって自分褒めノートは皆様のコメント欄なのです。
その時に“他とは違う“というワードをいくつも目にし“ぐさっとくる時もあるけれど、気づきになった“であったり“世界観がいい“と言っていただけたり。
確かにそこには確実に、私にしかない褒めノートが存在していました。
数字じゃない。正確に私のリーディングを見てくださっている人たちばかりです。
ご相談いただく時にも感じます。こんな素敵な人たちが、こんな素敵な技術を持たれている人たちが、私の動画を見てくださっていたのか。と思うことが多い。
だからと言って、全てのコメントを鵜呑みにして、気持ちのいい湯船につかるわけでもなく、嫌なコメントや、指示を受けたからと言って、変えるつもりもありません。そこからも自己分析です。
私は自分で調べて、実践して、結果を知っていく過程がないと“最終的な納得“はしないからです。
なので、これからも精進は怠りません。私は常に独創的でありたいという気持ちが強い人間です。だけどそれを全面的に押し出せば、それは“一人よがり“
ひとりよがりにはならないように、分析は私の友達です。やりすぎると悪魔のようにもなってしまうから、いい塩梅を模索することも同時進行。
改善点はいくつもある。変わり者だからこその問題点。
でも実はこういう時が一番楽しかったりします。
常に変化していくことが好きだから。常にコロコロ変わっていくことの方が面白いから。
だけど、信念は揺るがない。この信念を持っているから難儀なのですが、それでこそプレイし甲斐のあるゲームみたいなものなんですよね。
トロピコという独裁者シミュレーションゲームをプレイしても、私は絶対に“国民みんながより良い環境“を目指して作ってしまいます。
私はそういう人間なのだから、それを貫いてやっていくしかないなと自分に呆れながら、今日も今日とて頑張ろうという気持ちを持っています。
多分、嫌われ者の私だったからこそできること、表現できることがたくさんあるし、この揺るぎない信念を当たり前のように貫いていけると、私は私を信じるのと同時に、私を信じてくださる皆様に恩返しをし続けたいのです。
REN
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