『伝習録』(でんしゅうろく)を知る⑧:読書と講演会、解読力と認知の拡大

龍場での頓悟の後、
王陽明は「格物」の概念に新たな理解を得ました。
「身心修行」、すなわち精神と肉体を鍛える能力であり、心身を浄化する行為だと考えました。
つまり、私たちの心には本来の姿があり、これを「本体」と呼びます。どんな人であれ、心の中には生まれつき愛の能力があります。その上に覆いかぶさっている枝葉や汚れ、遮っているものをすべて取り除き、邪なものをすべて取り去ることで、私たちの心の本来の姿を取り戻し、愛の本来の姿を見出すことができるのです。
例えば、
小さな子供が井戸に落ちるのを見たとき、私たちは自然とすぐに助けなければならないと感じます。
両親を見れば孝行しなければならないとわかり、友人や兄弟を見れば友情や親しみを感じる必要があるとわかります。
これは、私欲によって汚されていない心は愛する事できるのです。
子供の心はそのようなものであり、それは「赤子の心」です。
しかし、人はなぜ「赤子の心」を保つことが難しいのでしょうか?
それは、社会の中で長く過ごすうちに、心が私欲に覆われ、徐々に異化されてしまうからです。

では、「私欲」とは何でしょうか?
王陽明によれば、それは愛を裏切るような考え方のことです。
例えば、
子供が井戸に落ちたのを見ても、「これは自分の子供ではないから助ける必要はない」と考えることや、「助けたら報酬がもらえるのか?人々に称賛されるのか?」と考えることです。

皆が両親に孝行すべきだと言いますが、「私の両親は何も持っていない。私が彼らを世話しても、彼らは一銭も残さないし、またよく私を批判する。孝行しても見返りがないのに、なぜ孝行すべきなのか?」と考えることです。

兄弟や友人に対しても、「彼らが自分よりうまくいっていれば嫉妬し、自分よりうまくいっていなければ価値がないと感じて遠ざける」というような考え方です。

このような考え方は、私欲に覆われた心です。
それはもはや本来の姿ではなく、常に「この行動が自分にどんな利益をもたらすのか」を考えています。
これが愛のない心です。
愛することのできない心は、根を失った木のようなもので、成長することができず、枝葉を茂らせたり花を咲かせたりすることもできません。

従いまして、
王陽明が言う「格物」とは実際には「格心之非」(誤った思想や考え方を正す)を意味しています。
つまり、
外部の物質や私欲を心に積もった塵埃(じんあい)をすべて取り除くことです。
これによって、
心はその機能を回復し、愛する能力を取り戻すことができます。
そのため、
王陽明が言う「格物」と朱熹(しゅき)が言う「格物」とは異なるものです。

王陽明は、「天理」の概念も変わるべきだとします。
王陽明は「天理即是明德、窮理即是明明德」と述べています。
「明德」は、私たちが言う心の本体であり、生まれながらに持っている、一切の汚れのない心です。
「明明德」の最初の「明」は「磨き上げる」という意味であり、生まれながらに持っているその心を磨き上げ、外部の汚染から守り、善良な人の心、本来の姿を失わない心に保つことです。これは体の中に収められているものです。
一方、悪人の心は、光明を背くことで本来の姿を失い、天理から逸脱してしまいます。

『伝習録』には、
段階的に学問する方法がある。
より高く自己修行する入門書である。
認識の拡張が展開されている。
批判的思考(クリティカルシンキング)がある


自燃人、不燃人、可燃人とは

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