アイマイナナニカ(2)
上から続き。
私、あまりにキッツイ事を申すのかもしれないけど。
80年代の音楽を振り返れ、と言ってるのは懐古としてではない。
作曲におけるデザインパターンの一つとして、きちんと解析してから、取捨選択したらどうですか、という提案に過ぎない。
音楽に興味の無かった日本人の男の子や女の子たちが飛びついたのは、別にルックスじゃなくて。
楽曲にもパンチの利いた名曲が多くて、しかもわかりやすくてやり過ぎてないものが多かったと思う。様々なアレンジによって同じ曲が如何様にも変わるのだという事を、端的に分かったんだよね。
言ってしまえば、演奏はシンプルだが、街を歩いてもハッとさせられて、足が止まるような名曲ぞろいだったと思っている。それ位の『人の足を立ち止まらせるほどの力』を音楽から感じていた。それが英語だろうと日本語だろうと構わなかったんだよね。別に。
ただ、言うてしまえば・・・何故か、当時はイギリスのサウンドからは、そういう奇妙に人を引き寄せる魅力をもった楽器の音がワンサカと出てきていたのは確かです。ギターの音色といい、シンセの音色といい。
音色というのは『絵の具』であり。
楽器というのは『筆』であり。
演奏技法は『筆の使い方』であり。
タッチというのは『筆圧』であり。
コードというのは『絵の具の混ぜ方』である。
けど、楽器やコードだけで音色を変えている訳では無いっていう、そこから先の追求に全く無頓着な人もいる訳で。それを何も考えなかった人の絵と、何となくぼんやりしたイメージだけで書いた人の絵と、そこまでこだわった人の絵に『完成度の差』が存在する事も分かっていなくて。
これは、もう、私は何年も X 上で口酸っぱく言ったか分からないので、もう書かない。分からない人は、分からないままなのかもしれない。
イメージと言えば、こういうことがあった。
一番若い23歳の男の子が
『アコギを弾きたい』
と言って持ってきたのが『バリバリのテクノチューンのJ-POP(別に誰とは言わない)』で、しかも、曲を聞いたら『何ですか、この、ノーミスノーコンでモンスト全クリ』みたいな難易度の曲は、みたいな事になり。 えーと・・・。
さてどうしようか。
その曲が問題なのではない。彼の選択も、素直なものなのだと思うが。
彼が何故、自分でそう思って行動したのか、っていう関連性が突拍子も無くてびっくりしてしまったのだ。
”アコギを弾きたいという彼の思いをかなえつつ、この高度な『アコギの使われてない曲』でギターを練習するとか、本人は何をどうするつもりなんだ、というのを本人にわからせるためには?”
君はその人の曲を好きなのはわかった。
でも、それでギターを何故志そうと思ったのだろう?????????
『君、この人の曲を弾けるようになりたいの?』
『はい』
『で、アコギを弾いてみたいと思ったわけは?』
『好きだからです』
『あ、作曲もやってみたいなと思って。』
『あ、実はギターよりベースも興味あります。』
何か、話せば話すほど、私は何を一体どうしてあげたらいいのか、分かんなくなってきたぞw
いやw
単純な話だが、前章の終わりで、私はああいう音楽の出逢いをしたから、チンプンカンプンになってしまったのだが。
私、少なくとも、あ、これギターの音とか、ベースの音とか、これ、ピアノだなぁ、って聞いて分かったから。
この曲のシンセを弾きたいなぁと思ったら
まっしぐらにシンセ掴んだですよ。
この曲のギターを弾きたいなぁと思ったら
まっしぐらにギター掴んだですよ。
で、これ、何か生楽器でもない、シンセでもない、変な音が鳴ってるってのも気づいたけど!
つまり、人間の声以外のものを、全く認識してないんじゃねぇの、もしかして、レベル。
それじゃ、声聞こえてればいいだけだから、他のものに興味示すわけないよねー、ってのも道理なのである。 漠然と音楽に向かいたい、と思っても、音楽の何に向かえばいいのかさえも、分かってないのである。
興味が向いてないから注意を払ってないのか、その部分の周波数が聞こえてないのか、そういうのも、全く今の状態だと未知数なのである。
音楽における、最初の段階で『確たるイメージを持つこと』と、それを一つ一つ分解しながら解読していく事。
それを今度は、自由自在に組み替えて、逆方向に一つ一つ積み上げていき、曲の形に仕上げる。
私は、その重要性を何回も言ってるんだよ。
『音楽が好き』って漠然とした言葉を、『音楽の何がどうなるのが好き』という方向に変えないと、その子の願いをかなえられないし、何を教えても取っ散らかる一方なのです。
要は。
周りの人がアドバイスする時にも、その子の考え方の悪癖をきちんと見極める必要がある。
で、自力で取捨選択できる子なのかを見定めないまま、下手にアドバイスはできないんだよね。
でないと、素直すぎる子は、何でも『ハイ!分かりました!』と次々とアドバイスを受け入れていくから、そのうち、自分がやりたいことを見失い、何やっていいかわからなくなるんですよ。
本人がやりたい事をはっきりさせられて無いって事と、欲張って何でもかんでも一斉にやろうとするから散らかるのである。
あと、素直すぎるから、全部、学校の勉強みたいに吸収しようとする。その子がやりたい事をハッキリさせる事ができてないようなら、その手伝いをする人がいないと、彼はいつまで経っても音楽の迷宮の中を彷徨う事になる。
大体、人には特性や性格があるのだから。よい子悪い子普通の子ではないが。
言われた以上に良く気付く。観察力や好奇心が旺盛で、自分から興味を持って、論理的に考えを巡らせて、実行力がある子
この子に、そんなに手取り足取りの教育なんか必要ないし、自力で勝手に伸びていくのだからほったらかしでも構わない。言われたことしかできない子
言われたことは『ハイ!分かりました!』と素直に聞いてしまうのだが、自分で考えてないで、言われたことを黙々とこなす。
すくすく伸びる様に見えるのだが、そこから先が無い。
何か言われても、何故そう言われたのか、全く意味も分かってないけど『言われたからやってる』ってケースもある。言われたことが出来ない子
この子の扱いは、非常に慎重を要する。
というのは、耳コピができないというのは、訓練をした/しない、の問題では無く、本人が難聴を自覚してないケースがあったりする。或いは、音程が狂って聞こえてるとか、周囲の音を分離して聞き分けられないなどの問題について、親どころか本人が自覚していないケースもありえる。
聞こえる/聞こえてない、でいうなら聞こえているのだが。
子供の段階で、自分が、その周波数を聞き取れてない/聞き取りづらい事を、自覚などできる子がいるのかな、と。また、それを親や周りに的確に伝えることができる子が、一体いくらいるのかな、と。
出来る能力があるのに、やれてない子というのもいたりするし、我流で練習もしてないのに、何故か妙な自信を持ってたりして、人のアドバイスは聞かない、という場合もある。
先に出てきた男の子は、またこれとは違っている。
きちんと話をして、論理的な説明をすることで、自分で改善の手がかりを整理して、自力で回答を得るように育てることができる芽が残っている。
ただし、人の話を聞いても、正しく伝わったかどうかは、確認しなければいけない所があるから・・・
どっちにしたって時間はかかるのよね・・・。
元から、自分の中の”好き”が、ハッキリと明確なら、その突破口を見つけやすいし、キチンとターゲットを絞れるならば、その問題解決の糸口は、自分できちんと考え、把握できるのだが。
それをできてない人に
『これ聞くと勉強になる』
『あれ聞くと勉強になる』
を下手にやらかすと、ますます迷宮の前にトラップを置く行為になりかねない。それも判断を自分でしない、取捨選択を自分でしないような、素直な人ほど混乱になっていく。
そうした子に、作曲を教えても、結局は技法の丸暗記になってしまう危険をはらんでいるのだ。
そうなると、色んなことはよく覚えているのし、理論についてもきちんと分かっているけど、パターンをとっかえひっかえしているだけで、自力で発展させたりできないという、応用のできない人になってしまう。
この辺の匙加減って、マジ難しくて。初見の人に的確なアドバイスのできる人など、本当にいるのだろうか、とさえ思える。
理論教育の中から、自力でそれを使いこなせる段階まで導いていく教育の難しさ、と言えるのかもしれない。
どっちにしても、マンツーマンの対話が、欠かせない事になってくる。
ここに子供の頃からの親子の間の対話があれば、もう少し、その子が音楽の道に進む時に、苦労は無かったかもしれないと思うと。
昨今の様々な情勢に対しても、些かの懸念を抱くのは確かだ。
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