一言で言うならば。

「音楽の表現の極限を目指すという事が70年代の美学」なら
「音楽の表現の最適化を目指したのが80年代の美学」と言えた。

要は、音楽の「究極の二郎系ラーメン」を求めたのが70年代の美学だとしたら「それ、一回無しにして、ラーメンの基本とか、中華そばに戻しません?」という動きだったと思うのよね。


この話も、何遍もしたか分からないが、今の日本ってのは「何事にもマシマシ」っていう分かりやすい商業的な記号を使いたがる。そして、それに慣らされた人ってのは、それ以降、何を食っても「薄っぺらいもの」に感じられてしまうのだ。

極端すぎる美観に慣らされると、帰ってこれなくなるどころか、基本中の基本のシンプルなかけそばに戻っても、それすら薄っぺらく感じてしまうという事になる。

感覚が高濃度のものに慣らされ過ぎて、元に戻しようが無くなるのだ。


最近、初心者の男の子たちに、音楽について教えたりしてみてる。

「こんな曲弾いてみたいんです・・・」

何、この高難易度格ゲー、ノーミス・ノーコンティニューで、派手な必殺技バリバリ使いながら全クリしました、みたいな音楽。

音はとても新しく聞こえるのだが、ぶっちゃけ「70年代の美観」のまま、それでも、その上に何かを更に積もうとして、無理に無理を重ねたような苦しさがある。

いや、初心者に、この曲を手ほどきして、練習して弾かせても、1曲弾きこなすまでに完全に挫折しかねない・・・。5年間、毎日24時間ボディビルやってたら俺のようになれるよ!みたいなのを、初心者が確実に挫折するのを分かってて「他人の真似に終始させる」様な事を教えることが出来るわけがない。

もちろん、そこにも商業的な事情は、様々絡んでいるにしても、随分と日本の音楽は罪深いことをしているな、と思うのです。


日本人が、桜の花を愛でる時。

どうせ、一度は咲いた花。
咲いた花なら、ひと時、一際艶やかに咲いて、見事に散って見せましょう。

そんな想いで事に向かうのだが。

いざ、音楽を仕事にすると、現実はチビシィー!とばかりに、見事に散る事など出来なくなる。どんなに、頭打ちになっても「その先の限界へ!」みたいな「100m短距離走の速度で、マラソンの距離を突っ走らされる」みたいな世界を、どの業界でも見かけて、どこもそれの頭打ち感が息苦しい感じがしてならない。

けれど

肩の力を抜けよ

っていったって「生まれながらに走り続けて、全力疾走ばかりさせられてきた人」がハイそうですか、と言われて、休み、くつろぎを得るかというと、それが、一番難しいことに気づく。くつろぐにくつろげないのだ。

休息したらどうですか。

いや、座っていると、何か落ち着かない気がする。落ち着いてるように見せても、その実、その状態に同時に違和感や、ある種の居心地の悪さを感じて、また、走り出さないと気が済まないような気分にさせられる。

そして、また、何か、無理やりその上に、何かを積み上げようとし出す。


まあ、限界突破できるかどうかは、さておき。

16分音符で弾いてたものを、32分音符で弾き。
BPM170を、BPM255に上げ
より速い、より華麗に、と言っても。

人の限界を肉体の側が突破する事はできない。

てのは弾くにも難しく、それ以上先へ行けない頭打ちになり、それ以上詰め込もうにも詰め込めないものに美を感じても。

何を弾いても聞いても、満足できない体になるのよな。

そして、そこから、また、その感覚が抜け去って

「あ、やっぱりいいな、これにも新しい美を見つけた」

と冷静に振り返るようになれるまでには。

相当に飽きっぽい人でもない限り、10年以上必要とするものなのだよな。


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