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Out of Class 〜神無教授の課外授業〜 【2】

(2).
 翌朝、午前八時過ぎ。薄い雲の向こうに、ぼんやりと太陽が淡い光を放っている。
 僕は既に、月城キャンパス内に到着していた。講義はまだ正式に始まっていない時期ということもあってか、この時間帯に学生の姿はそう多く見られない。
 僕の足取りは、心なしか軽かった。昨日歩いていた道のりとほぼ同じルートを辿って、神無先生の研究室がある研究棟へ向かっていた。脳裏に昨日のことを思い出しながら。
 研究室へ入ってすぐに、大きな本棚と膨大な書籍の数に圧倒されたこと。未知の言語で記された背表紙タイトルの数々。僕個人としては、本を読むことは嫌いじゃないし、興味ある分野の本であれば積極的に手を伸ばしてみたいと思う性格なので、あの本棚を目の前にした時は正直ワクワクした気持ちを押さえるのが精いっぱいだった。昨夜は帰宅後に神無先生のプロフィールを大学のサイト上で確認していたところ、専門が文化人類学だということがわかって一層嬉しさが増したものだ。僕が大学でじっくり学んでみたい分野に文化人類学は近いものがあるし、学びを深めていく上でとても参考にもなるだろう、と思ったからだった。
神無先生の本棚にある書籍の中から、今後の勉強で役立ちそうなものが見つかるといいなと思いながら僕は研究棟の中へ足を踏み入れた。
 廊下の突き当り。神無先生の研究室の扉は開け放された状態だった。
「失礼します……」
 ドアストッパーで留められた扉を軽くコンコンと叩いて、僕は室内へ足を一歩踏み入れた。神無先生は、椅子に座って机に向かいながら書類に目を通しているところだった。
「おはよう、大埼くん。早速来てくれたんだね」
「おはようございます、神無先生。もしかして、お仕事中でしたか」
「いや、大丈夫。講義で使えそうな資料にちょっと目を通していただけだよ」
「早速ですけど、改めて本を選びに来ました」
 神無先生は席を立つと、本棚の近くまでやってきた。昨日と変わって、今日は紺色の着物を着ている。
「何十年も前に発行されたものから、わりと最近出されたものまで色々とあるから、自由に見て選んでいくといい」
「ありがとうございます」
「ああ、荷物はそこのソファに置いて構わないから」
 研究室の中央には、革製の大きなソファが向かい合うように2つと、その間に木製のローテーブルが置かれていた。神無先生の好意に甘えて、僕は背負っていたリュックサックをおろしてソファの端の方に置いた。
 僕が改めて目の前の大きな本棚を眺めていると、神無先生が話しかけてきた。
「本を探す上で、こういう内容の本を読んでみたいとか希望があれば提案してあげることもできるけど、どうかな」
「えっと……、僕は日本の文化の中でも特にいわゆる妖怪や伝説上の生き物と、それらを取り巻く人々や環境について大学でより深く学んでみたいと思っていまして」
「なるほどね」
 うんうんと神無先生は頷く。
「今はあまり知識がない状態なので、できればまずは入門となる内容の本を読んでみたいなと思ってます」
「そうか。どちらかというと民俗学寄りになってきそうだね」
 言って、神無先生は本棚を見渡した。
「そうだなあ……、ここらへんの本とか、どうかな」
 一歩横へと立ち位置をずらして、すっと手を伸ばした神無先生が掴んだのはハードカバーの書籍だった。
「この本は、何年か前に自分の講義で参考書籍として使ったことがあるんだ。著者は民俗学研究の分野では有名な方で、他にも何冊か類似の内容で本を出している」
「そうなんですか」
 僕は本を受け取って、ぱらりとページをめくってみた。目次によると、日本国内における妖怪という存在の起源にはじまり、歴史を経ていく中でどういう見られ方や接し方をされるようになってきたのか、ということについて年代順にまとめられているようだった。
「面白そうですね、この本。借りてもいいですか?」
「もちろん。ぜひ読んでみるといい」
 その後にも、神無先生は参考になりそうな本をいくつか紹介してくれたのだった。その中から選んで、最終的に僕の手元には三冊の本が集まった。
「そういえば、大埼くん」
「はい?」
「差し支えなければ、出身地を聞いてもいいかな」
「西日本です。もともとは島根出身ですけど、途中から愛知へ引っ越しまして」
「そうなんだね」
「この学校へ入学するのに合わせて、一人暮らしを始めました」
 この会話がきっかけで、それからしばらく僕と神無先生とで様々な話をすることになった。一人暮らしの様子、この大学を知ったきっかけや所属学部を選ぶに至った理由などを僕が話す一方で、神無先生はというと大学の校風や雰囲気、個性的な教授陣、キャンパスごとの特色や果ては学食のおすすめメニューまで幅広く話をしてくれた。入学したばかりの自分にとっては、ありがたい話題の数々でどれも有益になりそうな内容ばかりだ。
 会話が一段落したところ、コンコン、とドアをノックする音が研究室内に響いた。
「失礼しまーす。おはようございます、神無先生」
 そう言いながら室内に入ってきたのは、一人の女子学生だった。
「……はっ、もしかして来客の方、ですか」
「おはよう、栃川さん。彼は今月ここの大学に入学したばかりの新入生で、大埼謙輔くんという」
「あら、そうなんですか」
 僕は両手に持っていた三冊の本を抱えたまま、小さく会釈をした。
「はじめまして……大埼謙輔といいます」
「こちらこそはじめまして!私は栃川麻杜(とちかわあさと)っていいます。文学部の三年生で、神無先生の講義のTAを務めてます。よろしく!」
「てぃーえー、ですか?」
 聴きなれない単語だったので僕はちょっとぽかんとしてしまった。
「TAっていうのは、ティーチング・アシスタントの略のこと。講義や先生のお手伝いをするのが主な仕事ってわけ。学内でできる学生アルバイトの一つでもあるのよね」
 話しながらうんうん頷く栃川さん。そこに神無先生も加わった。
「学外でアルバイトをする学生は結構な数いるけれど、学内でも様々なアルバイトの機会があるんだよ。中でも学生TAはその最たるものかな。栃川さんは優秀だから、前学期から私の講義のTAを務めてくれてるんだ」
 栃川さんはというと、神無先生の言葉に多少照れたような面持ちになっていたのだった。
「そうそう、栃川さん。大埼くんはリベラル・アーツ学部所属なんだよ」
「へえー、そうなんですか?海外からの留学生や帰国子女も多い学部ですよね、リベラル・アーツって」
「そこに合格できるくらいだから、相当優秀ということだろうね」
 ふふ、と微笑みながら神無先生がそんなことを言うので、僕は自分の顔がじわりと熱を持つのを感じたのだった。
「そ、そんなに頭良くないですよ、僕……」
「まあまあそう謙遜しないで。他学部にくらべてリベラル・アーツ学部は募集定員自体も少ないし、京南大学の中では難関学部って外からは認識されてるくらいだし。その狭き門を突破できたってことは、すごいことなんだよ。もっと自信持っていいんだよ」
「そうですか……?」
「そうだって!」
 語気を強めて言う栃川さんの表情は、あくまでもにこやかだ。
「私からしたらほんと羨ましいもの。私が過去に進路で悩んだ時、京南大学のリベラル・アーツ学部も受験してみようかなって視野には入れてたんだけど、結局不合格だったんだよね……その年、過去最高の受験率だったっていうのもあるんだけど」
「へえ、そんなことがあったんだ?」
「複数学部を出願してた中で唯一受かったのが文学部なんですよ、私」
「そりゃ初耳だ」
 興味深い、といった様子で神無先生は続ける。
「逆に栃川くんが文学部ではなく別の学部に受かっていたら、こうして顔を合わせる機会は訪れなかったかもしれないんだね」
「いや、それは違うと思いますよ神無先生」
 なにやら自信ありげに、にやり、と笑う栃川さん。
「仮に別の学部に合格していたとしても、私は絶対神無先生の講義を取ってたと思います。だから、どこかで顔は合わせる機会は必ず生じてたんじゃないかなって」
「その理由は?」
「神無先生の講義、めっちゃ面白いからです!」
 よく通る声で一言、びしっとそんなことを言う栃川さんの姿を僕は黙って見ていることしかできなかった。
「そうだ、大埼くん。履修したい講義とか、考えてる?もう決めてる?」
 突然、きらりと目を光らせて栃川さん僕の方を見つめてきた。
「い、いえ……まだシラバスもよく読んでなくて」
「そっか。じゃあ私からは神無先生の講義をおすすめさせて! 全学部の学生が履修できる共通科目っていう種類の中に神無先生が担当するクラスがあるから、ぜひ探してみて。毎年人気の講義だから、おそらく抽選にはなっちゃうと思うんだけど」
「抽選がかかるくらい、申請が殺到しちゃうんですか?」
「そうなのよね。履修可能な人数は決して多くないから……履修申請期間って二回か三回くらいまでチャンスがあるから、一回目で抽選漏れしても諦めずに次の期間に申し込むこと! これに尽きる」
「は、はい……ちょっと調べてみます」
「ぜひぜひ!」
 やや前のめり気味な栃川さんの言動や態度に、僕はやや気圧されてしまったのだった。
「栃川さん、大埼くんが若干引いてるからそのくらいにしといたらどうだい」
 神無先生からの言葉に、栃川さんはというと引き下がる気配はなさそうだ。
「本当のこと言ったまでですよ、神無先生。私がこの大学に入ってこれまで受けてきた講義の中でも、ダントツで大好きなんですから。友人や新入生の子たちにも常々言いふらしまくってるんです」
「そこは所属学部である文学部の講義じゃないのかい?」
「それはそれ、これはこれ、ですよ」
 ちょっとため息をついて、栃川さんは肩をすくめる。
「大学で受ける授業ってこんなに楽しいものなんだって、神無先生の講義を受けて気づいたんですもの」
「じゃあそれは最大限の賛辞と受け取っておこうかな」
 肩をゆらしながら笑う神無先生の表情は、どこか嬉しそうだ。
「そうだった、栃川さん。今日やってもらう仕事なんだけど、一点追加をお願いしたいものがあるんだ」
「はーい」
 元気よく返事をして、栃川さんは神無先生の方へと歩いていった。デスクの上にあったUSBと小さなカードのようなものを手に取った神無先生は、その二つを栃川さんへと手渡した。
「このUSBの中に一回目の講義で使う資料のファイルが入ってるんだけど、その中にちょっとページ総数の多いファイルがあってね。それは冊子の状態で印刷をしてほしい」
「なるほど」
「印刷したものはいつも通り、教員室のボックスに入れておいてね」
「じゃあいつもの場所に入れておきます」
「コピーカードはおそらく必要枚数分カバーできるとは思うけど、万が一足りなかったら教員室のスタッフに相談してみて」
「了解でーす」
 二人の話しぶりを見るに、結構打ち解けた感じに思える。教授と学生、という関係よりも気心の知れた友達みたいな雰囲気だな、と僕はなんとなく感じた。
「じゃあ私は仕事があるから、これで。ごゆっくり、大埼くん」
 にやっと笑って、栃川さんは僕の横を通り過ぎていき研究室を後にした。その足取りは軽やかそのものだった。
「……個性がなかなか強い子だよね、栃川さんは」
 僕が振り向くと、神無先生は微笑みながら続ける。
「いつもあんな感じで元気なんだ」
「そうなんですか?」
「何事も積極的で意欲を持って取り組んでくれるし、講義の時も率先して質問や発言をしてくれるしね。素晴らしい学生だよ」
 本棚の方へ再度歩み寄ってきた神無先生に、僕はこう言った。
「神無先生、今回はこの三冊を借りていこうかと思うんですが、いいですか?」
「もちろん。特に返却期限は設けないから、ゆっくり読んでみて」
「はい、ありがとうございます」
お礼を言いながら、僕は今日から借りていく予定の三冊に視線を落とす。家に帰ったら、早速今夜から読んでみようかな、と心の中で考えながら。



(2.8).
 ああ、まただ。
 そんなことを内心呟きながら、僕はどこか明確な目的地を目指すわけでもなく暗闇の中を走り続けていた。
 はあ、はあ、という息遣いをする度に肩が激しく上下する。口から空気を吸っているはずなのに、思ったよりも肺の中に空気を取り込めていないような感覚。息苦しくて、それでもなんとか呼吸を続けようとして大きく息を吸っては吐いた。でも、それも長くは続かなかった。
「はあ、はあ、……げほっげほっ!」
 息苦しさに苛まれた結果、僕はむせてしまい咳を何度か繰り返した。それに連動するかのように、走る速度が落ちてきてしまう。胸を手で押さえ、げほげほと咳をしている内に僕は遂に足を止めてしまった。両手を両ひざの上に置いて、深呼吸を試みる。乱れた呼吸を落ち着けて、整えようとしたのだった。
「──っ!!」
 刹那、ぶるぶるっとした凄まじい寒気を背中に感じて、息が整わないまま僕は背後を振り返った。本能的に、何かまずいものが急接近していきていると察知したからだった。
 果たして、僕の視線の先にいたのは、あの真っ白な狐だった。
【……】
 物言わず、その狐はまっすぐとこちらを見つめてくる。その鋭い眼差しに、僕は息をするのも忘れて体を硬直させた。まさに蛇に睨まれた蛙状態で、半歩ですら足を動かすことも叶わなかった。
 どうしよう、どうしよう。追いつかれてしまった。僕はそんなことを考えながら、どうすればこの危機的状況から脱することができるか考えを巡らせようとした。
 自らの背後で、九本の白い尾をゆらめかせながら狐はしばらくこちらを見つめていた。が、僕の様子を見て、閉じていた口をわずかに開けた。まるで、にたり、と笑っているかのようだった。まったく動くことができない僕の様子を見たからなのか、それとも何か別な理由があるのか。
 唐突に、声が響いてきた。
【お前と一緒に逃げていた奴らも、お前を守ろうとした奴も全員、もうあの世へ逝ってしまったよ】
 年齢も性別も掴みづらい不思議な響きのある声音。口調こそゆっくりと、そして優しくこちらへと語りかけてくるものではあったが、告げられた内容はまったくの正反対で僕を絶望のどん底へ無慈悲に突き落すものだった。
「え……?」
【あいつら全員、お前が住む集落の仲間だったんだろう? いやあ、思い返すだけでも笑えてくるが、本当に無残な最期だったよ。火だるまにされて、苦しみもがいて、みじめに地面をのたうち回って死んでいったんだからなあ】
「やめろ!!」
 僕は思わず叫んで、両手で耳を塞いだ。震えていた両足から、急速に力が抜けていくのを感じた。脳裏にこびりついたあの痛々しい悲鳴と惨劇の模様とがふつふつと蘇ってきて、僕は胸が締め付けられる思いだった。
 がくり、と僕は地面に両膝をついた。ざらざらとした、冷たい土の感触を覚えながら。
【なあ、お前。もう独りぼっちだな】
「うるさい……、うるさい……!」
【寂しいよなあ、辛いよなあ。独りは嫌だろう?】
「うっ……ううう……」
 耳を塞いでいても、不思議なことに声ははっきりと聞こえてくるのだった。まるで自分のごく近くにいて、耳元へ直接話されているような感覚に見舞われる。さっきから冷汗が止まらず、体も小刻みに震えていた。
【だったらお前のことも、あの仲間たちのもとへお送り届けてやろうか?】
 なんとも気軽な物言いに、僕は俯き加減の顔を上げて狐の方を見た。相変わらずニタニタとこちらを嘲笑ってくる表情をしていた狐だったが、ふいっと頭上を向くとその数メートル上に炎の塊が出現した。
 ぼっ、という音ともに現れた火炎は丸々としていて、渦を描きながら徐々にその大きさを増していく。その光景に、僕はごくりと生唾を呑みこむことしかできなかった。
 赤い炎の塊に照らされた狐の体表は、きらきらと細やかな輝きを放っていた。毛の一本一本が光っているような、そんな光景。
【なあに、心配するな。あいつらとは違って、さほど苦しまないようにしてやるから】
 そんな声が聞こえたと同時に、狐の頭上で大きく育った炎の塊がごうごうと音を立てながら僕の目の前に迫ってきたのだった。

「……わああっ!!」
 自分の発する絶叫に驚いた僕は、ベッドの上で飛び起きた。両手に力を込めてずっと布団を握りしめていたせいなのか、指先がじわじわと痛む。照明がついていない自室は暗く、僕はしばらくぼんやりと虚空を見つめながら肩で息をすることしかできなかった。

【3】へ続く

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