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文化だからといって全てを見過ごして良いのか

 私が一貫して主張することは、もうみなさんお分かりの通り、相手の文化を否定したりしてはいけないということです。私たちの価値観をもってして、異なる価値観を持つ異文化を評価したりすることはできません。これは、食文化に関しては、広く当てはまるのではないでしょうか。
 例えば、中国では一部地域でイヌを食べる習慣があります。これはたしかに私たちには理解し難いかもしれませんが、日本にはそれが文化として成立しなかったので当たり前です。一方、日本においてはクジラを食べますが、私たちが、イヌを食べるのを信じられないくらいに、欧米人たちにとってそれは理解できないことです。というように、食文化はある程度"お互い様"と考えています。というか、お互い様というような消極的なものではなく、もっと胸を張るべきと考えています。共に理解できない部分があるのは当たり前だから、決して相手の文化を蔑んではいけない。例えば日本人が、イヌを食べる習慣を否定したとしたら、欧米人からクジラを食べる習慣を否定された時には、それに反発してはなりません。相手を蔑むということは、逆に蔑まれた時に、それに反発する資格はないというのは、少し考えればわかることです。食文化に関しては、これが強く言えると思います。
 食文化の特徴は、決してどこの国も悪意をもっている訳ではないということです。中国人も、わざわざイヌを喰らってやろうだなんて思っていないですし、我々日本人もクジラを喰らってやろうだなんて思いません。きちんと美味しいという感情を持って、真摯に向き合っていますから、「文化はそれぞれ」をまだ主張しやすいのです。しかし、文化といえば何でもいいのかというと決してそうではありません。
 「正しさ」とは、その国その地域内で多数の人に理解を得られて認められてこそ成立します。食文化がいい例です。(基本的に)日本人のクジラを食べるという習慣に関して大多数の人が理解を示していますし、実際に食べます。多数決が良いというわけではありませんが、多くの人からの理解を得られていることは大きいです。例えば中には、人を殺してしまうことも文化として正当化しようとする者もいます。一部のイスラーム教の国では、女性が婚姻拒否や駆け落ち、自由結婚をする、いわば家族が決めた結婚方針に従わないことは、とても良くないことと捉えており、その者を親族であるにも関わらず家族の名誉のために、家族が殺してしまいます。これを「名誉の殺人」と言います。宗教との結びつきが強い国でのこういった風習は、ある種文化と言えるかもしれません。けれど、これは見過ごしていいのでしょうか。
 先程言いましたとおり、文化が帯びる「正しさ」とは、大多数に認められてこそ成立する部分は大きいのです。その分存在感も増し、それだけ世界からも認知、評価されやすいからです。けれど、殺されてしまうという問題に関して。そもそもなぜ、婚姻拒否や自由結婚を女性達がするかというと、そういった慣習の方針に不満があるからです。認めていればおとなしく家の決まりに従っているはずです。つまり、同じ国内地域内の者からすらも理解を得られていないわけです。再度言いますが決して多数決が正義ではありませんが、同じルーツを持つ者からも理解を得られていないものは果たして文化と主張してよいものかは疑問です。そもそも、同じ人間が殺されているということはやはり看過すべきではありません。同じ人間が殺される現実を認めるということは、自分が殺されてもいいと言っているようなものです。(やや極端な気もしますが)
 何が言いたいかというと、文化にはそれぞれ、信じる「正しさ」があります。ですから基本的にそれぞれが信じる「正しさ」を尊重しなくてはなりません。それは食文化の例でお話ししました。しかし、「名誉の殺人」のように、自国民すらも完全に認めきっていないものはやはり、正しさとは言えません。そもそもこれは、殺人を執行する人が考える「正しさ」であり、殺される女性の考える「正しさ」では当然ありません。ある種「正しさ」とは国内で統一されるべきものなのかもしれません。
 もし、この「名誉の殺人」という文化が、国内の多くの人に認められて、殺される女性側からも理解を得られていれば、殺される側も認めていることだし、良いのかもしれないと考える余地はまだあります。しかしそうではないのです。文化と言えばなんでも許されると勘違いをして、本当に悪事を働く者が出ないか心配です。

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