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国籍は思ったよりもずっと重いもの

 私は改めて問いたい。国籍や文化とは何を意味するのか。「〇〇人」を「〇〇人」たらしめる所以はどこにあるのか。様々なルーツを持つ人々が共存する現代において、そうした模索をする姿勢を、未来に繋げていくことが必要だと思う。
 社会がいかにグローバル化しても、あるいは自分の文化やルーツを断ち切ろうしても、どこかしらで自分が生まれ育った文化を人は背負い続ける。しかし、生まれ故郷を離れ、異国の地で育ち、その地の言語と文化を、現地人と同等に身につけたとき、ある問いが生まれる。
 小説家で、台湾生まれ日本育ちの温又柔氏は、長らく日本人であると自覚していた。しかしある時から、外国人登録証明書を携帯し、日本における選挙権が与えられない自分は本当に日本人なのかと思い始める。温氏の書籍の中にはたびたび「私は日本人か、台湾人か」という問いかけがなされる。
 私は、温氏のように、生まれは台湾であっても、日本の文化に囲まれながら育った場合、自分は日本人だといえるのではないかと思う。国籍や文化は、決して破ることのできない厳重な囲いとして認識されがちなように感じる。この囲いの中には純日本人しかいないし、純日本人しか認めないと。しかし、温氏のような人々もいるのも事実である。温氏は台湾で生まれた一方、日本人と同じように日本の文化の中で育ってきた。幼少期から日本人と同じ教育を受け、日本語を用い、日本文化に浸かってきた温氏の中に、自分は日本人であるという自覚が芽生えることは必然であるし、台湾人の両親のもとに産まれたというのもまた事実である。世界の人々全員が純現地人であるとは限らない。そういった人間も世の中にはいるのだと認識し、理解する必要がある。そういった認識が十分にされないからこそ、争いやヘイトスピーチが絶えないのではないか。
 多文化共生を実現するには、いろいろな制度を設けるよりも先に、全員がこういった認識をする必要があると思う。十分な理解が得られていないまま、枠組みやシステムを作ったとしても、その効果は最大限に発揮されない。日本をはじめとした「国民国家」は、異民族集団との共在を認めない。それに属する人々が排他的あるいは内向的になる傾向がある理由はそこにあると考える。彼らはたびたび、自分たちは単一民族だと主張する。しかしどの国も、長い歴史の中では何らかの外界勢力の影響を受けた。日本も同じである。皆等しく根本は多民族国家なのだ。それが、近現代において「国民国家」というシステムをとるようになって、あたかも自分たちは古来から、外側の影響を受けることなく独自の文化を創ってきたと錯覚するようになったのではないか。
 温氏の書籍を読んで、思えば中国と日本のハーフである私も、日本生まれである点では日本人であるが、純日本人ではなく中国と日本のルーツを持つという点もまた事実であり、もしかしたら中国で生まれ育ったかもしれない。あるいは全く別の地に生まれたかもしれない。その時私は、自分が何人であると自覚しただろう。そう考えた時、結局自分の身につけた言語や文化が、個人を何人か決定する一つの指標になるのではないか。例えば知人に、あなたの父親は何人かと聞かれたら私は迷わず中国人と答えるだろう。父は日本国籍で"日本人"であるにも関わらず。
 必ずしも自分の生まれた国がそのまま自分の国籍に直結するとは限らないし、日本国籍だからといって日本人であるとは限らない。つまり、法的な国籍と自覚の中の国籍とは区別しても良いのではないか。確かに国籍というシステムは、自国民を守るために必要なものである。一方で述べてきたように、国籍とは法的にのみ括ることは出来ない。つまり、国家が大衆に向けて、公上と法上の国籍は別物だと宣言すればいいのではないだろうか。国家が大々的に様々な人種の存在を認められれば、多くの人々の理解を得られるのではないか。

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