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幸せを量的に語ろうとした功罪

大学生になってから様々なことに挑戦した。一般的な大学生のような活動の他に、フィンランド留学、学生起業、東北一周、フルマラソン、夜職など少し奇抜なものまで。そして今アフリカを縦断している。経験するために、幼少期からの貯金を溶かしたり、親からお金も借りている。大学生のくせに金遣いが荒いと言われる。しかし、それらは気に触れるとことではない。この価値観を持った理由について少し話してみようと思う。そして、この考えが最近の私も蝕み始めてきていることについても触れさせてほしい。(今回は、常体で書かせてください。自分の個性がわかりやすいと思うので。)


経験に価値を置く理由

思い出が複利的に幸せにする

一つ目の理由を代弁してくれるような本があった。

“覚えておいてほしい。人生で一番大切なのは、思い出をつくることだ。”

DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール by ビル・パーキンス

この本の要点はこうだ。
新しい経験によって人は思い出を作ることができる。この思い出は死ぬまであなたの記憶として残り、複利的にあなたに幸せをもたらす。

例えば高校時代の友達との卒業旅行は、大人になった今も思い出に浸ることができる。何か面白い話があれば他の人に共有することもできるし、当時の友人との話に花を咲かせることもできるだろう。こうやってたくさんの思い出を作ることで人は幸せになるという、幸せを量的に捉えた考えが私に染み付いている。

自分・物事の新たな側面を知る

私は経験にこの点も期待している。アフリカ縦断のような、特定の環境や刺激によって私は何を思うのか、違う自分の側面を知れるのではないかと期待をして臨む。もしくは夜職や北欧留学のような、人が得体を知りにくいことを経験することで、それがイメージ通りなのか、ギャップはあるのかという点を期待していく。

特に後者の目的で、実際にギャップに気づけた時、私はドーパミンがすごく放出されたような気分になる。この感覚が欲しくてたくさんの経験を追求しているといったも過言ではない。

経験をしすぎたことによる日常のもどかしさ

しかし、この経験を追い求める生活に最近大きな弊害を感じ始めている。それは日常の中の生活において、幸せを感じるハードルが上がっていることだ。

例えば一般的な大学生の楽しみとして「サークルの飲み会」を考えよう。飲み会によって得られる幸せは前項の観点で考えると、

“思い出にすることができるか“
“飲み会もしくは私の新たな側面を知ることができるか“

と言える。しかし、たかが数時間の人との交流で知る内容、ましてや酒が入った状態で覚えていられるものも少ない。そして、飲み会という事象自体に新たな価値側面を見出したり、自分について気づくことは限りなくゼロに近い。

想像してみてほしい。何十回と経験した飲み会のギャップなどがあるだろうか。自分がどれだけお酒が強いのか、酔うとどうなるのかといった程度にとどまるだろう。それすら十分に発掘されているのだが。

決して飲み会を否定しているわけではない。交流の場でお酒を交わすのは、無論楽しい。しかしその快楽的な喜びが刹那的に訪れた後、少しばかりのもどかしさが私に残るのだ。言わずもがな、ドーパミンが放出されたあの感覚に敵わないからー

つまり、従来では幸せだと感じられていたものが、経験によって得られた比較により幸せとして感じにくくさせている

現代はアクセスができる社会、それは幸せなことか。

少し規模の大きな話をさせてほしい。100年前の人間と比べて、世の中は本当に便利になった。洗濯機、飛行機、食器洗い機、電話、携帯電話、コンピューター、電子メール。時間を節約し、生活にゆとりをもたらす無数の機械や手段が発明された。
この技術革新によって私のような大学生が、インターネットを駆使して情報を獲得し、飛行機で日本から10000キロ離れたアフリカに行き、スマホの翻訳機を使ってコミュニケーションをとることができる。これは間違いなく技術進歩の賜物であり、100年前の人より経験がしやすくなったと言えるだろう。

しかし、この経験は私にとって幸せにつながっているのか。帰国をすればまた日常に戻る。そこで得られる経験との天秤にアフリカ縦断は重くのしかかってくる。天秤に打ち勝つため、きっとさらに大きな経験を求めるようになるだろう。経験の呪縛から逃れられない私が、今後雲一つない幸せを味わうことができるのか不安でしかない。量的に幸せを語ろうとした結果、日常という人生の長い部分を占める箇所で量的に幸せを感じにくくなるという皮肉に陥っているのだ

このラッドレースから抜け出す方法を今模索している。しばらくは目を瞑っているが、ウルトラCのような価値転換が私には必要だと感じるばかりだ。

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