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終戦記念日に思う
戦争を知らない私に、過去の戦争を語る能力はないし、ましてその資格もない。しかし、現在や未来を論ずることはできる。今日という日に、戦争のない世界という意味での平和について考えてみたい。
現代社会は、「力による平和」の状態であると言われる。各国が力を持つことで、互いが互いに対する抑止力を均衡させているという考え方だ。言い換えれば、可燃ガスが漏れ続ける密室で、それぞれが握ったライターを点火しない状態ということになるだろうか。火が出なければ火事ではない、というのが「力による平和」だ。
抑止力という点でしばしば対象になるのが、核兵器だろう。相手が核を持っているから、対抗してこちらも核を持つ。その繰り返しの結果が、現代世界に眠る大量の核兵器だ。人々の平穏な生活を文字通り一瞬で壊す核兵器によって、その平穏な生活が保たれているとは、何とも歯痒い。
この核抑止力という矛盾に対して、昨年国連で採択されたのが「核兵器禁止条約」であった。原子力の平和利用(代表例は発電所)を除き、原子力の脅威を排除しようとする内容で、百を優に越える国が批准した。
その中で、日本が条約に反対の立場を示したのは、個人的に非常に衝撃的だった。二度の原爆に加え、第五福竜丸の被爆の歴史がある日本が、議論をボイコットさえして無視を決め込んだのは、残念というレベルではない。
日本政府の言い分は「核保有国の理解が得られなければ無意味である」とのことだ。では、誰が彼らに条約の意義を理解させるのかと問いたい。主導すべきは被爆国ではないのか。
この条約に対する見解は既に多く存在する。日本の立場に賛成する論としては、「この条約が核保有国と核非保有国との溝を深め、かえって核廃絶への道のりが遠くなる」というものがある。この考え方には、核保有国の認識を変えようとする努力は見られない。
私は言葉の力を信じている。形のない言葉が直接核兵器をなくすことはできない。しかし、形のない言葉が、形のない人の心を動かし、形ある行動に繋がる可能性は大いにあるはずだ。私には、日本が条約を批准しなかったことよりも、条約の成立過程で発言そのものを拒んだ事実がもどかしい。
来年の今日になれば、終戦は「二時代前」の出来事になる。また一つ、戦争が遠くなってしまう。流れ行く時間の中で、悲惨な戦争を語り継ぐのも、凄惨な戦争を防ぐのも、ひとの言葉だ。
今日は「平成最後の終戦記念日」である。
(文字数:1000字)
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