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手と声と愛と

耳が聞こえないらしい。母親と一生懸命に手話で会話している。職場から帰る電車で偶然そんな親子の真正面に立ったとき、私は動揺してしまった。

——こういう光景を見て、かわいそうだと思ってはいけない。たとえ耳が聞こえなくても、現に手話で楽しそうに話しているではないか。障害を障害と思ってしまうことが、いわゆる「健常者」との壁、すなわち障害を作ってしまう。今とるべき適切な行動は、行動をとらないことなのだ。気にしてはいけない。

そう思えば思うほど、目の前でのやり取りが気になってしまう。他の場所に移ろうにも車内は混雑していて動けない。必死で窓の外を見つめるが、頭の中のモヤモヤは留まるばかりである。地下鉄の真っ暗な車窓はやけに焦燥した私の姿を反射する。

いてもたってもいられず、明るい洋楽が流れるイヤホンを耳から外した。聞こえるからこそ成り立つ電子機器なんて、耳の不自由な人の前で使っていられるはずがない、という得体の知れない衝動に、私の存在が今にも破裂せんばかりだったのである。しかし静寂は訪れない。車輪がレールに擦れる音、車体が地下の風を切る音、車内に遠慮がちに聞こえる話し声。様々な波が私の聴覚を痛いほどに刺激した。

——やめてくれ、なぜこんなに聞こえるんだっ。

普段は気にも留めない日常音が、今は何よりも煩わしい。ただでさえ騒々しい胸の中で轟音が共鳴する。

——うるさい。

この空間の音波が、全部まとめて私に押し寄せてくる気がした。身体の内外でざわざわする感覚に圧倒される。緩やかに掛かる地下鉄のブレーキは、耳をつんざくような高音で響く。

——騒がしすぎる。こんなことなら、いっそのこと何も聞こえなくたっていい——。

ふっ、と、我に返った。目の前の親子は変わらず微笑みながら手話を交わしている。しかし、その裏には聴覚障害という事実が隠れている。母親の声が聞こえなくてもいいなど思うこどもがいるはずがない。「何も聞こえなくたっていい」わけがないのだ。

窓の外がぱっと明るくなった。駅に着いたらしい。母親はまだ話し足りない息子を優しく制して、ゆっくりと電車を降りて行く。そしてホームに降りると、彼女はすぐに息子の手を取った。その親子にとって、手が互いの愛をしっかりと繋いでいるのだろう。その二人を追い越す車内で、ふと自分のてのひらを見やる。

——今日は母の大好きなケーキを買って帰ろう。夕飯の時には、そうだ、あの話をしようかな。

(文字数:1000字)

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