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「学生のうちに遊ぶ」という蜃気楼

間もなく、社会人になって1年が経つ。昨年の今頃は何とも言えない緊張感と高揚感に包まれながら過ごしていたものだ。配属も同期の人数も全く知らされていなかった当時の私には、一年後にこうして毎日神経をすり減らして顧客の対応をしながら、PCに向かってぶつぶつと不平を漏らしていることなど思いもよらなかった。「光陰矢の如し」とは言い得て妙である。

平日5日間のほとんどを会社で過ごし、週末はその疲れをわずかに癒すのみで終わってしまう毎日。大学時代に日々自由な生活を送っていたことを考えれば、全く異なる状況である。もはや「暇」などという概念は希薄になりつつある。

こうしたとき、しばしば耳にする言葉を思い出す。「学生時代に遊んでおくべきだ」。社会に出れば遊びたくても遊べないのだから、自由な時間がたくさんあるうちに思う存分遊んでおけ、と。多くの人が共感する意見だろう。

私個人の場合で言えば、仕事で疲れた時には「どこかに行きたい」という思いが湧き上がってくる。それは旅行のような大それたものではなく、通勤定期の範囲から二駅も離れれば十分である。まだ知らない街に降り立って、目的もなく歩きながら、ふと浮かんでくる考えを心の中でゆっくりと転がす。そんな時間が、不意に欲しくなる。

これを友人に話したところ、彼は違う夢を語ってくれた。一日音楽スタジオを借り切り、創作活動に励みたいという。「やろうと思えば休みの日にできるんだけどさ」と笑っていたが、それは私も同じである。私たちは些細なことを渇望していた。しかし、そもそもなぜ私たちはそれを求めてしまうのだろう。こんなにちっぽけなことで癒せるほど、日々負う傷はそう軽くないはずなのに。

考えてみると、私の逍遥も友人の音楽活動も、大学時代にそれぞれが趣味としていたことなのだった。翻れば、「学生時代に遊んでおけばよかった」という後悔は、その時代に遊んだことの残像のように思えてくる。実際に遊んだからこそ、その頃が無意識に懐かしくなったときに、そっと恋しくなるのかもしれない。遠く離れた学生時代の過去は、屈折した感情が交差する社会の中で幻に見える。「遊んだ」という現実を、「遊んでいなかった」と感じさせてしまうのだ。

遠くの風景が、光の屈折によって反転して浮かび上がる。それを目の当たりにすると、人々は見えるはずのない幻が現れたと感じるのだという。そんな幻想的な現実、これを蜃気楼と呼ぶ。

(文字数:1000字)

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