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小鳥の歌は永遠に

こんなエッセイを投稿すると、読者の皆さんの中には「また現実離れしている」「非科学的だ」などと思う方もいらっしゃるかもしれないが――。


私が仙台で2011年の地震を迎えたことは、この場でも既に何度か書いている。今夜は、その直前のはなしである。


当時、私は一羽のセキセイインコを飼っていた。小学1年生の時に、両親にせがんで買ってもらった雛が育った。我が家の一員になってから丸10年が経とうとしていた彼は、かなりの老齢だったはずだ。それでも元気にカゴの中を跳ねながら、玄関で毎日美しい歌声を聞かせてくれた。

家族はみな、彼のことが好きだった。だからこそ、彼の年齢への心配が日に日に高まっていたのも事実である。夜はカゴに毛布をかぶせて眠らせていたが、朝になって彼がカゴの床に落ちていたら――と話すこともしばしばあった。


その朝も、少しの緊張を胸に毛布をはがした。毎朝のカゴの掃除と餌・水の交換は私の仕事だ。彼は少し眩しそうにしながら、おはようの「ピー」を告げた。玄関の外にカゴを移して空を見上げると、まだ肌寒い3月の青空が清々しかった。

カゴの扉から手を入れて、餌入れを取り出す。そこへ息を吹きかけると、彼が餌を食べた後に残った穀物の殻が吹き飛ぶ。その後に新しい餌を継ぎ足すのだ。何年も続けていることでも、なぜかこの瞬間が好きだった。小鳥が食べたものに口を近づけるという仕草で、心の距離が縮まるような気がしていたのかもしれない。

再び扉を開けると、彼は私の手に近寄り、私の指にかみついた。インコの愛情表現としてよく知られている行動だが、その日は少し痛かった。気にせず手を入れたままにしていると、徐々にその強さが増していく。思わず手を引くと、その勢いで彼も外へと飛び出した。何度思い返しても、なぜその一瞬で外に出られたのか分からないのだが、気づいた時には地面に彼が立っていた。

カゴに戻そうと追いかけると、しばらく私の目の前でうろうろした後で、一気に飛んで行ってしまった。そして戻ってくることはなかったのである。


そして翌日、地震が訪れた。


彼は災害の到来を予感していたのだろうか。地震で崩れた下駄箱は、空っぽになったカゴをつぶしてしまった。

それとも、死期が近いのを悟って、私たちにその姿を見せないようにしてくれたのではないか。

どちらも私の妄想で、翌日の地震も偶然と考えるのが道理だろう。それでも、そう結論付けたくない私がいる。


(文字数:1000字)

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