noteをずっと書いてみたいなと思っていた。 中高生の頃は、暇さえあればブログやFacebookに行く宛てのない思春期の葛藤や、終わりのない悩み事なんかを書き連ねては、朝起きて我に返って消していたものだった。 そんな私が約5年振りに言葉を紡ぐ気になったのは、ありきたりな動機だけれど、あの日から10年経とうとしているからだ。 あの日、私は13歳だった。 中学校生活の洗礼も一通り受け、先輩に脅えながらも、2年生になったら部活動でも先輩になることが出来ると胸を躍らせていた、
タイトルそのまんま。 お金を稼ぐってどういうことだろう?と社会人5年目にして考える。 大学卒業して、就活事故って、でも全てが経験だったんだと思えるくらいには安定している「今」をやっと手に入れた。 無我夢中でやってきて、一段落して、さて自分は何をやっているんだろうと悩み始めた。もうこれは病気なのかもしれない。 死ぬまで多分こうやって葛藤し続けるんだろうな。仕事が忙しくて、寝たいのに睡眠時間を削ってこれを書いている。悩みながら思考をアウトプットすることが、私にとっては息を吸うこ
いつか来る別れを覚悟していたつもりでしたが、いざとなると驚きを隠せません。何事にも打ち勝ってきた鉄人の祖父もいつかはこうして居なくなってしまうんだなということを今になって感じています。 祖父との思い出は沢山ありますが、幼い頃の思い出で色濃く心に残っているものがあります。 保育園の運動会で、祖父が徒競走に出たことです。 寡黙な祖父が、ピンクのハート型のゼッケンを貼られ「ちなつちゃんのおじいちゃん」と書かれていたのを笑っていると、ピストルが鳴り響くと共に、アスリートだった祖父は
2013年 世の中の全てを憎んでいたと言っても過言ではない中学3年生の私の唯一の楽しみは、テレビを観ることをあまり良しとされていない我が家でただひとつ許されていた「音楽番組」だった。特に、スペースシャワーTV。ただただ音楽がずっと流れているこのチャンネルを暇さえあれば観ていた。 色んなバンドが好きだった。オタクだったから主にタイアップをするようなバンドなんかは特に。 両親はビートルズとクイーンが好きで、実家は常にテレビではなく、いいスピーカーでなんかしらの音楽が流れている家
年末年始、何年かぶりに故郷に帰った。 雑踏の中、人混みを掻き分け、荷物を背負い直し 東京駅の東北新幹線ホームに立ったら、乗る予定の一本前の新幹線がホームに入ってきた。 窓から身を乗り出し、声を上げている車掌さんが目に入った途端、訳も分からず結構な量の涙がぽろぽろと溢れたので、慌てて上を見た。 やばい、これじゃまるで夢破れて田舎に帰る女みたい!と涙腺をギュッと引き締めて新幹線を待つ。 自分でもなんの涙かよく分からないので色々と思案して暇つぶししていた。 悲しい涙ではない
私はアッラーもイエス・キリストも仏陀もなんでも好きだ。 自分で言っていて意味不明だが、漠然と好きなのだ。 日常生活で何か頑張らなくては乗り越えられないことや、しんどいことがあると 「ハァ〜神が与え賜う試練っすね〜」 って言う。マジで口に出して言う。周りからするとちょっと変なやつかもしれない。 都合のいいようにしか神を信じていないので、別に敬虔な何かの信者ではない。ただ自分が何かを頑張る時、人のために生きる時、どこかで誰かが見てくれていると思いたいのだ。創造主、きっと私のこ
結論から言うとリストラに遭った。 少しまた暗い話をしてしまうけどそんなに本人は落ち込んでないので笑って欲しい。 今の仕事は、苦労が格段に多かったけど、自分の成長を感じていたし、学ぶことが多くて楽しかった。 その反面インシデントが多く、何度話し合っても改善が見込めず、経営はガタガタで、常にクレームの絶えない職場だった。それなのに気分屋の経営者は人を片っ端からクビにすることで定評があった。 私は仕事ぶりを評価され、幸いなことに気に入られて不自由は少なかったけれど、明日は我が身
帰省した。 いつものように食卓でなんやかんやと弁論した後、父は赤ら顔でそう言った。 「俺達はそういう星の下に生まれたから(しかたない)」 自分の中にある正義を貫いて生きていくにはどうしたらよいか?というテーマだった。 世の中には理不尽なことばかりがあって、正しいことをしていればお金持ちになれる社会ではないと気付いたのはもう数年前。 このnoteに書いてきたような、そんなジレンマを、25歳当時の父親も感じていたのだろうな、と思った。 昔ならもっと「力づくでも正しいと
ハヤリモノが嫌いな私が、まんまと今流行りの「サウナー」になってしまったのは、たった2ヶ月前の話である。メンヘラの長い自分語りだが、メンヘラを治したい人はぜひ読んでほしい。 それより少し前の7月。 私は、ほぼ毎年恒例の自律神経失調症を患っていた。356日体調がどこかしら悪い私。 季節問わずアレルギー持ち、元喘息、偏頭痛、緊張性頭痛、生理痛重い、ホルモンバランス悪い、太陽光苦手、人混み苦手、乗り物酔い、胃腸が弱い、エトセトラ、エトセトラ… 挙げればキリがないほど、「持病と名
また、ネット上で悲しい議題を目にしてしまった。 「母の日喜んでもらえなかった、元・子どもたち」の嘆きである。 いらないと言われた、趣味じゃないと言われた、プレゼントを放置された、親の金だろと怒られた、などなど。 世の中にはこんなに沢山の人が毒親に育てられてるのか…と思うと悲しくなるくらい、沢山の悲しい思い出がコメントで語られていた。 ふと、自分の今までの人生を思うと、私の母は、本当にいらないようなものでも飛び跳ねて喜んでくれるような人だった。 1円にもならない工作、花
ここ半年、驚く程人生の調子がいい。 それまでが悪い時期が長すぎたのもあるけれど、その悪い時期を打ち破ってきたのは確実に自分自身の力だと思う。 大人になってから、何を転機にそうなったのかはよく分からないけど、良い意味で色んな諦めがつき、努力することを覚えた。 自分を助けてくれるのは自分しかいないし、幸せになるためには自分を愛さなければいけないという境地まで追い込まれたおかげだと思う。 ずっと感じていた生きづらさは、実は私の中にあって、「こんな環境じゃなければ」「私はもっ
大人になってから分かる大人のすごさがあると思う。 ここ最近一番感じるのは教師ってすごいなということだ。 私は勉強にはそこまで苦労してこなかったけど、唯一数学だけは小4くらいからつまづき始め、中学には赤点常習犯(というか、赤点以外取ったことない)になっていた。 今でも仲良くしてくれる小学校の担任だった算数の先生と中学の数学教師には謝りたい。あんなに根気よく教えてくれてたのにさっぱりでごめんなさい。 教師にも色々いて、 本当に今思い出してもクズ中のクズだな、同じ社会人と
元来、私は怒りっぽいことで有名であった。 それが自分の長所とすら思っていた。怒れない人は、言いたい事が言えない人と同義だと思っていたから。 それとはまた別に、いつもニコニコしていて怒らない人は、怖かった。何を考えているのかよく分からない人が多いからだ。 社会に出て、私は別人のように全く怒らなくなった。我ながら驚いた。 周りが怒り狂っていても、笑っているか、ぼーっと眺めている。 怒らなくなったのは、単純に疲れたし、怒って状況が良くなったシーンを見た事がないから。 感
自分のための日記だから、久々に更新したかと思えば誰にも伝える気のない記録をしようと思う。 10歳、生まれて初めて好きなバンドが出来た。 彼等は、「得意な事があった事 今じゃもう忘れてるのは それを自分より得意な誰かが居たから」 「期待されるような命じゃない」 と唄った。あの日が私のビッグバンだった。 有名な説で、人は14歳の頃に聞いた歌で好みが決まるというものがある。 女性の場合はもう少し早くて、平均して11〜13歳で好みが決まるらしい。 その頃の私は彼等の曲が
24年間生きてきて、自分のことはそれなりに理解してきたつもりでいた。 社会人になって、仕事を一心不乱に頑張って、(中略)さて仕事をやめるぞと決意した。 社内では恐れられていた、結構偉い人に呼び出された。怖かったけど、数回しか話したことないけど、なんとなく言動や立ち振る舞いからたぶん尊敬できる大人だなと思っていた人だった。 えっ、店長と話つければ退職出来るって聞いたのに、偉い人出てきた。どうしよう。 ボイスレコーダーをオンにし、制服の中に忍ばせ、恐る恐る着席。 「あの
有意義な無職生活を送ろうと思っていたのに、お決まりのパターンで体調を崩してしまい1週間のほとんどを寝込んで過ごしてしまった。 1週間で済んだのはマシな方なので、良しとしよう。 この1週間、引き篭もって自分の人生に想いを馳せて、必要最低限の食事を取り、とても日当たりのいいベランダの窓際に座椅子を置いて日光浴をして過ごした。 仕事のことや、色々な手続きのこと、調べることややる事は多少あったけど、社会から完全に離脱した生活に、心底安らいだ。 1週間色々考えたり、色んな情報を