他人の指す"後悔"が、自分の"後悔"とは限らない
はじめに
「〇〇に行かないと絶対に後悔する」
「〇〇をやらないと後悔する」
自分自身の行動予定を天秤にかける際、私はこの基準をとても大事にしている。
一方で、この基準を他人に押しつける事については、激しく違和感を覚えてしまうタチだ。
人によって、後悔に至る判断基準は異なると思う。
私は最近、その事をひしひしと感じるようになった…。
後悔の基準は人それぞれ
2022年、私の中で一つ、目標にしていることがある。
それは、【プロレス生観戦】の回数を減らすこと。
別に、プロレスが嫌いになった訳では全くない。
寧ろ、行かない事で、私の 持つ【好き】の濃度は増しているくらいだ。
減らす理由は諸々ある。
金銭面、自らの興味・関心、タイミング、今後のライフスタイルetc…。
それらの事が一致し合って、初めて観戦という動機に結び付くと、私は考えている。
色々な事情を考慮した上で、自らが後悔か否かを判断し、最善の選択を取っていく。
今の私が以前に比べてペースを落としているのは、そうした考え方の変化も大きかったりするし、【今までが寧ろ行き過ぎていた】という反省も影響している。
なので、例えそれが、他人から「見に行かないと後悔する」なんて言われた事だとしても、私の中では「それよりも後悔する事がある」から、最終的に決めた事も多く存在している。
今後の判断の参考にすることはあっても、決断そのものに対して後悔は無い。
そういう意味で、『後悔』というワードの矢印は自らに向けられるものであって、他人に向けた瞬間、その期待は凶器にも変わると実感している…。
最近の私は、3.19~3.21までの三連休中、プロレスを生観戦せずに過ごした。
東京女子プロレス(3.19)、DDTプロレスリング(3.20)、全日本プロレス(3.21)とビッグマッチが立て続けに組まれた三連休だったけれど、連休中に一度も生観戦しなかったのは、直近で記憶にない。
その分、連休中の時間は、中々会えない人(肉親)、暫く会えていなかった人、初めて会う人の場所に出向いた。
「興行を観戦したかった」とは思う。
ただ、私の場合、「人と会わない事の方が後悔する」という判断から、こういう決断になった。
だから、興行に行かなかった決断に後悔は無い。
"後悔"の基準は、人それぞれ…。
『後悔』より『オススメ』という軸
「重要な一戦です。動員の為にも絶対来てください。」
「アウェーに行かないと後悔する。」
私がサッカーのゴール裏民だった2012年頃、サポーターグループ内のメールで回ってきた文面だ。
当時、お願いというより半ば強迫めいた文面に抱いた違和感は、10年近く経った今もなお、拭うことが出来ていない。
単なる言い方の問題ではあるけれど、言う側に向けて「行かない事への負い目・ペナルティー」を持たせた所で、事は前進も好転もしないと私は考えている。
ましてや今はコロナ禍だ。
行きたくても行けない人が増えたという実感がある中、行けることは余計に当たり前ではなくなってきている。
数ある娯楽の中で、ファン以外の方がプロレスに時間を割いてくれるのが、何と有り難い事か。
かく言う私も、配信コンテンツや周辺機材(イヤホンetc)も充実しつつある中で、生観戦の優位性はコロナ禍以降下がりつつある事を実感している。
「行けなかった・観れなかった人は絶対損してる!」と言うより、「もしお時間があれば~」とか「機会があったら是非!」とか、【あくまでも選択肢の一つ】くらいのスタンスが丁度良いのだろう、と私は感じている。
ダメで元々のスタンスで話だけ出してみても、後日「○○さんのお陰で行きました」という所まで結びつくのは難しい。
だからこそ、「貴方のツイートがキッカケで足を運びました」と言われることが何より嬉しかったりするのだ。
まとめ
人間は後悔を積み重ねる生き物だ。
今でも、「あの時、こうしていれば…」と苛まれる事は多々ある。
私自身、そのような"後悔"が減っていったのは、大学生時代からだったような気がする。
授業、就職活動、社会人生活、独立etc…。
それまで、親や学校任せでも問題なかったような事でも、自分の決断や判断で対応しなくてはいけない比率が増えた時期でもある。
故に、自分の決断が基盤となり、責任を取るのは自分自身になった事で、冒頭に述べたような「○○しないと後悔するんじゃないか?」という判断基準と取捨選択を取り、そこに則して行動する。
だから、自分自身の決断に対して、あまり後悔しなくなったのだろう、とも感じている。
ただ単純に、私が"後悔"に対して鈍感なだけかもしれませんが(苦笑)。
後悔のないように生きるのは、とかく難しい…。
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