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面白さを追求することについて

本当に面白いと思っているかどうか

ベストセラーN万部、全米が泣いたといった文言をみると、毎度うんざりする。色々な界隈の著名人延いては海外が絶賛。こういった文面に踊らされている人が正直言って嫌いだ。自分が「面白い」と思うための確固たる意思ををもっていない。つまりは動機付けを他者や広告代理店等に委ねている。つい1日前まで興味のなかったことでも「何か」が働いたらそれに対して無自覚に漠然とした浅い興味心を抱かされていることに気づけないのだ。ノーベル文学賞が発表された途端その本を買ったり、図書館の予約数が急に増えたりもする。この違和感は一体なんなのだろう。もちろんそれがうまく作用するケースもあるし、好みの作品と流行りが一致するという意味では私自身そういった経験もある。がしかしやっぱり本にしても音楽等の娯楽は自分が真に面白いと思っているものを掘ることが一番大事だと思う。世の中に消費しきれないほどの作品があふれているのだからこういった姿勢で望まないと逆につまらない。こういう人たちは周りに流されているだけのコンテンツの消費などもはや作品に対して「無関心」とでもいっていいのだろう。大事なのは友達との話題作り、機能集団の中に溶け込むためのツールであって作品レベルや、媒体そのものはどうでもいいと思っている人が大半である。「信用する」という行為の元に人々が行っているのは無関心であると、『LAIR GAME』の原作者である甲斐谷忍さんは説いた。すごく影響を受けた台詞である。そしてここでいう「信用」は他のことにもあてはまるのではないか。つまり周りからの「評価」を信用しきっているが故にその作品のどこが面白いのかを考えず=無関心であり、無頓着に消費しているということだ。だからこそ例えば映画に倣えると、オスカー作品賞を獲った作品のレビューでも「何が面白いのかがわからない」「作品賞をとるまでのものなのか」「〜さんが面白いといったから面白いと思った」等。前二つは完全なる思考停止なので何も言えない。また、他人が(有名人込みで)面白いと思う感性とそれを実際に見る自分の感性は全くの別物なのにいつしか同期したような気になって取り組むから結果的に作品選びに失敗する。そしてその事に対して殆どの場合当人は無自覚であらざるを得ない。なんてつまらないエンタメライフであろうか。そんな人はどこまでいっても本屋では売れてる物しか買わないし、インフルエンサーと呼称される人が帯を書いた作品や、同じような自己啓発本をはじめ、東大・京大生の生協売り上げで1位になった著書ばかりを買う毎日なのだろう。だからこそ、興行で〇〇億を超えた超えないで作品の価値を決めつけていたり、ランキングの更新だけに異常な盛り上がりを見せる。当然商業作品の場合、箱にどの程度人を動員するかは最も分かりやすく、そして嘘をつかない数字である。そこが高いということはその作品は一定の面白さを勝ち得ているので、間違っているわけではないが、逆に言えばそれが全てでもない。が先述の通りそのこと以外無関心であるが故にその事実に気づけていない。そういった人たちが世に言うカルト作品やアート作品を観て分かるはずがないのだ。理由は単純明快。分かる物しか観たくないし観てこなかったからだ。

現に日本人が年間で見る映画の本数は1.5本というデータまで出ている。

日本人が一年間に映画館へ行く回数の平均は約1.5回。これは世界で43位に相当する。世界には200くらいの国と地域があるが、そのうち映画館なんて行ってられるような国は1/3くらいしかない。200か国中の43位なのではなく、6~70か国中の43位だと見るべき。ぶっちゃけ、日本人は「映画館へ行かない国民」だと言ってしまっていい。

※これには色々な要因があるとは思う。たしかに一般で1900円を払わないと見れない。そして1作1.5〜2時間の時間をかける娯楽であるため、費用対効果を意識して見ない人が多いということもあるだろう。

つまり年に2本もみてれば平均本数から考えれば見ている方に分類される。そして言わずもがな、その1本というのが少なくとも10年代前半まではスタジオジブリ作品などのウェルメイドなものばかりだったことは間違いない。
このような事実から浮き彫りになるのは、少なくとも映画産業において日本の「観客」の映画偏差値はとてつもなく低いということだ。だからどんなに有名な映画祭の作品をみても言葉悪いが理解できない人が大数を占める。そしてわからないからそもそも話のような評をもってきて作品を批判する。映像作品において観客にわからせる努力が発生する作品は親切ではない、という言葉や、万人がわからないような作品は観客に甘えていると言う人もいるが、そもそも映画というものは物語自体は三行で説明できるようなものをわざわざ数時間をつかってディティールを描くというコンテンツでもあるため理解しようとする姿勢がなければ楽しめるはずがないのだ。誰もが楽しめる枠組み映画としては、ただただ演者が大声で泣く、叫ぶといったある種役者の表現としてのエゴが働きすぎている作品は観客に感情を説明しているから受け手はそれをキャッチボールのように受け止めることができる。誰にでも分かりやすい演出。だから大ヒット。こういった作品も勿論必要ではあるが、そうではない観客が椅子から前のめりになってその演出(アニメを例に出すならば、涼宮ハルヒの憂鬱のエンドレスエイトのとあるシーンでとあるキャラの顔が演出的に写らないシーンがあるが、ああいった効能)自体に興味を抱かせる作品を観客側から積極的に観に行く姿勢というのをもっと活発にしていくべきである。

先ほどのデータ記事を読み解くと、面白いことに隣国の韓国は4.66。日本の人口の約半分という比率から考えても高い。そしてここ最近の秀逸な作品、特にポン・ジュノのような監督が出てきて世界で認められるというのにもやっぱり国民が映画をたくさん見ているからこそ、それに応える作品を作るクリエイターが出てくるのも必然だと考える。御涙頂戴映画しか大ヒットしない日本では優秀な作品はひたすらに埋もれていくのだ。幸いなことに日本にもまだ優秀な監督は健在だ。パッと名前を挙げるだけでも黒沢清、濱口竜介など成果・結果を残している人はちゃんといる。がそれに当の日本人だけがその才能に気づけないまま過ごし、今になってドライブマイカーの評価値で一斉に観にくる。外圧に弱いからか、あるいはやはり思考停止状態だ。ここで断っておきたいが、別に映画をたくさん観てる人が凄い・偉いというわけではない。ただ自国の文化にあまりにも無関心であるその状態が薄気味悪いということだ。

映画にフォーカスを置いて書いたが、どんなジャンルにおいても、世の大半はそういう人ばかりだということ。アンケートを獲ったわけではないため統計的には無根拠だが、冒頭に書いたような現象が頻発し続ける現状を見る限り、8割くらいは当たっていると思う。

が、しかしそうあるべきと考えることも当然ながらできる。なぜならエンタメにそこまで固執するほど現実にさまよってはいないからだ。映像作品や本などを大量に好むような人たちというのはどこかしら現実に満足がいっていない人が多い。つまりは逃避行としての「フィックション」に縋っているということ。そういった人が多数であるはずがない。なのでここに書いた「自分の面白いと思う感性」を磨いていない人というのはこの記事が公開されてもそんなには見には来ないであろう。逆に海の物とも山の物ともつかぬNOTEの新規記事を閲覧しにくるような人はむしろ感性を磨いた人が多いと考える。なので、もしどこかの一文にでも共感を覚えたらそういう意識をもつことを周りの人に伝道をしてほしい。


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