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【還暦のメロス】⑱川開きと花火(続き)

石巻を河口に持つ北上川が本格的に整備されたのは江戸時代の初期。
安土桃山時代末期に生まれた武将、川村孫兵衛は、山口県に生まれた。
↓川村孫兵衛の基本年譜は以下。記:(株式会社川村土建様のホームページを参照させていただきました)
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1575(天正3)年、長門国阿武郡(現在の山口県萩市)に生まれ、毛利輝元に仕えたが、関ヶ原の戦いで負けた毛利氏が大幅に減封された際に浪人となった。土木、治水、採鉱などの技術に優れた孫兵衛は伊達領、近江国蒲生郡滞在の折、伊達政宗家臣となった。仙台城下の水不足解消のための用水路、水害防止と水路整備を目的とした北上川の改修は、新田開発が容易になり、石巻の築港により舟運の便も格段に良くなり、地域の発展に寄与した。
さらには慶長三陸地震の津波被害は大きく、塩田開発をして製塩業による震災復興を図っている。
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つまり川村孫兵衛翁は石巻市の産業基盤を創った大恩人であり、震災復興のために尽くした先人でもある。

その川村孫兵衛の功績を後世に伝えるために始まったのが「川開き」という
お祭りなのである。


石巻市日和山に建つ川村孫兵衛像

石巻で生まれた昭和の少年にとってはそんな歴史などはまだ知らない。
ただ毎年、生まれ育った石巻の夏休みの唯一楽しみといっていいイベントが川開き祭りであり、その二日間のお祭りが少年の夏休みの彩りを華やかにしてくれたのである。
川開き祭りは、以前は8月1日、2日の二日間と決まっていた。土日とか祭日とかは関係なかった。日にちで開催日が決まっていた。今は8月に入って初めの土日の二日間と決められているようである。

少年は、1日の朝早く起きると、食事も早々にして、外に出かける。そうすると中央1丁目から2丁目、そしてサル͡コヤおもちゃ店の交差点からの立町通りに、大きな笹の木に吹き流しをつける大人たちがたくさん祭りの準備をしていいる。
少年はそうやってお祭りの始まりのワクワクした高揚感を楽しみながらただほっつき歩き始める。お小遣いは、ポケットに手を突っ込んでも無い。
そもそも少年は親からお小遣いをもらって、お祭りを楽しむということはしなかった。家が金銭的には貧しかったのは、肌身で知っていたし、親に金銭的な負担はかけたくない、という少年なりの気遣いを持っていたのだ。

そこで少年は毎年、川開き祭り限定で小遣い稼ぎをするのであった。
アルバイトとまでは当然いかない。そんな大金?を狙ってはいなかった。
いちにちお手伝いして、100円の小遣いをもらえる「案件」を探して道を徘徊していたのである。
通りのお店ごとに仙台七夕祭りの縮小版的な七夕飾りの準備をしている方のほかに、出店の準備をしている。綿あめやさん、イカのポッポ焼き屋さん、焼きそばやさん、などいろいろであるが、少年は輪投げやさんを毎年手伝うことに決めていた。(勝手に自分でそう決めていたのであり、契約とか、事前の取り決めとかあるわけない)
仕事で言ったら、飛び込み営業で1日、または2日間の時短バイトである。
輪投げやさんは毎年必ず川開き祭りには、数件の的屋さんが、どこかで店開きをしている。
少年はそのいくつかの的屋さんで、一人営業( ´艸`)しているおじさん(多分あの手の類の方々)の顔つきを観て、この人に決めたと決意して、おじさんに声をかける。
「おじさん、おはようございます。おじさん、毎年、川開きになると来てましたよね」と声をかける。
少年を見たおじさんが、一瞬不思議な顔をする。そして、すぐに返事を返す。
「おうよ、お祭り時は毎日どっかの土地で仕事してるよ」と少年に笑顔を向ける。
そうやって小学生にも普通に返事をしてくれるおじさんだったら、少年は信用して、お手伝いの申し出をする。つまり、初めの挨拶をまっとうに少年にもしてくれるおじさんは、まず裏切ることはない、というのが少年なりの大人への評価なのであった。そしてこの件については裏切られたことは一度もなかった。
少年の申し出を聴いて、おじさんは、少し考えて、
「んだば、午前10時から午後5時まで手伝ってけろ。そしたら、このポストの貯金箱とお代賃100円約束通りやっから」と引き受けてくれる。
「おんちゃん、ありがとう。そしたら10時にまだ来っから」と返事をしてその場を去る。

そうして小学低学年の少年は、ほぼ生まれて初めての「アルバイト」をして、ついでに輪投げを何度かさせてもらって、川開き祭りを楽しんでいたのだった。

「アルバイト」をやり切ったら、すぐに祭りエリアの近くの「住吉公園」に向かう。歩いて数分であった。
住吉神社があってそのあたりが広場になっていて、速い人は茣蓙を敷いて
花火大会観戦の場所取りをしている。
その目の前に長さ10mほどの「小島」がある。小島には川上側に1本の松の木がくねって生えている。
そこはのちに分かったのであるが「袖の渡し」といわれる由緒ある場所だった。
昔々のその昔に、源頼朝軍に追撃されつつ、平泉に向かった源義経衆が、北上川を渡る船代もない時に義経の高貴な着物の袖を船賃にしてもらって、対岸に渡って平泉に向かったという伝説のある場所だった。
だから「袖の渡し」といわれている。


石巻市住吉公園内の袖の渡しの小島



その近くの広場にも松の木が数本ある。その松の木のくねった上まで這い上って少年は夕闇の中、北上川から上がる花火を待っていたのだった。
当時は、川のど真ん中に小舟が何艘か停泊して、そこから水中スターマインなどをあげているのが、間近に観れたのだった。


石巻川開きの花火

                   ↑☆彡    後年東日本大震災の後に作者が作詞作曲した「川開き」という歌をある年に、友人がある場所で弾いてくれました。途中までです

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夜になって松の木の上に座りながら、少年は買ってきた「しまかげ」の
アイスバーを頬張る。食べた後に残ったバーに「しまかげ」という字があればもう1本交換できるが、まずそんなラッキーはなかった。
しかしながら少年は「アルバイト」で稼いだお金でアイスバーを頬張りながら、目の前の空高くまで上がったスターマインの輝きを観ながら、将来のy目などは一切考えずに、その祭りのひと時を楽しんで、心に喜びだけを感じながら、強烈な花火の音を命に刻んでいたのだった。

            ~~⑲へ続く~~~


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