見出し画像

【初愛】~君に捧ぐいのちの物語⑤ー3 黒田勇吾

私は、小さいころから石巻市の日和山という丘で、遊びながら育ちました。
内陸側の坂道の下は、毎日通っている石巻小学校。その小学校の道から、少し上がると小さな池のある海門寺公園があり、そこから子供の足でも5分ほどで日和山の丘に辿り着けます。丘には神社があって、その横から10段ほどの階段をのぼると、もう見渡す限り、太平洋の海原が広がっているのが一望できる広場があります。もともとこの丘は、石巻城がかつての昔、あったところでした。

4月中旬になると、花見客で賑わい、5月になると色とりどりの躑躅の花が咲き香る。それを観に観光客が大勢訪れて、土日には、花見の酒宴で騒がしくなる。躑躅を愛でた後も、また酒宴が続く本格的な春の賑わいの季節。
石巻港に漁船を停泊させている、酔った漁師たちの騒がしい喧嘩も時に起きるのが当たり前。そんな場所でした。


勉強嫌いの少年は、毎日のようにその野山を駆け巡り、時には小学校の反対側の海側の長い階段を下りて行って、南浜町という街並みを抜けて、ひばり野海岸の砂浜で、裸足になって夕方まで波と戯れていたものでした。

日和山にいるときは、躑躅の花をむしって、お花のお尻から蜜を吸う。
それもひとつやふたつじゃない。
そこら中に花をばらまきながら、蜜を吸っていたとんでもない野蛮少年。
花がどうなろうと知ったことじゃない花心のないミツバチ少年でした。

その数十年後に、その丘が、大津波から逃げてきた数千人の避難地に
なることなど夢想だにせず、また少年はあのひばり野公園も、松林がある砂浜も、迷路のようになっている住宅街や、門脇小学校でさえも、すべて津波とその後のガスボンベの爆発から瓦礫に引火した炎によって、一晩中燃え続け、そして焼け野原になってしまう未来など考えもせずに、そこらじゅうを駆けずり回っていたのでした。

東日本大震災発災一年前は、学習塾を閉めた後。その南浜町の一角のパソコンスクールで、就活の一環として、失業保険を頂きながら、ワードとエクセルの基本的なパソコンスキル習得に通っていました。丁寧に、タイピングの基本からMOS資格の合格のためのノウハウを私のような初心者おじさんに詳しく教えてくれた20代の青年男女が、2010年11月末まで教えてくださった。楽しい日々だった。
それからわずか4か月後の3月の金曜日、彼女達もその場所で、いつもと変わらずパソコン指導をされていた。

あの日まさか車の渋滞で動けないまま、津波に飲まれて亡くなるなど考えもせずに笑って勉強し、発災時直前まで頑張っていたと後から伺った。未来ある若きいのちを連れ去っていった海。

振り返ると、震災が起きる前のすべてが夢の中の出来事のようだった。そんな想い出を振り返りながら、仕事を辞めた後、時々日和山から海をずっと眺めていた。この北上川河口から先に広がる太平洋の大海原に、いったいどれだけの方々が眠っているのだろう。
遥かなる彼方の水平線の輝きを見ながら、私はたくさんの解決できない想いを心にわだかまらせて、持て余していた。


自宅に帰ってくると、ピアノの前に立ちながら、鍵盤を人差し指だけでなぞりながら、複雑な心の中を音にしていった。

やがて私のぐちゃぐちゃな心の想いが、亡くなられたたくさんの清らかな人たちとの想い出によって濾過されていき、素直なメロディーと歌詞となって蘇り、浄化されていく水のように流れ始め、浮かんでは消えを繰り返す中で、ようやくひとつの追悼の歌、が生まれた。
ピアノで何度も音を確かめながら、歌詞をもういちど推敲して、自分とみんなの心の世界を繋いでひとつの歌に纏め上げたのが、1月の末だった。
確かに時間がかかった。
そして楽譜におこした歌を自分で歌いながら、これ以上は無理だよー、と思って完成させた歌、それが「追悼の歌 水平線を越えて」だった。

私がこの歌を創ったのは、ただ一つの理由からだった。この歌一曲を一枚のCDにして、合計で20枚創り、そしてそれを地元の友達や親せきや知人に渡そうと思った。皆いちように震災で亡くなった親や兄弟や子供がいた。
だから一枚ずつ配ってとにかくこの歌を贈ろう、と思った。そしてこれで自分の震災に向き合う心をいったん休めようと決めた。
悲しみで心が疲れ切っていた。

歌詞と曲は完成した。しかし伴奏と、この歌を歌ってくれる人を探さねばならない。

私がすぐに思い浮かべた人は、地元のある女性だった。
ピアノ講師として、働いていた菅原さんだった。当時の大河ドラマの主題歌を
ある時にピアノで披露してくれて、感動した経験が忘れられなかった。彼女しかいない。そう感じた。
そして彼女も、被災者の一人だった。

連絡をとって譜面を渡した。素人が創った歌に、それこそ真剣に取り組んでいただいた。ほんの数日間で、デモテープ風に録音した歌のカセットテープをわざわざ自宅に持ってきていただいた。ボーカルは、菅原さんが、歌を教えていた20歳の今野さん。
歌手を目指して頑張っている女性だった。

私はCD制作などまだ一度もした経験がなかった。どうしようか、と考えていた時に、
石巻ご出身で、震災以降に繋がって、今は長野県にお住まいのある方が、私の話を聞いて、CD制作はできますよ、と名乗りをあげていただいた。なんとその方に無償で20枚のシングル盤のCDを創っていただいたのだった。
そのアルバムを手に取った時の感動は
生涯忘れないだろう。淡い水色の海を
背景にした、『追悼の歌水平線を越えて』の初めてのCD。

寄り添っていただいたたくさんの仲間たちによって出来上がった、私自身の拙い寄り添いの歌のCDを、一枚、一枚、知り合いに渡していった。
仮設住宅にお住まいのあの方。両親と子供二人を失った以前の会社の先輩。
30年来の友人で、妹さんご夫妻が未だ行方不明のままになっている友達に、CDを一枚渡したときはこう言った。
『こんな歌、創ってみたんだけど、
聴いてみてくんないかな。沢山の方の応援で
出来上がったアルバムなんだよね』
彼をはじめ、みんな、うん、うんと頷きながら、
受け取っていただいた。。。。。


あれから11年。20枚のCD制作で終わるはずだった復興支援の想いは、やがて違った形に変わっていくことになる。

⁂フォトは、2012年8月に、私が住んでいた仮設住宅の土手に花開いた
向日葵たち。


   〜初愛⑤ー3 終わり〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?