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【製本記】 小川未明童話集 02 | 自分という穴ぼこ

本をつくってばっかの日々。編集者として本を編みながら、時間を見つけては製本家として本をこしらえている。編集した本は世にでて光を浴びるが、製本した本は暗所に埋蔵するだけの習作も多く、せめてここに記録する。

解体した『小川未明童話集』を、再び組み立てる。ページとページを和紙で貼りつなぎ、二つ折りにして重ね、16ページの折丁にするのだ。折丁の内側は雁皮紙を使って厚みを抑え、折丁の外側はやや厚みのある半紙を使って強度を補う。計360ページ、全22折半。地道な工程だ。

桜の花びらみたいに薄く儚い雁皮紙は、少々扱いにくい。手が慣れてきた頃がいちばん危うくて、うっかりすると、たちまちくしゃっとなる。力んではうまくいかず、とはいえ気を抜いては失敗する。頭は冴え、心は凪ぎ、手はとめどなく動く……そんな状態をいかにキープできるか。これぞ手製本に求められる基礎力で、要するに集中力と持続力の問題だ。


ところで、小川未明は大変に気の短い人だったらしい。彼の作品の多くが短編なのは、そのためだともいわれている。それはつまり、未明が短編を一気に書きあげていたということであり、持続力のほうはともかく、未明の集中力が尋常ならざるものだったことは想像にかたくない。

それにしたって気が短いというのは、あまり褒められたことじゃない。死後50年以上経ったいま、ウィキペディアにはっきり「非常に短気」と書かれているのを未明が知ったら、それこそすぐさま癇癪玉を破裂させることだろう。ところが、そんな未明自身の人物像とは裏腹に、未明童話の土台にどっしりと横たわる精神性は、むしろ忍耐強さこそが特徴であるように思える。


未明童話の一つに「赤い蠟燭と人魚」がある。ほとんどの童話集に収録されている代表作で、酒井駒子さんの挿絵で単行本化されてもいる。物語は、北方の海をさすらう孤独な人魚の逡巡からはじまる。

人魚は、まもなく生まれる赤ん坊の行く末を案じていた。暗く寂しい海にあっては、いずれ自分と同じ孤独を味わうことになる。ならば、明るく豊かな陸に暮らすほうがしあわせではないか。「人間は、この世界のうちで、いちばんやさしいものだ」— こんな流言を信じた人魚は、海辺の町に赤ん坊を産み落とし、わが子の未来を人間に託す。

蝋燭屋の老夫婦に拾われた赤ん坊は、大切に育てられ、やがて美しい娘に成長する。娘は、おじいさんのつくる蝋燭に赤い絵具で上手に絵を描いた。その蝋燭は不思議な力をもっており、山の上のお宮に灯すと、人々を海の災難から守った。しかし、穏やかな日々は長くはつづかない……。

人魚の噂を聞きつけた香具師(やし)が現れ、金に目のくらんだ老夫婦は娘を手放してしまう。すると、娘の残した赤い蝋燭が、今度は人々に海の災難をもたらすようになる。災いの絶えない海辺の町は、やがて滅びた。


何もかもが負のスパイラルに絡めとられていくこの物語は、およそ童話らしくない。人魚の母は、信じたはずの人間に裏切られる。人魚の娘は、育ての親に売り飛ばされる。娘を育てた老夫婦は欲に溺れて身を滅ぼす。娘を手に入れた香具師は嵐で難船する。そして海辺の町は、栄華の末に廃墟となる。

背信、失望、強欲、災難、衰退……この救いのなさを、一体どう受け止めたらいいんだろう。でも、背信も強欲も災難も失望も衰退も、この世界のいたるところに転がっていて、これらと完全に無縁の人生なんてあり得ない。未明は、現実に「ある」ことを「ない」ことにはしてくれないのだ。

逃れようのない苦しみを忘れさせるのがやさしさなら、その苦しみを掬いあげるのもまた、やさしさだ。とりわけ、苦しみを耐え抜くしか生きる術のない人々にとって、苦しみを看過されるほうがよっぽどつらいことなんじゃないだろうか。未明は、人生のやりきれなさを隠さず、虐げられた人々の報われなさを否定しない。そのうえで、弱き人々の忍耐強さを敬い、人魚の親子が海の底で再会したかもしれないという微かな希望の余韻を残す。


だけど、こんなのはわたしの勝手な解釈だ。「赤い蠟燭と人魚」は愛と狂気の復讐劇であり、人間の愚かさへの戒めであり、資本主義への批判であり、人間が自然からしっぺ返しを食らう話でもある。いまどきなら、そもそも簡単に人間を信じた人魚のほうにも問題がある、なんて見方もありそうだ。

果たして、未明の思いはどこにあっただろう。物語の冒頭、人魚の母が人間に寄せる信頼はあまりに純粋だ。それは、人間と獣や魚の違いは何か、つまり「人間を人間たらしめているのは何か」という哲学的な問いをも投げかけてくる。この問いこそが未明の肉声であるような気がするのだが……これもまた、わたしの勝手な思い込みだ。

さまざまに読み解くことができるからこそ、この物語は時代を超えて読み継がれているのだろう。では、物語を読み解くとはどういうことなのか。それは、読み手が作者に近づくことではなく、自分に近づくことなのだと思う。


山の上のお宮にあげられた蠟燭の火影が、ちらちらと揺らめく。それは「殊に、夜は美しく、灯火の光が海の上からも望まれた」。蠟燭の炎は海の面に無数の光を映し、宝石のように輝いては波間に溶けていっただろう。

未明童話は、こんな幻想的な光景で読み手の心を震わす。見惚れるうち、いつしか思考は内へ内へと向かい、やがてこの世でもっともつかみがたい「自分」という深い穴ぼこに沈んでゆく。わたしが未明童話を好むのは、普段はことさらに意識することのない、この穴に潜りたいからかもしれない。

さて、組み立てを終えたら、余分な和紙を切り落とす。本文の天地からこぼれでた和紙の様子が、なかなかいい。白い小片を一つずつ切る作業は、なぜか厳かな気持ちを掻き立てる。心ならずも刃を振るった本に、再びいのちを吹き込む儀式のようなものだからだろうか。


●『赤い蝋燭と人魚』小川未明 文/酒井駒子 絵(偕成社)


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